街を、殺す

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 びょううう……ん、と空気が鳴いている。  頭上の看板が不吉な音とともに震えたけれど、その音も風の鳴き声にあっという間にかき消されてしまった。  派手な音をあげながら、懐かしいフォルムのポリバケツが目の前を横切っていく。もちろん空っぽ。中のゴミはそのへんに散乱しているのだろう。  けれど、いつもならそこに群がるはずのカラスたちは、今日はどこにも見当たらない。さすがにこの強風では、やつらも自由に羽ばたけないのだろう。ざまあみろ。一生どこかに隠れていろ。  私は、カラスが嫌いだ。  疲れた足取りで歩く朝靄のなか、甲高い鳴き声をあげながら渋谷のゴミを漁っているあいつらを見かけるたびに、いつも大事な何かを少しずつ削られていくような気がしていた。  たぶん、あいつらが自分と似ているせいだ。他人のおこぼれをかすめとらないと生きていけない、まっ黒な鳥たちとちっぽけな自分。  けれど今、この街にカラスはいない。人すらほとんど見かけない。あの、いつも数えきれないほどの人であふれかえっている、駅前のスクランブル交差点でさえ。  渋谷駅からここまでの道のりで出くわしたのは、ずぶ濡れになりながら泣いていた女性と、雨合羽に身を包んだおじさんふたり。あとは、のろのろと私を追い越してゆく車の運転手たちくらいだ。あの人たち、なんで今日はあんなにゆっくり運転しているんだろう。強風ってそんなに車の運転に影響があるのかな。  「最大瞬間風速42.8メートルを記録」──  そんな文言を見たのは、出がけに確認したニュースサイトだ。  じゃあ、今はどれくらいなのだろう。  どれくらいの風速なら、炎はこの街を舐めつくしてくれるのだろうか。  右ポケットに手をつっこんで、とっておきの武器を確認する。  昔懐かしいマッチ。ぼこ、と表面が出っ張っているのはエンボス加工が施されているせいだ。葉っぱの図柄のふくらみ。それをゆっくりなぞることで、私は逸る気持ちを落ちつかせた。  ごうううんっ、とまたもや不吉な音が空気を震わせた。  大丈夫、もう鳴くことはない。  これから私がこの街を殺すから、そんな悲しげな声をあげることはない。  メインの通りから一本はずれた路地に入り、古びたビルの軒下に身を滑り込ませる。  濡れた右手をスカートでぬぐって、再びポケットに手を突っ込んだ。  耳をすまし、風の勢いが少し弱まったところで、私はマッチ箱を取り出した。  さあ、いよいよだ。  強風と雨粒を浴びながら、私はマッチを1本擦った。  おかしい。どういうわけか着火しない。自宅で6回試してみて、そのうち2回は一発で点いたというのに。  結局1本目は湿ってダメになり、2本目は一瞬火が点いたものの、すぐに強風に吹き消されてしまった。  心が折れかけた。もしかしたら、今日は「その日」ではないのかもしれない。神様が「別の日にしなさい」と忠告しているのかも。  けれど、そんな私の頬を、怒り狂ったような風が殴打した。目も開けられないほどのその激しさは、嫌でも私に「あの男」の存在を思い起こさせた。  5年前、あの男に連れられて私はこの街にやって来た。男は、私にいろいろなことを教え込み、私の大事なものを片っ端から奪い取っていった。 ──「俺好きなんだよね、この街」  いつかの、男の声がよみがえる。 ──「なんかホッとするっていいうか、心地いいっていうか」  荒れ狂う風を浴びながら、私は3本目のマッチを手に取った。  点いた。今度はあっさり着火した。  風に乗った小さな火は、あっという間に炎になる。  目の前のゴミ袋、飛んできたチラシ、そこから街路樹へ。さらに隣の雑居ビルや向かいの細長いビルへ。  次々と増えていく炎の陣地に、私はえもいわれぬ興奮を覚えた。  ああ、殺されていく。  私の嫌いなこの街が、なすすべもなく飲み込まれていく。  色とりどりの炎。白、緑、青、紫──紫は、特に美しく、鳥のはばたきのように斜め前のビルを包みこんでいく。  その隣の小さな小屋からは、パチパチとピンク色の光が放たれた。煙はなぜか緑色。ああ、なんて安っぽい飴玉のような組み合わせ。  もはや、お祭りだ。  ここに私しかいないのが惜しいくらいだ。  いや、もしかしたら雨合羽を着たおじさんたちも見ているかもしれない。泣いていた女性も、今は声をあげて笑っているのかも。  さあ、ゆけ。飲み込め。  赤、黄色、オレンジ、ピンク、白、緑、青、紫──美しいその色で、どんどんどんどん、この街を殺してゆけ──  カァーッと耳障りな鳴き声が、私の耳に突き刺さった。  私は、打たれたように顔をあげた。  吹き荒れる雨、雨、雨、そして強風。冷えきった空気のなか、私は恐る恐る周囲を見まわした。  そこに色とりどりの炎はなかった。雑居ビルたちはくすんだ色のまま、雨風にただ打たれているだけだ。  私は、恐る恐る右ポケットに手を入れた。  たしかに、ここにはマッチがある。けれども表面はつるりと乾いたままだ。  ──大丈夫。私は誰も殺していない。  そしてこれからも、この憎しみは手放さない。  かわりに、何度も心のなかだけで殺し続ける。  嫌いなもの、憎いもの、自尊心、大事な何か、この街、あの男、それから── 「カラス」  私とよく似た、あのいやしい鳥たち。  もう一度、耳をすましてみる。  あの鳴き声は、もう聞こえない。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!