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稀人(まれびと)‐7‐
木々が生い茂る道なき崖を、鎮は慣れた様子で飛ぶように下りていく。
つかまりやすい枝。足場になる岩。
すべて体が覚えている、子供のころから通い慣れた道だから。
目をつぶっていても、転げ落ちずに湖岸までたどり着く自信があった。
下りた先のこじんまりとした湖岸の端は、湖に垂直に落ち込む急斜面の森が迫っている。
そこには覆いかぶさる大木の枝に隠された、すぐにはそれとわからない洞窟が存在した。
今では体を屈めないと入れないけれど。
子供のころにはしょっちゅう洞の中に入っては、耳を塞ぎ、目を閉じていた。
そうしているうちに、いつの間にか「追ってくるモノ」はいなくなっていたから。
人であろうと、アレであろうと。
いつも「あの人」が助けてくれた。
必ず寄り添い、慰めてくれた「あの人」が。
瘴気を放つ水柱は、その大事な洞窟の近くから上がっていた。
(急がないと!)
こんな日が来ることを、鎮はわかっていたような気がする。
だから、そのためにずっと技を磨いてきたのだ。
「わ、ちょ、秋鹿さん、相変わらずはやっ!」
鎮のための岩場や支えの枝は、ガタイのいい煌には心許ないらしい。
煌は途中で足を使うことを諦めたようで、尻で滑りながら落ちていった。
「いっってぇっ!……くぅ~」
砂利やら小石やらに突っ込んだ派手な音と、煌の呻き声が聞こえてくる。
そして。
「なんなん、アレ……」
鎮が湖岸に到着してみると、尻もちをついた煌が、そのままの格好で、じりじりと後ずさりをしていた。
黒い……。
水柱ではなく、霧柱とでも言えばいいのか。
湖から黒い蒸気のような物体がゆらゆらと立ち昇り、あの”キラン”と名乗った男性の体全体を包みんでいる。
霧柱からは何本もの枝のような、触手のようなモノが伸びて、キランの首を締めあげていた。
「ぐ……、くぅ……」
「オノレ……オノレ……。ザマア、ミロ。反撃デキヌダロウ。タリヌダロウ……」
唸る霧柱に巻き付かれた、キランの指先の動きが間遠くなっていく。
(!)
呆然と見守っていた鎮の頭のなかで、突然、何かが弾けた。
声ではなく、ただ思いが巡っていく。
『わたしを呼んで!』
切羽詰まったその願いを、鎮は瞬時に理解した。
振り返ると、洞窟の中で小さな灯りが明滅している。
吸い寄せられるように鎮の足が動き、洞の入り口にたどり着いたときにはもう、自分が何をやればいいのかを理解していた。
鎮はかつて教えられたとおり、右手の親指と薬指を丸くした印を結ぶ。※1
「オン・アミリテイ・ウン・ハッタ」※2
唱えるうちに、大地の鳴動が足裏に伝わってきた。
「シネっ!キランっ!」
霧柱の強烈な殺意が、炎のような熱量で鎮の背中を焦がす。
「オン・キリキリ・バサラ・ウン・ハッタ!」※3
洞の燈火が輝きを増したかと思うと、巨大な光球となって、入り口の岩を砕きながら飛び出していった。
※1 軍荼利明王の咒、三鈷印
親指と薬指を丸くして、ほかの三指は立てる
※2 軍荼利明王マントラ 「聖なる軍荼利明王よ」
※3 軍荼利明王マントラ続き 「浄めて下さい 砕いて下さい」
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