欺く夏

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 首を傾げる少年に、オレは手を差し出した。おずおずと伸ばされるちいさくてあったかい手のひらを、思い切り掴んでベンチから立たせる。手のひらの渇きは季節外れなのに、とても柔らかくて嬉しくなる。 「あしたも? コウちゃん」  見上げられ、やっぱりどきどきする。緊張じゃないし、でも変にこわばる硬さじゃない。得体の知れないむずがゆさが、つま先から迫り上がる。 「うん、あしたも遊ぶ。決めた!」  今にも泣き出してしまうんじゃないかと思うくらい、少年は一度ぐしゃっと表情をゆがめ、屈託なく笑った。その日からずっと、少年はオレを「コウちゃん」と呼んだ。  翌日、また同じ公園で、今度は少年が自分の名前の漢字をオレに教えてくれた。小さなメモ用紙を広げて棒切れを拾い、「浅野洋平」と砂に描くつたないしぐさが印象的だった。 「洋平?」  そのふるまいにくすりと笑うと、彼はぶんぶん首をふる。 「浅野でいい」  じぶんのなまえきらい。  少年の目に、静かな暗闇がおとずれる。すうっとした声色はまっ平らで、冷たかった。  ――あのひとのことはまってない。  あれと、ぴったり重なった。 「え、あ、なんで?」  しまった、と思った。これは聞いちゃだめなやつでは? と、反射的に浮かんだ。わけもわからないちいさな罪悪感のようなものが、とつぜん腹の中にちりつく。焦ってどぎまぎしているオレをよそに、浅野はきょとんとしている。 「あのひとから、もらってるから、だとおもう」  ふるいけや、かわずとびこむ、みずのおと。  また同じ音だ。 「へえ、そっか」  口もとだけで笑って答えるしかできなかった。喉の奥ががさがさして、おかしな気分だった。  みーん、と蝉が鳴く。虫の合唱が夏の熱い空気と絡まった。  オレと浅野は、夏休みのあいだ毎日のように公園で遊んだ。バスケットの真似事、鬼ごっこやかくれんぼ、植樹の裏に秘密基地をつくり、お菓子を持ちこんで頬張った。同級生から誘われても断り、浅野を選んだ。相手はまだ五歳なのに、浅野と遊ぶことは楽しかった。ときどき歯を見せて笑うしぐさがかわいく、弟がほしかったオレは錯覚する。弟みたいなものだから、ずっと一緒に過ごすんだ、なんて。  ときどき話もした。といっても自分の話をしない浅野に、オレが好きなことを好きなように話すだけだ。 「夏休みの宿題多いんだよ、ムカつくわ」 「うん」 「母ちゃんがさ、午前中にしろってうるせえし」 「へえ、じゃあやんないと。しゅくだい、してきた?」 「してねえし」 「はは、だめじゃん」  浅野は、楽しそうに笑いながら聞いてくれた。オレが母ちゃん、と呼ぶのは「お母さん」と呼ぶのが気恥ずかしかったからだ。でも、下から笑顔で覗きこまれると、見透かされているみたいできまりが悪い。ちがう話をしても浅野は、へえ、うん、うん、それで? それからどうしたの? と幼く尋ねてくる。黒目がちの瞳に暗さはうかがえず、安心したし嬉しかった。  日暮れのころには夕焼けを見て、カラスが鳴くのを聞いて、橙と濃紺のあとさきを確認して、ちょっと切なくなった。あしたの約束を交わすから不思議と穏やかだったけれど、オレから告げるのはすこし寂しくて、自分から別れの言葉は言わなかった。 「そろそろ帰るね」  浅野が言うとオレは、うん、とうなずく。そうして手を振って背を向ける。あるいはときどき、大人の女性が迎えに来た。その女性は遠目からでもわかるほど若々しくきれいで、オレの母親とさほど年齢は変わらなく見えた。とても「あのひと」呼ばわりするようなひとには思えず、ほっと胸を撫で下ろす。 「なーんだ、母ちゃん迎えに来るんじゃん」  浅野は、拍子抜けしたようにまばたきする。 「ちがうよ、ばあちゃん」  オレがためらう笑いかたを、浅野はよくする。目を逸らしたり伏せたりして、急に色彩がかげる。夕方だから? 薄暗いから? それは、浅野の中にいるべつの浅野みたいだった。急に先を行ってひとりで大人になったような、ほかの子どもとのちがいをはためかせる瞬間だった。 「ばいばいコウちゃん」  浅野はいつもそう言って、手を振って帰った。「ばあちゃん」の話を、オレが聞くことはなかった。
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