波の下の都2

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波の下の都2

 建久(けんきゅう)元年(一一九〇)――。  俺は、厳島を出ると、まず瀬戸内の海を越え、讃岐国(さぬきのくに)屋島(やしま)へ渡った。  平家一門が滅亡したとはいえ、瀬戸内はまだまだ平家の海であった。相国様が生涯をかけて開いた航路の恩恵にあずかっている者は少なくなく、今もなお平家に対して恩義を感じている者もまた少なくないのだ。  そのことは平家の落人となっている今の俺にとっては好都合だった。  屋島に上陸した俺が向かったのは、とある墓所だった。そこを訪れることは最初から決めていた。もしも源氏の郎党らに見られたなら、平家に連なる者かと詮議されたかもしれないが、幸い誰にも見られることはなかった。  今の屋島は、かつて平家が内裏を構えていたことなど見る影もないくらいに変わってしまっていた。しかしそれも無理からぬことだ。  寿永四年(一一八四)にこの地で我らが義経率いる源氏と戦った折、我らは敗れ、何もかもを焼き払ってから、再起を図ろうと長門国(ながとのくに)彦島(ひこしま)へと落ちていったのだから。  焼き払われた内裏に帝がいるはずもない。ここにあるのは潮の香りとかすかに聞こえてくる潮騒のみ。時の流れは儚くも無常で、その流れの下に人の思いをも沈めてしまうものなのだ。  俺は、かつての内裏を後にすると、一路阿波国(あわのくに)祖谷(いや)を目指した。そこである人物に会うために。  山間に入るまではこの地の者が使っていると思われる道もあったが、奥深く進んでゆくにつれて、遂にその道もなくなり、俺は四国の果てで道なき道を行く者となった。  切り立った崖や深い谷、何処からか聞こえてくる怪鳥の鳴き声、こんな山深いところに果たして人など住まいしているのだろうか。  途中にあった大きな川を渡ると、俺はいよいよ前人未到の地に踏み込んだ気分になった。しかし、このような場所だからこそ俺には確信もあったのだ。  平家の落人が源氏の追手の目を逃れて生きていくにはうってつけの場所であると。  壇ノ浦の戦いの後、一門のほとんどの者は波の下の都に行ってしまったが、俺が厳島で過ごしているうちに幾つか聞こえてきたうわさ話がある。  そのほとんどは平家の落人が今もなお人里離れた場所に隠れ住んでいるというものだった。その中には一門の上位に列する方や帝に関するうわさ話まであった。  俺は、その中の一つに目を付けた。  もしもそのうわさが本当なら、鎌倉の頼朝を討つのに大きな力となるものであった。  どのみちあのままいつまでも厳島でいるというわけにはいかない。  俺は、そのうわさを確かめるために厳島を離れたのだ。  しばらく谷沿いにけもの道を進むと、俺は一本の橋に突き当たった。  それは何と(かずら)を編み込ませて谷の上に掛けられている橋だった。  向こう側に渡るのにずっと上流、あるいは下流まで行かずとも良いように掛けられた橋だろうが、蔓で作られた橋など俺は今まで見たこともない。  本当に人が渡れるものなのだろうか。俺の様な大男が渡ろうとすれば、重みに耐えかねて切れてしまうのではないだろうか。  だが、これではっきりした。この橋を渡った先には集落があるということだ。  俺は、戦場ほどのこともなしと意を決し、蔓の橋を渡った。  多少揺れはしたが、橋は俺が渡っても切れて落ちてしまうようなことはなかった。かなり丈夫に念入りに編み込まれたものであるらしかった。その技量に感心するばかりだ。  できればそう何度も渡りたくはないものだが。  橋を渡ってしばらく進むと、俺はいつの間にか誰かに付けられているということに気付いた。俺が今通ってきた後ろに一人、そして俺が進もうとしている前にも一人。その気配からは歓迎されていないことが分かる。  果たして、それらは俺が目的としている者たちであろうか。 「待たれよ。おぬし、何処から来た?」  不意に前方に弓を番えた男が現れて俺を狙いながらそう言った。同時に後ろ側からも言葉は発さないが同じように弓を番えた男が俺に狙いを付けたまま歩み出てきていた。  百姓や木こりの成りはしているが、明らかに身のこなしがそれとは違う。 「俺は敵ではない。と言ったところで信用してはもらえぬか。その用心深さは賞賛に値するな」 「どこから来たのか訊いておる」  困った。どうしたものか。  この者たちが平家の落人であるならば、無駄な争いは起こしたくはない。  かといってこのままでは否応なしに争いになってしまう。  逆に源氏の追手である可能性もある。その場合、自分の素性をばらしてしまうのは都合が悪い。はて、どうしたものか。  思案していたとき、生い茂った木々の中から声がした。 「やめておけ。その男はそなたたちにどうこうできるような男ではないぞ」  木々の間から現れたのは鉈を持った一人の男であった。山菜集めにでも出かけていたようないでたちだ。 「これは国盛(くにもり)様。このようなところに」 「うむ、少し山菜を集めがてら辺りを見回っておった」 「左様でしたか。して国盛様は、この男が何者か知っておられるのですか?」 「ああ、よく知っているぞ。その男は、去る屋島の合戦の折、源氏の郎党美尾谷(みおのや)十郎(じゅうろう)国俊(くにとし)の兜の(しころ)を素手で引きちぎったかの悪七兵衛(あくしちびょうえ)景清(かげきよ)ぞ」 「何と!」  俺の前後を挟んでいた二人の男が明らかに動揺した。 「恐らくうわさを聞き付け俺に会いに来たのであろう。なあ、そうであろう、七郎よ」  そこで初めて男は俺の方を向き、懐かしきものを見るような目で俺を見た。  それは、まさしく平家最強と謳われた武士、能登守平教経様の鋭い目であった。  俺は、壇ノ浦の戦いの折、舟から舟へと飛び移り一人の武士を追っていた能登殿を見ている。その追っていた武士があの九郎判官義経だと知ったのは、それからしばらく後でのことだった。  (ましら)の如き身軽な男だった。いや、あれは天狗というべきか。  能登殿に斬れなかったのだから、他の誰にも義経を斬ることは叶わなかっただろう。  俺は、つい先程まで俺に矢を向けていた男に案内されて、木々を抜けたところにある集落の一軒家に入っていた。目の前には能登殿が座っている。 「能登殿」 「俺は、もはやそのような者ではない。今はただの国盛と名乗っている」  国盛とは確か能登殿の幼名だ。源氏の目をくらませるためにそう名乗っているのだろう。 「では国盛様、よくぞご無事で」 「そなたもな」 「ここへ来る前に屋島で菊王丸(きくおうまる)の墓を参りました」 「そうか。そなたのような剛の者が訪うてくれたのであれば、あれにはさぞ供養になったことであろうよ。俺からも礼を言う」  菊王丸というのは、国盛様が連れていた童だ。  屋島の戦いの折、国盛様が射殺した義経の郎党佐藤(さとう)継信(つぐのぶ)の首を斬ろうとしていたところを、その弟の佐藤(さとう)忠信(ただのぶ)に射殺されたのだ。哀れに思った国盛様が彼の地に墓を建てた。 「それは宋国の剣か?」 「はい、相国様が夢枕に立ち、俺に下さりました」 「伯父上が? 伯父上め、俺のところにはまるで現れん。まあ、現れたところで俺にも合わせる顔はないがな」  しばらくは昔話に花を咲かせていたが、俺がここに来たのは遠き昔を懐かしむためではない。そのことは国盛様にも分かっていたようで、俺が居住まいをただすと、国盛様もその顔を引き締め、俺を見た。 「鎌倉の頼朝を討とうと思います」 「そうか、だがどうやって討つ? 我らを打ち負かしたあの義経でさえ、遂には頼朝に滅ぼされ、遠く彼方の奥州の地にて露と消えたのだぞ」  義経が頼朝に滅ぼされたことは俺も知っている。だが、だからこそ頼朝は討たねばならないのだ。 「俺に考えがございます。そこでできれば国盛様にもご助力いただければと」 「やはりそうか。そなたを見た瞬間、そのようなことであろうと思った」 「ならば」 「いや、七郎よ。俺はここを離れる気はない」  それは意外な言葉だった。 「何ゆえですか?」 「まあ聞け、七郎。数年前までこの地には帝がおられたのだ」 「やはりそうでしたか。しかし数年前とは?」 「慣れぬ地ゆえ、病に伏せられてな。そのまま身罷られた」  何ということだ。帝は生きてこの地までたどり着いたというのに、病に倒れられてしまったというのか。 「俺はな、この数年、帝と共にあって、何が帝にとって本当に幸せなのかを考え抜いたのだ。俺がその答えを見つける前に帝は逝ってしまわれたが」 「それもこれも皆源氏のせいではありませぬか。共に頼朝を討ち、皆の恨みを晴らしましょうぞ」 「帝はそれを望んではおられなかった。帝は皆が仲たがいなどせず笑って暮らせる世の中が来ればいいと、そう仰っておられた。そういう世の中になれば、また建礼門院様にも会える日も来るはずとな」  建礼門院様――、帝の生母であらせられる。  壇ノ浦で帝と二位尼を追って海に飛び込まれたが、源氏の手によって助け上げられた。今は落飾し都にいると聞いている。 「なればこそ、頼朝を討ち滅ぼして再び平家の世を」 「そのためにまた多くの人の命を奪うのか。それは帝が望んだ世とはほど遠いぞ」 「しかし……」 「のう、七郎よ。波の下に都などなかったのだ」  俺は押し黙った。何も言うことができなかった。  壇ノ浦の後、国盛様も帝を保護し、さぞや多くのご苦労をされたことだろう。その果てに今の言葉があるのだと思うと、俺はもうそれ以上何も言うことができなかった。 「国盛様!」  その時、慌てふためいた声が聞こえてきた。 「何事か! 源氏の追手か?」 「帝の墓所が! 帝の墓所が!」 「帝の墓所が一体どうしたというのだ」  急を告げに来た男は意味を成さない言葉を繰り返すだけだった。  国盛様は、このままでは埒が明かないと帝の墓所に向かった。俺も後を追う。  そこで見たものは……。 「これはいかなる者の所業ぞ」  何と帝の墓所であったと思われるところは、何者かによって掘り返されていた。  いや、俺にはそれがまるで何者かが内側から這い出してきた跡のように見えた。  何者かが?  気になったのは国盛様の言葉だった。国盛様は無残にも掘り返された墓所を見てこう言ったのだ。 「そんなことがあるはずがない」
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