26人が本棚に入れています
本棚に追加
6.将来の行方
副院長から彼の25歳になる娘と、結婚を前提にした交際を考えて欲しいと頼まれた海青は、突然の申し出に戸惑っていると装い、答えを保留にしてその場を切り抜けた。だが、こんな誤魔化しが長くは続かないのも分かっていた。
「はぁ――」
長い溜息が身体から噴き出す。
「おいおい、どうしたんだ? 溜息なんか珍しいな」
病院の食堂で遅いランチを済ませた岩城は、食後に買った缶コーヒーを見つめながら溜息をつく海青に問い掛ける。
「人生何事もなく平穏には暮らせないもんだな」
「はぁ~? お前ほど面倒事を上手にかわしながら生きてる人間に言われたくないな」
「そうだな・・ はぁー」
「そういや、明日、武田外科部長の助手するんだって? 急な出世だな。どんな手段使ったんだ」
「俺がそんな小細工をする人間に見えるか?」
「ないな」
「だろ」
「じゃあ、上司の娘との見合い話でも来たか」
いつもながらの岩城の鋭い洞察力に、若干尊敬してしまう。
「お前、その才能を生かして監察医の方が向いてるんじゃないか?」
「確かに、推理するの得意だからな」
大学の医学部で知り合った岩城とは、田舎から出て来たと言う点で気が合った。
ノリが良く誰にでも分け隔てなく付き合う岩城は、男女問わずに人気者で彼の人脈の広さのお蔭で、人付き合いが面倒な海青も、それなりの友人に囲まれ、キャンパスライフを楽しむ事が出来たのだ。そのため、海青は岩城に対して人として一目を置いてはいたが、自身の性癖を告白するタイミングを常に逃していた。
「まじで見合い話が来てるのか?」
「見合いって古いな。まぁ結婚を前提に付き合えみたいな。田中副院長のご息女とな」
「ご息女ってお前なぁ・・ え? 副院長!」
食堂は休憩をする職員で割と込んでおり、海青は人差し指を鼻前に当てると、驚きの声を上げた岩城を制した。
「悪ぃ・・副院長ってビックリだ。さっきのはその溜息かぁ。で美人なのか?」
「さぁ~ 俺が手術したらしいけど全く記憶に無いんだよな」
「お前らしいな。で、どうすんだ?」
「どうすんだろうな」
「出世コースに乗れたようなもんだろ。タイプじゃなくても将来のために ・・って、野望のないお前には何のメリットもないか」
顎肘を付き、まるで自分の事のように悩んでくれる岩城に、海青は自身がゲイである事実を教えていない事に少し心が痛んだ。
「あのさぁ~ 今度飲みにいかないか?」
「お、いいねぇ~」
「話たい事がある」
「おお。何でも聞くぜ」
「サンクス」
岩城はいつものアッサリとした表情で頷いていたが、何かを思い出した面持に変わると、突然小声になりテーブルに身体を少し乗り上げる。
「そう言えばさ、武田外科部長も確か結婚して出世したタイプだよな」
「へぇ~ お前って本当に情報通だな」
「何にも興味ないお前の方が変だ」
「そっかぁ?」
「確か部長の奥さんって、佐久間理事の妹だったか、従妹だったか ・・だから彼も急に出世したんだよね」
「外科医だったらさ、腕前を認められて出世するもんだろう。あ~ ホント面倒くさい!」
海青は椅子に身体を預けると両腕を頭の後ろに組み宙を仰いだ。
岩城と休憩を終えた海青は、明日の手術の最終説明を患者本人と家族に行う武田に同席していた。
「説明はこのくらいです。何か質問はありますか?」
明日手術を受ける患者は、業界では名の知られている弁護士の二男で胃がんを患っており、胃の3分の2を摘出する予定になっている。
「先生どうか、息子を助けてやってください。この通りお願いします」
そう告げた患者の父親は、封筒を武田の前に差し出した。
大きな手術を受け持ったことの無い海青は、こういう場に居合わせた事が無かったが、噂で聞く光景が現実となり、袖の下を受取る武田に対して落胆の色を浮かべてしまう。
患者と家族を見送った後、術前カンファレンスに向う海青は、初めて武田に話掛けられた。
「君が神島君かぁ」
「あ、はい。明日はよろしくお願いします」
歩きながらであるが、海青が武田に挨拶をしていると、背後から武田を呼ぶ人物に追い付かれる。
「武田部長、お疲れ様です」
「おー水木君か。明日も頼むよ。なんせ僕の第一助手は若葉マークが付いているからね」
「本人の前でそんな。神島君だったよね。明日よろしく」
現れたのは外科主任の水木唯人で、本来なら武田の第一助手を務める者だ。
「はい、水木主任。こちらこそお願いします」
挨拶をする海青をチラリと見ると、水木は武田を海青と挟んで向こう側に並んだ。
「武田部長だったら、今回の胃癌手術でも最速記録が出そうですね」
「どうだろうね。ま、ちゃっちゃと片付けちゃうよ。明日の夜、親睦会があるしね」
「そうでしたね」
「今回の袖下随分と分厚いようだから、どうだい会の後に銀座でも行こうじゃないか」
「良いですね~ クラブ華から連絡があって、超飛び切り美人の新人が入ったらしいですよ」
「それは楽しみだね」
明日、手術を受ける患者は海青とさほど歳が変わらないが、胃の殆どを摘出されてしまうのだ。それでも癌が完治される保証はどこにもなく、ましてや他の臓器に転移している可能性も十分にある。決して、簡単な手術ではないにも拘らず、執刀医とその助手は手術の早さと、その後の宴会話に花を咲かせている。
患者には同調せず親しくなるのを避け、淡々と仕事をこなす海青は、無愛想で冷血な医者に見られがちだ。だが、そんな海青でも武田と水木の会話に吐き気がすると、耳を塞ぎたくなった。
患者との距離を常に一定に保つ海青だが、患者の病状に対しては真摯に向き合い、どんな小さな手術であっても任された仕事は、責任を持って丁寧に処置をした。
武田達の態度は、大きな総合病院で働く上で覚悟していたとは言え、海青を失望させてしまう。
ふと故郷の父の姿が脳裏を過る。
ガス爆発事故の現場で奮闘する父は、よれよれで薄汚れた白衣を身に付けながらも、真っ白でアイロンがけされた白衣を纏う武田よりも、正しく医者の姿であるように思えた。
そんな父に憎悪を抱く海青は、矛盾と虚しさに襲われると唇を噛み締めた。
武田外科部長の手術は、海青を更にガッカリさせる。
彼の腕前は確かに数をこなしているだけあって手際は良かったが、雑から算出された速さで決して凄腕とは言い難かった。
また、癌は予測していたよりも、多臓器に渡って転移しており手の施しようがなく、胃の殆どを摘出したところで、患者の命は救えない状態だった。
それでも予定通り患者の胃にメスは入れられた上に、癌に侵された他の臓器はそのまま放置されたのだ。
海青は、先ずこれ程に酷い転移が検査で見付けられなかった事に驚き、他の臓器の癌摘出に一切手を加えなかった事にも愕然とした。
だが、海青の意見など聞き入れて貰えるはずもなく、ただ指示されるままに助手としての仕事をこなしたのだった。
初めての大きな手術の助手に就けることに、副院長の娘との縁談が水面下にあるとは言え、心が躍った海青だけに、術後の落胆度は半端ではなかった。
しかし、家族をかえりみず島民の命を優先にする父の在り方に、反発していた海青が求めていたのは、都会での武田のように割り切った仕事をする医者の姿なのかもしれないと、改めて自分に言い聞かせた。
最初のコメントを投稿しよう!