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1.平凡な日常
海沿いにポツンと建つ一軒家から感謝の声が零れ出る。
「孫と娘の命を助けていただいて、本当に本当に、ありがとうございました」
「先生、ありがとうございました。ありがとうございました」
白衣を着た中年男性の手を握り、涙を流しながら繰り返し礼の言葉を伝える。
「医者として当然の事をしただけだから、礼なんていらないよ。島の住人がまた一人増えて目出度いね。二人共よく頑張ったよ」
医者はそう応えると満足気に口角を思い切り上げた。
【大好きだった笑顔・・】
ピーピーピー
小さな仮眠室でアラーム音が流れると、シングルベッドに横たわっていた人物が、腕にはめている音の原因を止める。
「また同じ夢を見た・・」
呟きながら身体を起こしたのは、ここ京大学付属病院の外科医、神島海青29歳。
海青はこの夢を見る度に、懐かしさと憤りで胸が苦しくなる。登場人物の顔は口元しか見えないが、海青には誰の笑顔なのか見当が付いていた。
【何で、こんな夢見るんだ。俺には1ミリも未練なんてないのによ・・】
1日を始めるためにベッドから飛び降りると、大きく伸びをする。
「神島先生」
昨夜宿直だった海青が仮眠室から出てくると、早速誰かに呼び止められた。
【退屈な1日の始まり】
決して他人には聞かれてはいけない独り言を心で呟く。
「はい」
呼び止めた声の主に振り返ると、同期で内科医の佐々木香菜が立っていた。
「お疲れ様ぁ。昨日宿直だったんでしょ?」
「ああ」
「来週から暫く休みって聞いたけど、何処かに行くの?」
「実家の母が具合悪いらしくてさ、父が顔を見せろって」
「それは心配ね」
「もう、10数年会ってないから救急度が低い」
「そんな親不孝な事を言って ・・え? 10年以上も実家に帰ってないって事?」
「すげぇ田舎でさ、帰る気が全くしない」
「こんな薄情な息子を持ったご両親に同情するわ」
「だよなぁ」
「だよなぁって」
海青は薄情さを微塵も感じさせない爽やかな笑顔で応える。
「神島君って兄妹いたっけ?」
【お兄ちゃん・・】
幼い少女が瞳をキラキラとさせて呼び掛ける。
「いな・・いよ」
海青は唇を噛み締めると苦い顔で応えた。
「え? 一人息子なら、尚更時々実家に帰ってあげなきゃ ・・信じられない」
「俺以外には、ごもっともな意見だな」
「もう」
佐々木は呆れた面持ちを海青に向けながらも、脳裏では他の事を考えていた。
「ねぇ、来週暫く会えないなら、今晩ご飯でも行かない?」
「あ、わりぃ、もう予約済だわ」
「いっつもそうなんだから。本当に彼女じゃないの?」
「まさか、面倒くせい」
「はぁ、まぁそんなだから、気軽に誘えるんだけどね」
「だろ~」
海青は佐々木との話が終わらぬ内に、止めた足を一歩前に動かそうとする。
「分かったわ。じゃあ休暇から帰ってきた時、暇だったら、また誘ってあげる」
「おう。じゃ、行くわ」
「うん、じゃね」
佐々木に背を向けると振り返る事もなく診察室へと歩を進めた。
海青は、大学を優秀な成績で卒業、研修も問題なく終えエリート族の仲間入りを果たしたと言える。だが、外科医になる目標を達成した今、大きな野望もなく淡々とした毎日を過ごしていた。
医療着に身を包んだ医師や看護師が、忙しく駆け回る大学病院の外科診察室前には、今日も大勢の患者が順番を待っており、自分が持つ番号を呼ばれた患者が診察室に入る。
「おはようございます。よろしくお願いします」
中年男性の患者が海青の前に座る。
「えーと、佐伯さん」
海青は患者佐伯のカルテを確認すると、彼に目線をおくる。
「お腹の傷はどうですか?」
そう問い掛けながら佐伯の脈を診る。
「あ、はい。痒みが酷くて」
「そうですか? ちょっと診せて貰いますね」
海青は看護師が用意した消毒などで手際よく患部を処置すると、次の患者を呼んだ。
「田中さん、その後どうですか?」
「神島先生のお蔭で、もうすっかり良くなりました」
海青に盲腸の手術を施して貰った田中と言うの名の患者が応える。
「エコーで異常は見られませんでしたし、もう通院も必要ないですね」
「そうですか ・・先生に、お会い出来なくなるのは寂しいです」
小声だが海青の耳に届くように呟いた田中には目もくれず、海青はパソコン内のカルテに集中する。
「先生、あのこれ私の番号です。プライベートで連絡いただけると嬉しいのですが・・実は父がここの・・」
田中は可愛いメモを海青に渡そうとするが、海青は気も留めず次の患者を呼ぼうとする。
服装は個人の好みで批判する気はない海青だったが、田中はいつも通院患者らしからぬ派手なブランド服で訪れており、強烈な香水の匂いも鼻についた。そのため、彼女の海青に対する下心が外見に現れており、メモを渡された時、海青は心で舌打ちをしてしまう。
「田中さん、診察は終わりです。お大事にしてください」
田中からのメモの存在を、あからさまに拒絶したが、残念ながら彼女の鋼のような心には届かない。
「連絡待ってますから、はい」
田中は無理やりメモを、海青が着る白衣のポケットに押し込むと立ちあがった。
「ちょっと」
【おい、こらっビッチ】
海青はこう続けたかったが、口から漏れないように堪え、田中が診察室を後にしたのと同時に、押し込められたメモを目を通す事なく破り捨てた。
「ハァ――」
昨夜は急患が多くあまり睡眠を取れなかった海青に疲労が覆い被さる。
独身でハンサムな海青は、医者という職業も相まって女性からの誘いが絶えなかった。断る事に面倒な時もあったが付き合う事は絶対に無かった。
何故なら海青は女性に興味を持てなかったからだ。気付いたのは中学時代で、女子が傍に居ても告白されても性的興奮は湧かなかったが、気になる男子に肩を組まれただけで頬が熱くなったのだ。
だが同性であっても、特定のパートナーをつくる気はせず、セフレが数人いるだけで十分だった。そのセフレでさえも海青は、バーなどで適当に探す事はせず、患者に手を出したりもしなかった。肉体だけの関係であっても人選はしっかりとしており、地位の高い職業に就いていて、定期的に性病の検査をしている自己管理能力が高い人物だけに特定していたのだ。
午前の診察を終えた海青は病院の廊下を、相変わらず退屈な形相でロッカールームに向っていた。
海青は、大学を卒業後そのまま付属する病院で研修を終え外科医になった。
新米のため未だ大きな手術に携わる事がなく、潰瘍や盲腸など簡単な手術と、入院患者の巡回や診察を任される。
また大学病院では派閥など、患者と向き合う以外に気を遣わなければいけない場面もあり、海青の同期や先輩には、そんな環境に嫌気がさし不平を口にする者が多かった。だが、海青は現状に満足していたわけではないが、黙々と目の前の仕事をこなしながら毎日を過ごしていた。
海青は淡白な性格をしており、患者に対しても同調心の欠片もなく、患者を話すコケシのように例えるため、同期からは冷血医師と揶揄われる事が多かったが、海青が向き合っているのは病気で患者ではなかったからだった。
「よぉ、神島」
足取り重い海青の背を、同期入職で血液内科の岩城隆玄が軽く叩く。
「岩城か」
「かっ、てお前な」
「岩城君ですか?」
「気色の悪い」
「どっちだよ」
神島は鼻で笑うと遅くなった歩調を再び早める。
「神島ってさ、後ろから歩いてるの見てると、そのヤル気のなさも、患者想いの医者が悩んでいるように見えるから得してるよな」
「心外だな。患者想いです」
「お前が言うと耳が痒いわ」
「だなぁ~」
「来週休暇取るんだって?」
「ああ」
「新人が休み取るなんて、お前本当に出世に興味ねぇんだな?」
「ゼロだな」
「同期の奥野尊、もう主任候補って騒がれてるぞ」
「へぇ~」
「親の七光りは良いよなぁ~ あんなんで出世出来んだからよ」
奥野尊は、ここ京大学付属病院理事長の甥で呼吸器内科に所属している。大学での成績もずば抜けておらず目立つ存在ではなかったが、入職早々理事長派の人間達に外堀を囲われ横柄な人格に変貌していた。
「どうでもいいや」
「だよな。でもさ、何人か他の病院に行くって言ってるぞ」
「そうなんだ。再就職とか聞いてるだけで面倒くせい」
「お前なぁ~ けどよ、神島って頭良いし、良い腕持ってるんだから、もっと高見を目指して欲しいけどな」
「興味ねぇよ」
「お前って何で医者になったんだっけ?」
【俺も医者になる】
子供の頃に抱いていた夢。だが、海青は理由を見失っていた。
「響きがいいから。給料もいいし」
「出世欲がないなら開業した方が合ってるんじゃないか」
「うわぁ~ 無理無理」
「何で?」
「患者に扱き使われるとか有得ない」
「扱使われるって」
「ここなら、俺が居なくても変わりの奴がいるし、
楽だろう」
「はぁ~ お前ねぇ」
自分のロッカーから私物を取り出している海青を眺めながら、岩城はロッカールームに備え付けてあるソファで暫し休憩する。
「うわっ、もうこんな時間」
「この後、予定があるのか? お前宿直明けだろ?」
「待ち合わせしてる」
「女か?」
「・・・・」
海青は自身の性癖を故意に隠しているわけではなかったが、カミングアウトする必要性も感じないでいた。
「そういうのはマメで、精力的だよな」
「まぁ一発抜いておく方が寝付きがいいからさ」
「うわっ、女は子守唄替りかよ。可哀想」
「じゃあな」
海青は、ロッカーを閉めると相変わらず覇気のない態度で職場を後にした。
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