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階段の幅は大人ふたりが並んで降りるには無理がある。市川は歩道に戻ろうと、まわれ右をした。
が、その一瞬、グレーのスラックスと淡いブルーのピンストライプのシャツに包まれたがっちり体型の男性のうしろに、微笑みながら足下に注意を払う件のワンピースを着た女性の顔がちらりと覗いた。
『可奈ちゃん……?』
いや、待て。これまで見てきた可奈とあまりにもイメージが違う。人違いかもしれない。
男女の話し声が階段の縦長の空間に響く。塩味がどうとか、焼き具合がどうとか。声も可奈のものに思える。
ビルの2階はイタリアンレストランだ。小さいが、雰囲気のいい隠れ家的な店で、市川はマスターの木崎から聞いたことがあった。木崎はこの土地へ来る前の15年間、東京のフレンチレストランで働いていた料理人だ。
「まあ、うちのバイト代じゃあ、月に1回、食いに行けるかなあってとこか」と、苦笑していたのを覚えている。
木崎は他店の料理を褒めることはあっても、滅多に貶さない。飲食業の難しさを熟知しているからなのだろうと市川は思う。貶した店はたいていすぐになくなった。ここのイタリアンの話をした時は、値段には触れたが、味についてのコメントはなかったと記憶している。木崎の評価は『まあまあ』といったところだったのだろう。
女性の顔が確認できるぎりぎりまで待って、市川は歩道に出た。
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