4. 木崎 聖子(きざき せいこ)

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 その『フーガ』のあった小さな3階建ての『ダイアナ・ビル』は、6月10日から取り壊しが始まった。築36年での解体はビルとしては若すぎる。これはどうやら先代オーナーが税金対策で建てた安普請が元凶らしい。更地で放置せずに、何か『うわもの』を作っちまったら税金がぐんと軽くなる。そんなどこからかの入れ知恵で最低限の資金で計画されたのが、オーナーお気に入りの英国のダイアナ元皇太子妃から畏れ多くもお名前を頂戴したビル。あちこち少しずつケチったせいで、30年を過ぎた頃からぼろぼろと不具合が表面化してきた。いろいろ検討してみたけれど、継ぎ当て修理をするよりいっそ建て替えたほうが、と専門家のアドバイスを受け、耐震補強もあることだしと、これを機に息子に代替わりする運びとなった。  解体が始まる日には、木崎一家に市川も加わって、店の前で写真を撮った。木崎家のマンションのリビングにはプリントして写真立てに入った一枚が飾られているし、市川も自分のスマートフォンのなかに同じものを持っている。写真を撮ったのは新しいオーナーだった。  バイトを始めた直後から、店の入り口ドアに姿が見えた途端に木崎の顔が真夏の太陽のように輝く常連客に気がついていた。『ヨギちゃん』と呼ばれる女性だった。  常連といっても、商店街のおじさんたちのように週に何度も来店する客ではない。月に一度、多くて2週間に1回ほど、たいていは友人の啓子という女性と、時にはひとりでやってきた。歳は木崎と同じくらい。地元最大の企業である創薬研究所で働くバリキャリだという話だった。
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