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「え……?」
「ほら、あの子さ、試食会の時にいたでしょ」
3月の末、『フーガ』のカフェ営業を始める前に、常連客たちを招待して『試食会』を開催した。木崎がランチメニューの感触を確かめたかったからだ。
市川はその直前、留年の報告と、あと1年の授業料の負担を頼むために父親と会っていた。幼い頃からほとんど会話らしい会話をしたこともない父親だったが、頭を下げて謝罪し、その時に近況報告として、地元のバーでアルバイトをしていること、そしてその店名も告げた。
それを知った母親が試食会当日、店に突然現れ、彬良を連れて帰る、と喚いて騒ぎを起こしたのだ。だいたいの住所と店の名前がわかれば、今の世の中、調べるのは簡単だったことだろう。
店内は一瞬、騒然としたが、聖子や、聖子の友人の啓子の機転のおかげで、市川は母親と顔を合わさずにすんだ。
その日の夜、市川はその顛末を少々誇張して父親に電話で語り、父親は「息子の社会的信用を失くす行為で、親として失格だ」ときつく母親を叱りつけたそうだ。
夫婦としてのふたりのその関係性も、常識的には首を傾げたくなるものかもしれない。ただ、市川にとってはさもありなん、だった。そして、ありがたいことにそのおかげで母親から息子への連絡頻度はこれまでよりぐっと減り、今もそのレベルを維持している。
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