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しあわせな刻
神前の家は時間がゆっくり流れた。祖母に死なれて以来の幸福感に満たされて、ぼくはしあわせだった。
モデルの合間に白川さんはときどき、したり顔で腕を組み、絵をためつすがめつした。
「白川さん、偉い美術評論家みたいやなあ」
「オッホン、この絵はですね、なかなかリアルに描けています。それなり以上に描かれているきらいは多分にありますが」
ぼくたちは笑った。次第にぼくと白川さんのあいだの垣根は低くなり、年齢の差も感じなくなっていった。
ぼくは意識せず彼女を「桃枝さん」と呼んでしまうことがあった。徐々にそう呼ぶことが増えて、絵が最終段階にかかる八月の終わりごろにはそれが普通になった。
祖母と孫のような交わりで充分満たされる──。そう思っていたぼくだったのに、一緒に過ごす時間が増えるにしたがい、もっと強いつながりを求める気持ちが湧き、白川さんへの想いは日を追って抑えがたいものとなっていった。
手を握りたい。抱き締めたい。白く柔らかいだろう胸に顔を埋めたい。
七十五歳──彼女は八月に誕生日を迎えていた──の女性と、七月で二十歳になったばかりの男の恋愛は成立するだろうか。
するもしないもない、ぼくは白川さんに激しく恋していた。だが彼女はどう思っているだろうか。嫌われてはいない、好意を持ってくれていることは感じる。でもそれは男女のそれであるはずがない。「独り暮らしの女を手助けしてくれる奇特な若者」に対する感謝の気持ちに過ぎないだろう。
ぼくは神前に通うのが辛くなっていた。白川さんのためには奇特な若者であり続けるのが一番いい。なのにぼくは彼女の願う「祖母と孫」の平和な日々を壊しかけている。絵を描き終えたらここへ来るのはやめようか。
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