最終回「トレゾァは永訣の香り」

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最終回「トレゾァは永訣の香り」

 九月三日。霧の朝だった。   この日は彼女が病院へ行く日で、デミオで送迎する予定だった。  ぼくは七時前に神前の家に着いた。  チャイムを押す。応答がない。  おかしいな、忘れてまだ寝てるんかな。  なんども押した。やはり返事はない。いつもとどこか雰囲気が違う。先日来の白川さんの、なにかを仄めかすようだった言動が思いだされる。    不安になり走って庭へ回りかけたとき、花桃の木が視野を掠めた。花が目に入る……花と見えたのは枝に結ばれた紙だった。  胸騒ぎを覚えて駆け寄り、急いで枝から外す。細く折りたたまれた薄い桃色の紙はしっとり濡れていた。震える手ももどかしく開く。かすかにトレゾァの香りが立ち昇る。 「岳人さま  東京に行きます。心配しないでね。あなたを惑わせてしまったようで、申し訳なさでいっぱいです。絵の道具は箱に入れて窓の下に置いています。あなたが描いてくれた絵はあちらへ送りました。大事にします。花桃の実はみんな落ちましたけど、花は来春もきれいに咲きます。実も付けます。   桃枝」  霧で文字の輪郭がところどころぼかしたように滲んでいる。  桃枝さん、どうして? 東京のどこへ?  知るすべはなかった。白川さんはぼくのためを思って身を隠したのだ。それ以外考えられなかった。 「白川さん……桃枝さん……」  この何日かの彼女の言動はやはりそうだった。一つ一つが思い当たる。突然すぎて頭が混乱し、心が乱れて怒りさえ込み上げる。  花桃の実が足元にたくさん落ちていた。一つ拾い上げてかじってみる。甘い匂いが鼻から脳天に突き抜ける。  トレゾァの香り。桃枝さんの匂いだ。 ──トレゾァは桃の香り。桃枝の桃。一番好きな香りよ──  桃枝ださん……。  嗚咽がせせらぎに混ざって流れた。  ぼくはその後、なんども、なんども、時間さえあればデミオを飛ばして神前の家に行った。心が落ち着かず、なにも手につかず、自然に足がそちらへ向いた。  森に入ってみた。小暗い雑木林に高木低木、白い花赤い実、いろいろあるが、名前を教えてくれる人はいない。  うなだれて森を出、庭の流れのそばに立ち尽くす。瀬音がふと遠のく。花桃の実は池や流れの底、幹の根元で朽ちて種だけになり、匂いももう、しない。  来春、花が咲き、実が生り、トレゾァの香りが庭に満ちても、白川さんが帰ってくることはない。彼女はぼくのせいで居場所を一つ、なくし、ぼくは大事な人を永久に失った。  エイケツ。  永訣──永遠に別れること。永別。死別── ウィキペディアにそう載っていた。                           (了)
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