祖母のオッパイ

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祖母のオッパイ

 おばあちゃん子だった。 「岳人(がくと)どうしたんや? ほらオッパイ」  ぼくは祖母の庇護のもと、意気地なしの男の子に育った。転んだら起こしてもらうまで泣き続ける。公園では遊具を奪われっ放し。小学校へ上がっても友だちに泣かされて帰る。そのたびに祖母はぽいっ、オッパイを出して含ませた。出ないオッパイを吸い、機嫌が直ったらおやつに祖母が作ったドーナツを食べた。油っぽくて重曹の苦みが口に残った。  苦いドーナツと太り肉だった祖母の柔らかいオッパイを、いまでも思いだす。  ぼくが小五の冬、祖母は死んだ。六十四だった。胃ガンだったとのちに母から聞いた。  ひどく痩せた姿を、病院に見舞いに行ったぼくは見ている。 「岳ちゃん、おいで」  祖母がか細い声でいった。ブルブル震わせながら伸ばした手は骨に皮が張り付いている。一度行ったことのあるお化け屋敷にぶら下がっていた骸骨のようだった。怖くてそばに寄れない。母に「岳人、行ったげて」と背中を押された勢いでトトッと祖母のほうへのめり、これも母に肘を持たれておずおず右手を出した。骨ばった祖母の手は思いの外柔らかく温かく、かたく冷たいと思っていたぼくはびっくりした。 「おばあちゃん生きてるんやー」  ニコッと振り仰いだぼくを母は「岳人っ」と睨んでたしなめた。 「死んどるように見えたか岳ちゃんには」  祖母がいったが聞こえず、耳を寄せた母がぼくに教えた。痩せて眼窩の窪んだ顔は、見慣れた祖母の顔ではなかった。不気味だった。白く柔らかいオッパイの、大好きだった祖母を不気味だなどと思ってしまい、反省したもののやはり怖かった。  結婚しないままぼくを産んだ母は、その世話は祖母任せで美容院の経営にかまけていた。育ててくれたのは祖母だ。  小五の夏休みまでぼくは祖母と一緒に入浴した。風呂のなかでふざけて祖母のオッパイを指でつついたり、吸い付いたりした。  おちんちんの毛に気付いたのは祖母だ。 「あれ岳ちゃん、毛が生えとうやん。もう一緒にお風呂に入るんは止めようかねえ」  ぼくはびっくりして視線を落とした。ひょろひょろと黒いものが二、三本、見えた。全身真っ赤になった。 「大人になりよんやわ、恥ずかしいことない。そうか、甘えんぼやった岳人ももう、大人になったか」  祖母はさらっといい、勢いよく風呂から上がるとバスタオルを「ほれ」、ぼくに投げてよこした。もう拭いてはもらえないんや。ぼくは大人になったんや。  湯上りの祖母の、ほんのり上気した肌。柔らかいオッパイ。鏡の前で髪をまとめる手つき。豊かに肉のついた背中──。それ以後、目にすることはなかった。  祖母が死に、理由のない苛立ちを母にぶつけながらもなんとかグレずにいられたのは、小五まで愛情を注いでくれた祖母のおかげだ。 「岳ちゃん、あんたはお父ちゃんを知らんとに育ったけど、おばあちゃん、あんたに肩身の狭い思いはさせへんからな」  お父ちゃんがおらんからゆうて、縮こまって下向いたらあかん。しゃんと頭を上げて、堂々と歩きなはれ。  顔も名前も知らんお父ちゃんの分も、忙しいてあんたに構うてられんお母ちゃんの分も、おばあちゃんが可愛がったるさかいな。  祖母はぼくを抱いて繰り返し言って聞かせた。五年生までぼくはほんとうに、舐めるように愛されたのだ。  病床にあった祖母の骸骨のような顔は不気味だったけれど、思いだすのは、いつもぼくの一番の理解者だった祖母の、白く柔らかい腕や背中、そしてオッパイだった。  あのオッパイに顔を埋められないのは淋しいが、ぼくは思春期に入りかけていた。もう祖母のオッパイの記憶は卒業しなければならなかった。
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