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桃枝
ツルの曲がった赤いメガネを紙袋に入れて、三神中央病院に行った。事故の翌々日だ。
受付でメガネを見せ、ありのままを話した。「該当する人はたしかに入院されてます。こちらでお預かりして渡しておきます」「ではお願いします」と紙袋を託した。
翌日だった。スマホに知らない番号から電話がかかってきた。予感がして急ぎ通話ボタンを押す。
「倉科(くらしな)岳人さんですか? 赤いメガネのおばあちゃんです。メガネをありがとうございました」
「あ、いえ、ど、どうも。事故のとき偶然通りかかって。メガネは使えそうですか」
「うーん、ダメみたいです。テレビも見えないし書き物もできなくて、困ってます」
「メガネ屋にぼく、持ってってみましょうか」
「あらー、そこまでしていただいちゃ悪いわ」「いえ暇ですから大丈夫です。いまからそちらへ行きます。病室の番号は?」
315号室。名札はない。
深呼吸をして息を整え、ノックする。
「はーいどうぞ」
緊張しながらスライドドアを引いた。
その人は窓を左にしてベッドに横たわり、にこやかにこちらを向いていた。ふわふわのグレイヘアは少しヘタっているものの、窓越しの明るい日差しを受けて、優しげな雰囲気で顔のまわりを包んでいる。サンシンロードで見て感じたより、歳は上に見えた。それでも、あのとき受けたチャーミングな印象は病院着を着ていても変わらなかった。
女性は丸い大きな目をいっそう見開いた。
「まあありがとうございます。お気に入りのメガネでしたけど、諦めてたんですよ」
「すみません、あんなことして。電話を掛けてこられるとは正直、思ってなかったっす」
「番号だけだとさすがにね。でも学生証の写しが入ってたから安心して。O芸大の二回生……油画コース、油絵のこと?」
コピーに落としていた目を上げ「あら横になったままで、いま起きますね」「いや寝ててください」「でもこれじゃ失礼だわ」とその人が枕元を手でさぐる。
「あ、やります」
リモコンで適度な角度にベッドを起こした。
「これでいいわ。どうもありがとう」
入院中はお化粧しちゃいけないんですって、七十を過ぎて素顔はつらいわ、と本当につらそうに眉根を寄せた。
「七十を過ぎて?」
病気になる前の祖母とおなじぐらいに見える。
「あら、もっと老けて見える? まだかろうじて七十四。この夏には後期高齢者ですよ」
「いえ反対です、ずっと若く見えたからびっくりしたんです」
「あらー、嬉しいことを。ふふふ。あなたこそ背が高くてハンサムで、立派な若者ですよ。お返しでいってるんじゃないですよ」
いやぜんぜんっす。
手を振って否定し、話の接ぎ穂をさがす。
「あ、怪我の具合は、頭とか大丈夫ですか?」
これを一番にいうべきだった。
「左の脛にひびが入ったのと足首を捻っただけで済みました。でも脳とか調べなくちゃいけないので、入院しましょうって」
お陰で頭は大丈夫だったわ。
それはよかったっす。
あとが続かず、ぎこちないマが空く。
「もう一つお願いしていいかしら? 冷蔵庫からお水と、オレンジジュースもあると思うんだけど取ってくださる?」
お水が飲みたくて、とその人は冷蔵庫を見た。ぼくはミネラルウォーターと紙パック入りのジュースを取り出した。
「戸棚に紙コップが入ってるんだけど。ジュースはあなたどうぞ」
「や、ぼくはいいっす」
紙コップに水を七分目ほど注いで渡す。
「どうもありがとう」
ああ美味しい喉が渇いてたの、こんなことで看護師さんをお呼びするの悪いから来てくださったときにと我慢してたんですよ。
彼女は喉を見せてコクコク水を飲んだ。
「わたし、結婚しなかったから夫も子供もいなくて。身寄りのない年寄りなの。普段は平気なんだけど、今回ばかりはちょっとね」
「年寄りってことぜんぜんないっす。ぼく、おばあちゃん子やったんで、祖母とおなじような年齢の女性は好きです……あ、すみません」
変なことを口走ってしまい、顔が赤くなった。
「まあ、なんて微笑ましい。ほほほ、おばあちゃん子は優しいっていうけど、ほんとね」
これまで若い人と接点がなかったから、あなたみたいな青年と話すの、初めてですよ。「若い人はいいわね、溌溂しててさわやかで、でも少しシャイで。あなたに会えてなんか元気が出てきた。きょうはありがとう」
「じゃメガネ、預かっていきます」
その日はひどく気分が上がり、コンビニでバイト中、口笛を吹いたりして「ガクト、なんかええことあったんか? 彼女でもできたとか」とバイト仲間のヒデにからかわれた。
三日後、大学の帰りに修理の済んだ赤いメガネを持って病院に行った。病院前のコンビニに寄ったら花束があった。ぼくの働く店には花は置いてない。そうか病院前やから。
一つ買った。
「あらー! メガネ直ったの?」
「ツルはゆがみを直して、レンズは傷がついてたんで白川さんのカルテをもとにおなじ度に」
彼女は喜んですぐに掛け、手鏡を見て、「以前と掛け具合も見え具合もおんなじ。よく直ったこと。ありがとう」とにっこりした。
「よかったっす。赤がよく似合ってます」
顔がとても明るく見えた。この日、彼女はうすく口紅をつけていた。
「岳人くんはほんとにいい青年ね。……そのスイートピーとカスミソウの花束、きれいね。お友だちでも入院なさってる?」
ぼくは顔を赤らめて、お見舞いです、とおずおず差し出した。
「えっ? このおばあちゃんに?」
「おばあちゃんではないっす」
「まあどうしましょ」
花束をもらうなんて何十年もなかったことだから胸がどきどきするわ。
いって彼女は花を受け取るついでにぼくの手を左胸に持っていき、「ほらね」といたずらっぽく片目をつむってみせた。そのやり方はぼくを完全に子ども扱いしていた。でもこっちは十九歳の男だ、祖母を思いださせる柔らかい胸の感触に、ぼくのほうこそどきどきした。
ぼくは廊下のゴミ箱から空き瓶を拾ってきて花を挿した。
「わあ、部屋が明るくなった。ありがとね」
彼女は手を叩いて喜んだ。
「スイートピーって優しげでいいわねえ。花言葉は……思いだせないわ」
「スイートピーっていうんですか。花の名前なんてぜんぜんっす。ばらとチューリップ、あ、ひまわりもわかります。花言葉、ぼく、調べましょか? ええッと、門出、別離、優しい思い出、永遠の喜び、私を忘れないで、蝶のように飛躍する、だそうです」
スマホで最初にヒットした情報を、かいつまんで読み上げた。
「優しい思い出、永遠の喜び、蝶のように飛躍。いいわねえ」
「別離いうのはちょっと淋しくないっすか」
「別離ねえ。命あるものはすべて、別れがあるのよ。会って別れてまた会って、最後はながーい別れ。永訣。特別なことじゃないわ」
エイケツ?
「そうよ、永訣。いつかはね」
彼女は宙を見、微笑みながら戻した視線にぼくは捉えられて、つい顔をそむけたらヘッドボードの名札が目に留まった。
「名前だけやのうて年齢まで書かれるんや。きのうはあがってて見てなかったっす」
「あがってた? まあ。そうよ、病院ではプライバシーはございませんことよ、ふふふ」
「確かに。下の名前の漢字は『桃枝』と書くんですね。最初の電話のときに耳からしか聞いてなかったから」
「あ、そうだったわね。そうなのよ。白川の苗字は好きだけど、桃枝だなんてこの歳になると恥ずかしくて」
「白川桃枝、いい名前っす、白川さんにすごく合ってます」
「そう? ありがとう。わたしが生まれたとき父が母に差し入れたのが桃で、母がとても美味しいって喜んで食べて、それで桃枝ですって。可笑しいでしょ」
岳人くんこそ男らしいいい名前よ。お父様は登山がご趣味?
どうなんかな……母は結婚しないでぼくを産んだからぼく、父のことは知らないんす。
あら立ち入ったこと聞いたかしら。
いや別に。ぼくが勝手に話したんやし。
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