花桃の咲く家

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花桃の咲く家

   白川さんは三週間入院していた。その間、ぼくはバイト仲間にシフトを代わってもらって、できる限り見舞いに行った。  頼まれてときどき、メモを手に果物や飲み物などをコンビニで買った。ATMでお金を下ろしたこともある。ためらったが、彼女はだれかに頼むしかなかった。  二人のあいだは年齢が五十五、開いていたので、白川さんは「子どももいないのに孫ができたわ」と無邪気なものだった。  彼女はぼくをごく自然に岳人くん、岳ちゃんと呼び、ぼくは白川さんと呼んだ。  退院の日。  ヒデの中古のNボックスを借りて、三神山(さんしんさん)のふもとの神前(しんぜん)という集落にある白川さんの家まで送っていった。  海辺の県道を走り、途中から三神山へ向けて坂をくねくね上った。  白川家は神前の一番奥にあり、車は家よりずっと手前の空き地に停めて坂道を二十メートルほど歩かなければならなかった。白川さんだけが利用する私道だそうで、「家まで車が入れるように広げたほうがよくないっすか?」と、彼女が車から降りるのに手を貸しながらいった。  筋肉が痩せ、痛みも残っている白川さんは、歩行がまだ不自由だった。彼女の左脇からおずおず腕を回すと、ぼくの右半分と白川さんの左半分が密着した。ひどく緊張した。  彼女はぼくの肩までしか身長がなく、うまく支えるには途中なんども立ち止まり、体勢を整え直さなくてはならなかった。 「ごめんね」 「ぜんぜんっす」  サンシンロードを颯爽と歩く彼女を知っているぼくは、すっすと歩けない白川さんが痛ましく、悔しかった。 「自転車ヤロウは見舞いにきました?」 「ううん、弁護士さんがみえたわ」 「弁護士? 見舞いにも来ないで? ひどいヤツやなあ」 「こちらも父の代からお世話になってる弁護士さんに相談して、ぜんぶお任せしました。わたしも悪かったの、よそ見しながらふらふら歩いてたんだから」  よそ見なんてしていなかった。白川さんはまっすぐ前を見て跳ぶような足取りだった。 「おかげで孫ができたから、自転車ヤロウさまさまよ」「じつはあの事故の直前にぼくとすれ違ったの、知ってます?」 「えっ? 知らないわ。いつ? どこで?」 「白川さんが三神駅方面から南へ歩いてくるのを見て、かなり手前から目が離せなかったんです。ふわふわの髪を揺らしながらテントのように広がった黒いドレスで颯爽と。赤い靴下、バッグの赤い留め具。あなたは赤いオーラに包まれてた。すごく印象的だった。ほんとです。ぼくたち、だんだん近付いて、触れそうな近さですれ違ったんです。ぼくはあなたをじっと見ました」 「あらそうなの? ごめん、視線さえ感じなかったわ」 「威力ないんやなあぼくの視線」 「ないない。ふふ」  日本建築の白川家は、屋根瓦が波打って古そうに見えるものの堂々としていて、旧家の趣きがあった。非常に広い庭は雑木の林から薄暗い森へ自然につながっている。その森からゆるい起伏を縫うように細い流れが池へ注ぎ、静かな水音を立てていた。  流れと池にまたがって、ピンク色の花をつけた木が自由に枝を伸ばしていた。 「きれいですね。あれは、梅ですか?」  木に咲く花は梅と桜ぐらいしかわからない。 「ううん、花桃の木。わたしが生まれた記念に両親が植えたの。一度枯れちゃって、いまのは父が晩年にまた植えたの。桃枝の桃が枯れたら縁起が悪いってね。親バカでしょ」  この人は大事に育てられたんや……。  父を知らない自分とつい、比べていた。  家のなかは十数年前に改装したそうで、外観からは想像がつかないモダンさだった。  玄関から突き当たりの洋室まで、白川さんは手すりを伝って歩いた。両親のためにつけたものだといい、「それが役に立つなんてねえ」とため息とともに漏らした。 「買い物とか、これからどうするんすか」  車に退院の荷物を置いたままだった。 「荷物を取りに行くついでに、町へ下りてなにか買ってきましょうか」 「生協さんの個配を利用しているから大丈夫」 「今夜の食事は?」 「うーん、冷凍物とかあるから、なんとかなるでしょ」 「ぼく、作りましょか」 「えっ、岳人くん、料理できるの?」 「母が忙しいから結構やってきてるんで」  Nボックスで坂を下り、彼女から預かった一万円で当面の食料を買えるだけ買った。  その夜は豚肉の生姜焼きと野菜を切っただけのサラダ、インスタントのみそ汁、冷凍室にあったレンチンの炒飯で食卓を整えた。  その間、白川さんは洋間のソファに体を預けてぼくを見守っていたが、久しぶりに動いて疲れていたのだろう、やがて居眠りをした。  夕方になって冷えてきた。ソファでうたた寝している白川さんは寒いかもしれない。暖房を強くし、そこにあったひざ掛けを広げて肩から足元までそろっと掛ける。胸がそれとわかるかわからない程度に上下している。顔を埋めたい衝動に一瞬、駆られる。 「あ、眠っちゃった」 ぼくは慌てて台所へ取って返した。 「ご飯食べます? 作るっていったけどインスタント物になってしまって、すいません」 「そんなのいいわよ、冷凍室のものを片付けたほうがいいものね」  台所の楕円型のテーブルに向かい合う。 「アルコールは? 赤ワインがあるはずよ」 「いちおう未成年ですし、どっちにしても車やから」  あっそうだったじゃやめましょ。白川さんは飲まれたらいいっすよ、これですか? そうそれ。ノンアルコールのビールもあるでしょあなたはそれを飲んでね。 「退院、おめでとうございます」 「おかげさまでありがとうございます。岳人くんの未来に乾杯!」 「えっ? 白川さんの退院に乾杯ですよ」 「先の短いわたしのことなんてどうでもいいのよ。あなたの輝かしいこれからに乾杯よ」 「短くないですって。けどなんか変やなあ」  生姜焼きはまずまずだった。  白川さんはグラスに半分のワインで陽気になり、ぼくはノンアルコールビールに酔った。 
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