トレゾァ・オード・パルファン

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トレゾァ・オード・パルファン

 白川家の庭の緑がだんだん濃くなる。  彼女は季節に合わせて落ち着いた発色の、やはり裾広がりのドレスを着た。 「色は油絵具でいえばシェルピンクの、彩度はやや低く明度は高い……かな」 「さすがは画学生、いうことが違うわ。撫子(なでしこ)色か桜鼠(さくらねず)の、いずれもごく薄い色といったところかしら」  画学生という言葉も色の名前も新鮮だった。 「日本には伝統色という表現があるのよ。わたし以前、服飾関係の仕事をやってたの」  わたしの服はみんな自分で染めて自分で縫ったもので何十年ものあいだ大事に着てる。だって一から自分で作ったら愛着が湧くじゃない。だから自然にていねいに扱うようになるからあまり傷まないのよね。たまには新しい服とか欲しいんだけど、ふふふ。 「こんど伝統色の本を見せてあげる」  リハビリ通院の待合室で白いコンバースをぶらぶらさせ、「痛っ」と顔をしかめたがすぐに「えへっ」と肩をすくめる。靴はナイキの赤いエアフォース1か、柔らかい革の紐靴のこともある。白川さんが人目を引くのはかつての仕事柄だろう。女性の服装はなにがオシャレでなにがそうでないのかよくわからないが、コンバースを履く七十四歳は相当おしゃれだとぼくは思う。  歩行が少し楽になってきたころ、ぼくたちは気晴らしに三神の町を歩いた。これも自分で作ったという、流行にとらわれない服を着たオシャレな白川さんを脇から支えて一緒に歩くのは誇らしく、嬉しかった。  ぼくの右肩の辺りでシルバーグレイの髪がふわふわ揺れ、フルーツの香りが鼻腔をくすぐる。 「この匂いはなに? 最初に白川さんとすれ違ったときもおなじ匂いやった」 「トレゾァのこと? トレゾァ・オード・パルファン。好きで、ずーっとこれ使ってるの」 「なにか果物?」 「ピーチとアプリコット。桃枝の桃とスモモね。ローズも少し入ってるみたいね」 「桃枝さんの桃、ですか」  香水の名前など、二十歳前の青二才が知るはずもなく、白川さんが別世界に住む大人の女性に思えて、距離を感じた。 「トレゾァって宝物という意味なの。英語のトレジャーね。パルファンはパフューム。フランス語も英語も、スペイン語イタリア語、みんな似たり寄ったりよ。近所同士だもの。日本語と中国語や韓国語もそうよ。人も兄弟、はらからといっていいかもよ」  はらから?  同胞のことよ、おなじ腹から生まれた族(うから)。一族。あなたとわたしもずっと昔は親戚だったわよきっと。  いたずらっぽい目をくるくる動かしていう白川さんはとても可愛い。七十四歳の女性を可愛いと感じるぼくは変だろうか。でも年齢に関係なく白川さんはチャーミングだった。  つい最近知り合った他人同士の自分たちがずっと昔は親戚だったなどという発想を、だれがするだろう。なんとユニークで楽しいんだろう。なんとステキな七十四歳なんだろう。  ぼくは彼女の虜になっていた。  脚の筋肉が落ちている白川さんはすぐに疲れたから、左側から手を回して支えた。  そうか、トレゾァというのかこの匂いは。  頭の芯がしびれて、くらくらする。  きたむら珈琲で休憩した。  女性たちの話し声が店内に反響している。 「わたし、いい歳してスターバックスが好きなのよ。賑やかなほうが断然落ち着く。一人になれる。けどここも結構、賑やかね。落ち着けそうよ」  白川さんはカフェオレを注文し、顔を寄せてささやいた。甘い桃の香が鼻腔から脳天に突き抜ける。 「香水は自分で買うんですか」  いきなり訊いた。脳が麻痺している。 「香水はだれかに頂くことが多いわね。トレゾァは、若いころ付き合ってた男性がフランス駐在から帰ってきたときに、土産にくれたの。半世紀も昔になるわねえ」  ドドドッ。脈が突然強く速くなる。  顔も名前も知らないその男性に激しい嫉妬の感情が湧いた。ギューッと絞るようなキリキリ刺し込むような、これまで経験したことのない痛みが左胸を襲う。これがジェラシーか……。  ♪愛の裏側~  井上陽水の甘えた声が頭のなかで響き始める。 「学生時代から東京で暮らしてて、そのころからトレゾァを使い続けてる。両親が高齢になり世話が必要になって、六十歳になる少し前にこちらに帰ってきたのよ」  だから標準語なんだ。   ぼくの知らない東京でぼくの知らない男性と付き合い、フランスへ仕事で行くような男性だから優秀で、そんな人を恋人に持つ白川さんも聡明で、知的な会話を交わし……。  想像していじける卑小な自分が恥ずかしくなり、覚られないよう目を伏せる。 「彼からもらったのがついに無くなったときには自分で買ったわ。ほかに頂き物もあったんだけど、トレゾァが大好きになってたから」  どうしてこんな話題を持ち出してしまったのだろう。  コーヒーがひたすら苦かった。  白川さんを神前へ送った。デミオを家の手前に停める。玄関まで彼女を支えて歩く二十メートルの距離が永遠であればいいのに。  春の宵の、生ぬるく湿った空気のなか、彼女の左半分をぼくの右半分でいつまでも感じていたいと思う。  ほんの小さな芽だった恋心が、むせるような藤の匂いから甘酸っぱいツツジの匂いに変わりゆく季節のなかでいつしか膨らんでいた。
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