大事な人 

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大事な人 

   白川さんから電話があった。怪我をした足が昨夜から疼くということだった。  油画の実技を休み、デミオを走らせた。 「学校があったんでしょうにごめんね。申し訳ないわ」「申し訳ないとか、いわんといてください。ぼくは来たくて来てるんやから」  レントゲン写真を見て担当の医師は「ひびはよくなってますけどねえ。痛みはしばらく残りますよ。とりあえず痛み止めを出しますから、様子をみてください」といい、白川さんの電子カルテにいろいろ打ち込んだ。  医師が振り返って「お孫さんですか?」とぼくに訊ねた。「い、いえ、知り合いというか」  答えに詰まっていたら、「先生。この人はわたしの一番大事な人なんですのよ。孫でも息子でもなくて、友だち以上恋人未満、かな」  ね、岳ちゃん。  医師は冗談に受け取ったか、ハハハと声をあげて笑った。看護師もつられて笑い、ぼくはあいまいに口端に笑みを浮かべたが、頬がぴくぴく痙攣し、耳が火照った。  痛みが引くまでリハビリの回数を減らすことにして、鎮痛剤と湿布薬をもらって帰った。 「ごめんね、調子に乗って変なこといっちゃったね。田中先生がお孫さんですかなんておっしゃるから、岳人くん迷惑かなと思って。でも友だち以上恋人未満のほうがもっと迷惑だったよね」  ごめんごめんホンのはずみだったんだけど、歳を取ると節度がなくなっちゃうのよねえ、思ったことがすぐに口に出るの、頭と口が直結してるね、わたしも歳ね耄碌したってことね、冗談だから岳人くん許してね、忘れてね。  帰りの車中で白川さんは病院でのことがバツが悪かったのか途切れなく話していたが、急に押し黙った。気詰まりを感じてぼくはカーステレオをつけた。陽水の曲がアトランダムに流れる。 「井上陽水さんね? 好きなの?」「母が陽水が好きで、家にいるときはずっとかかってるもんやから、ぼくも聴くようになって」「わたしも好きなの。お母様と一緒ね。陽水さんは声も歌詞も曲も、セクシーなのよねえ」  白川さんのトレゾァの甘い香りと陽水の歌声は曲によっては絶妙にマッチし、ぼくの脳がかき乱されているうちに神前の家に着いた。  花桃はオリーブのような緑色の小さな実をたくさんつけていた。 「あれ、熟れたら食べれる?」 「花桃は食べられないのよ。かじってみたことあるけど甘くないし、あまり大きくもならないの。香りはいいのよ、ちゃんと桃の香りがするの」  白川さんは庭に面した洋間の掃き出し窓を大きく開けて「いい天気」と空を仰いだ。ぼくも彼女のそばに立つ。伸び伸びと枝葉を広げている庭の木々を通り抜けて、いい風が入ってくる。五月も半ばになり外はすでに初夏の陽気だ。 「家のなかはまだ涼しいわねえ。うちは町と比べると気温が多少低いの。標高がいくらか高いし、森を背負ってるから。しっかり歩けたら庭続きの林や森を案内するんだけど、残念。流れに沿って、いい小径があるのよ」  彼女は「少し疲れた」とソファに腰を沈め、ぼくは「お茶にしますか」と台所で電気ケトルのスイッチを入れた。「あ、そうだった。三神デパートで買ったゼリーを食べなくちゃ!」  白川さんは嬉しそうに手を打ち、台所へ来て買い物をひろげた。 「冷たいのにしますか、熱いのにしますか」 「うーん、まずは冷たいのを飲みたいわね。あとで熱いの」 「両方? 欲張りやなあ白川さん」 「うふっ、ごめんね」  冷茶グラスに冷蔵庫の伊右衛門茶を注ぐ。 「あゝおいし。岳ちゃん、買い物の片付けはあとにして早く食べて。美味しいわよ」  二人でひんやり冷たい抹茶ゼリーを食べる。 「ねえ、岳人くん、あなた、絵を勉強してるのよね。わたしを描いてくれないかなあ」  急にいわれとっさに「無理です」と返した。 「いや?」 「いやというか」  彼女の魅力を表現できる自信がない。 「描けるかなあと思って。ぼくの下手な筆で大事な人を汚したらあかんし」「大事な人? わたしが? あなたの?」 「病院でぼくのことを、大事な人っていってくれたでしょ。ぼくにとっても白川さんは大事な人やから」 「どうして?」 「うーん……恥ずかしいけどぼく、彼女歴ゼロで。若い女の子に興味持てなくて。おばあちゃん子やった影響かもしれない。白川さんに五年生のとき死に別れた祖母を重ねて見てるのかもしれんけど、白川さんはぼくにとって大事な人やって思ってる」  どぎまぎしながらいった。  白川さんはテーブルの上で指を組み、じっとぼくを見て聞いていたが、 「岳人くんの大事な人はいつか現れるわ」とぼくの右手を自分の左手で叩いて「若いこの手でわたしを描いてね。描いてね」と二度、繰り返した。  心臓が早鐘を打つ。  彼女への想いは、祖母への思慕の延長から始まったが、これは恋なのか?   トレゾァにまつわる話を聞いたときの胸の痛み。あれから白川さんをそれまで以上に意識し始めたことは確かだ。しかし七十四歳の女性に五十五も年下の男が恋心を抱くなど、あるものだろうか。嘘だ。幻想だ。 「白川さん、知らないでしょう、ぼくがどんな絵を描いてるか」 「どんなの?」  いたずらっぽい好奇心いっぱいの目でぼくの目をのぞき込む。 「訳のわからない絵。抽象画っていうか。最近はそんなのばかり描いてる」 「いいわよどんなのでも。目が三つあっても口が二つあっても。あなたのおばあちゃまの顔になってもいいわよ。ね」 「ね」と首を傾げる仕草。丸い目。いたずらっぽい表情。可愛い。胸が疼く。 描くと心に決めてお茶を淹れた。白川さんはふーふー吹いて熱い煎茶を啜り、ぼくもふーっと吹いてお茶を飲んだ。  静かな五月の昼下がり。人が見たら祖母と孫に見えるだろうこの光景がぼくに無上の悦びをもたらす。これが恋ならぼくはこれでいい。充分満たされる。心からそう思えた。
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