残された赤いメガネ

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残された赤いメガネ

 肩までのグレイヘアを早春の風にふわふわ揺らして、あの人は三神(さんしん)駅のほうからサンシンアベニューを勢いよく歩いてきた。多くの通行人がこちらへ流れてくるなかで、突然目に飛び込んできたその女性になぜか、強く惹き付けられた。  そういうことはよくあることなのだろうか? ぼくは初めてだ。  顔からはみ出す大きな赤いフレームのメガネ。テントのような裾広がりの黒っぽいドレス。裾からグレーのレースがわずかにのぞく。足元は赤い靴下に茶の紐靴だ。斜めにかけたバッグの留め具だけがポチっと赤い。  すれ違うまでのわずかなあいだに色とシルエットが目に焼き付く。一見しただけで姿かたち、色までも鮮やかに脳に刻まれるのは、十数年来絵をやっているからだ。  全体の雰囲気と颯爽とした歩き方から遠目には三十代ぐらいに感じたが、女性の歳はまったくわからない。不思議だったのは、体がぼんやり赤いオーラのようなものに包まれていたことだ。  駅へ向かいながらもぼくは女性から目が離せなかった。その人は向かってくる人波の端っこを歩いていたが、小柄なのでうっかりすると見失いそうになる。目で追ううちにぼくも自然と人の流れの端になっていた。  だんだん近付く。体が触れ合いそうな近さだ。  赤いメガネの奥の大きな目は丸くてチャーミングだ。三十代ということはなさそうだ。  ぼくは人の年齢を推測するとき四十六歳の母を基準にする。それよりは上だろう。女性はまっすぐ前を向いている。視線は合わない。オーラはもう見えなくなっていた。  ぼくの肩にやっと届くくらいのその人から、すれ違いざま、なにかフルーツのいい香りがした。この匂いは……。  記憶をたどって脳がフル回転しかけたとき、右斜め後方でわああーーっとおおぜいの叫ぶ声がし、自転車のブレーキ音と金属のかたまりが倒れる激しい音が辺りを揺るがした。反射的に振り返る。倒れて空回りしている自転車の車輪。道路に広がる黒いテント。顔を覆う乱れたグレイヘア。あの女性だ。  駆け寄って人垣に割り込んでみるものの、ぼくは遠巻きに眺める無力な群衆の一人でしかない。中年の女性がすばやくかがんで「大丈夫ですか?」と声をかけ、女性の手首の脈を取り空いた手でめくれたドレスを直す。大きな流血はなさそうだ。倒れていた女性が「ごめんなさ……」と頭を起こしかける。「あ、動かずにそのまま」  中年女性がグレイヘアの頭を支えてそっと寝かせる。 「救急車をお願いします!」  だれかがスマホに向かって叫ぶ。  赤茶けた髪の若い男が自転車を起こして「あーあ壊れてもたやんか、このおばんのせいや勝手にぶつかってきやがって」と、自分を正当化するかのようにことさら大きな声でいう。「違うやろ! お前が突進してきたんやないかっ、みんな見とったぞ」中年男性が怒鳴る。  離れたところに赤い物が転がっているのが見えた。メガネだ。ぼくはとっさに拾い上げた。ツルは歪んでいるが壊れてはいない。  パトカーが来、続いて救急車が来る。隊員たちが手当をする。 「三神中央病院……了解です」  喧騒のなかで救急隊員の声がとぎれとぎれに聞こえた。  救急車はサイレンを鳴らして去り、人垣は崩れた。いつの間にかパトカーは三台に増えた。自転車の男は巡査たちに取り囲まれて大声で言い訳をしている。  ぼくの手には赤いメガネが残された。
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