824  エルディス

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824  エルディス

アヴァロンの地図が書き変えられようとしている。メイビリル高貴家派とローディン家派の対立が続き、内乱状態に陥っていたルムンフントにガルアシアが越境してきたのは半年前だった。以来、ガルアシアの軍の力を得たメイビリル高貴家がローディン軍を北の端に追いつめて行った。 「リューブリゲンの丘とグリッフェンの森での戦いでわれわれは大敗を喫した。そこで二万もの兵と民を失ったわれらは、もはやこのままこの地に留まることも許されず、しかしはるか北方に逃げても、極北の氷に閉ざされてやがてすべての軍民を失うだろう。もはやこれまでと思う。ここは潔く敵の軍門に降るをもやむなしだとわたしは思う…」 若き総司令官のエルディス・ローディンは、敗軍の将のごとき姿で部下たちの前に立ってそう言った。左腕は肩まで包帯に巻かれ、首からかけた布で吊られている。そこらじゅう刀傷だらけで、この指揮官が前線で兵と一緒に戦っていたことを物語っていた。 「それはなりません。そうなればこのルムンフントは確実に悪魔の支配するかの国の支配下に置かれましょう。ここは、最後の一兵になるまでひたすら抗い続ける、そうお覚悟されたあの日のお誓いをお続けになることが、たとえ敗北してもなお、われらの想いを受け継ぐ民への至誠の証となるでしょう」 古くからローディン家に仕えていたエルナンドは、肩を震わせながらそうエルディスに具申した。もう生き残って無傷の兵は少ない。みな傷を負い、深手を負っている者も多かった。いちどは弱体化したメイビリル軍だとはいえ、いまガルアシア正規軍の力を借りたその軍勢とまともに戦えるのは難しいだろう。それでもここで全滅したとしても、その意志は…悪魔の支配を拒む心は、民のなかにきっと残っていくと、いまはそう信じるしかないのだ。 「エルナンド将軍…俺はみなを殺したくないのだ。わたしが死ねば民は生き残れる。いまはそれが一番いい方法だと思う」 「それで民に未来が?いずれ悪魔に喰われてしまう民に、戦い死ぬる慈悲もなくあやつらに差し出せと?」 「そこで慈悲という言葉を使うな。われわれはそんな尊貴なものではない。神を騙るような傲慢で驕り高ぶる馬鹿者じゃないよ」 少し興奮したエルディスの、頭に巻いた包帯にあらたに血が滲んだ。真っ赤な血の色と対照的に、顔色はやや青ざめたように見えた。 「やれやれ、戦場で獅子奮迅の働きを見せていたと噂にあったが、これは誰かの思い違いみたいだわね」 粗末な小屋を改造した司令部のドアの方から、若い女の声が聞こえた。 「誰だ!」 総司令官を囲んだ部下たちがいっせいに抜刀した。まあすでにみなよれよれで、兵が囲むこんなところまで来る暗殺者(アサシン)に対抗できるとは思えなかった。だがみなは死んでもこの司令を守るという、そういう意識だけは強くあった。 「お久しぶりね、ローディンさま。まあずいぶんと凛々しく…いえボロボロになって…ちょっと笑えるわ」 「馬鹿にしに来たのかね、騎士エミリーナ・ユクテウスどの…」 ローディンは握っていた剣の柄から手を離し、みなにも剣を収めろとうながした。みな渋々剣を鞘に納めた。 「わざわざこんなところへ嫌味を言うために来たんじゃないわ。王からの伝言を持ってきてやったのよ」 「王ってキリス王の?」 「わたしが仕える王はキリスだけよ」 「で、伝言とは?」 「気が早いわねえ。まったく遠いところまで来てやったのよ?せめてお茶の一杯でも出さないのかな?まったく田舎貴族は礼儀ってもんを知らないわねえ」 「やっぱり嫌味を言いに来たんじゃないか」 そう笑って言いながらローディンは従卒に茶の支度を命じた。エミリーナはつかつかと遠慮なしにローディンのいる大きなテーブルの前に来ると、うやうやしく深々とお辞儀をし、そしていきなり側にあった椅子を引き寄せ、その椅子にどかっと腰かけた。騎士らしくもあり、どこか不遜な態度でもあるその姿にまわりの将軍たちはあっけにとられたようだ。 「みなも座れ」 ローディンは笑いをこらえて将軍たちや部下に言った。 「で?キリスさまは?」 いまのいままで降服と死を覚悟していた顔からいきなり希望に満ちた表情になったローディンを見て、みなは一様に驚き安どした。総司令官が暗い顔をしていたのでは士気は落ちる。やはり苦境にあっても、指揮官たるものは厳と勝利に向かう者の顔ではなければとみなは思った。そしてそれはキリスの名があってこそとも確信した。 「キリスはまったくこのところ忙しかったわ。ユング大陸に行ったりユルゲン大陸に行ったり、それに他の世界にもね。そのしわ寄せって言うか、後始末でさんざんこき使われたわね。あーやだやだ」 「いや愚痴言いに来たんか」 「これは失礼。でもそれも言いたくなるわ。なんせキリスを王と仰ぐやつらが増えちゃって、収拾つけるのたいへんなの」 「大ガイア大陸は北方を除いてだいたい支配したって聞いてるけど、ほかの大陸にも支配した国が?」 エミリーナは少し怖い顔をしてローディンを睨んだ。 「あんたねえ、支配なんて言ったらキリスは怒るわ。まあそれはホントなんだけど、キリスはそこら辺こだわってるみたいで、『同盟』って強調するんだけどねえ…まあ相手はそんなことまったく考えていなくてさ、もう隷属に近いありさまよ。しかもみんな嬉々としてね」 「それはすごいことだ。キリス王の権威が高まれば、ほかの国にも睨みがきく」 「はあ?ほかの国?どこよ」 「どこって…」 エミリーナはちょっと気の毒そうに笑うと、テーブルに広げられていた地図を裏返し、そこに大きな丸を書いて、それを三つに分割した。みんなはあっけに取られていたが、ローディンはなぜか青い顔になっていた。 「いい?これがルムンフント…」 エミリーナは三つに分けた丸のうちのひとつに小さな印を書き込んだ。そしてそのそばにまた印を書いていく。その小さな印はいくつかあった。 「じゃあその下にある印はギ・エンテ?」 「そうなるわね」 「ってことはあとの印はガルアシアと、そっちはアグレイシアか。あとのひとつはあのおかしなところ…ファンゲルドなのだろうか?」 「いまはファンゲルドって名じゃないわ。アラーラって国よ。キリスが建国を手伝ったの」 「そ、そうなのか。ひそかに武器とかくれるおかしな国だと思ってた。理由はわからなかったが、いま納得がいった」 エミリーナはクスッと笑った。やれやれ、そこから説明しなきゃなんないのかと思ったのだ。 「めんどくさいからぶっちゃけ言うけど、キリスの同盟じゃないのはあんたたちとガルアシアだけよ。ギ・エンテは二か月前に滅亡してほかの国になったわ。もちろんキリスに頭下げてね」 「あの国は小さくても聖騎士の総本山だろ。そうやすやすと滅亡するはずが…」 「さあね。どこかの大白蛇と大ムカデが暴れたんじゃないの?」 「はあ?」 そんなんで国が滅亡するか?い、いや何かわけのわからないものがきっといるんだろう。いやそれにしてもキリス王の勢力は大きくなったとローディンは思った。 「だがそのなかでわれわれは虫の息だ。この地図からも消える日は近いよ」 「さあね?消えるのはどっちかしら」 「どういうことだ?」 「よく見なさいよ」 「なにを?印をか?あとは白いところしか…」 ローディンは青い顔がますます青くなった。将軍や部下たちがオロオロと慌てている。みな心配そうにローディンを見つめてしまった。 「そうね…あとは真っ白、ね」 「ほかの大陸はもう?」 「そう」 「ほかに印は?」 「ないわ」 「マジか…」 それを聞いていた将軍たちは息をのみ震え、慄いた。すでにアヴァロンはキリス王に支配されていたんだとわかったのだ。ここでたったふたつの印だけが、キリスにまだ属してない国だということを。 「さあ、会議をしましょう。もちろん、勝つための会議よ。そのためにキリスの伝言を伝えに来たのよ」 そう言ったエミリーナをローディンは希望が輝くような目で見つめた。 「キリス王はなんておっしゃったのでしょうか?」 エミリーナはその美しい瞳をまるで獲物を狙う野獣のように光らせて、そうして静かに言った。 「勝て、と」 それは嵐の前触れだと、その場にいた指揮官たちすべてに伝わった。
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