時を越え

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 記憶する。覚える。忘れない。  歳を重ねていくと、そういったことが難しくなる。スポンジみたいにどんどんと吸収していった脳を、老婆も昔は持っていたはずなのに、今の彼女にはそれができない。  使っている脳みそは生まれた時からずっと同じなのに、悔しくないのかな。  ゲンタは漠然と、そう思った。  次の日の夕方も、老婆はあのベンチにいた。暮れなずむ空を見上げ、無表情な彼女。  そんな姿を目にしたゲンタは、急いでユカとナナコを連れてきた。 「おばあちゃんっ、この子が昨日言ってた子たちだよっ」  どこか眠っているような、朧げな瞳をした老婆が涙を流していないことに、ゲンタはほっと胸を撫で下ろす。 「こっちがユカで、こっちがナナコっ」  すぐそこでする少年の声に、空から視線を移した老婆は言う。 「もう、空からはなぁんも、降ってこないかい?」  突然投げかけられた理解困難な質問に、小学生3人は顔を見合わせた。しかしそんな彼等を前にしても、老婆の口調は穏やかだった。 「熱いのは嫌だからねえ。兵隊さんたちも可哀想だから、早く終わってほしいねぇ」  ゲンタとユカの頭にはその刹那、「戦争」という文字が浮かんだ。詳しくはまだ習っていないけれど、国語の教科書には空爆の話が載っていた。 「へいたいさん?」  無邪気なナナコは首を傾げた。空を見上げた先に飛んでいる、1羽のカラスに人差し指を向けたのは兄のゲンタだ。 「おばあちゃん、見える?お空にカラスが飛んでるよっ」  老婆はほんの少し、顎を上げた。澱みを帯びたその瞳に、遠くの鳥が映ったかどうかはわからない。 「もしなにか降るとしたら、あのカラスのうんちだね。ぼくも1回やられたことがあるから、気をつけてっ」  その言葉に、ユカはクスクス笑い出す。 「ゲンタその時半べそかいてたよねっ。懐かしい〜」 「おい、笑うなっ」 「ごめんごめん、思い出したら笑えてきちゃって。あははっ」  顎の位置を戻した老婆。今度は幸せそうな子供の声に、耳をじっと傾ける。 「ああ、よかった」  柔らかく微笑んだ老婆はそう呟くと、眠るように瞳を閉じた。
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