プロローグ『涙の味』

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プロローグ『涙の味』

 そのお店のシュークリームを食べると「しあわせ」になれる。  いつの間にかそんな噂までできてしまった。  平日の金曜日。有給休暇を取り、ひとり映画を観るつもりで家を出た。駅までの最短距離である商店街のアーケードから外れ、住宅街を進む。日傘を片手に少しだけ寄り道。見えてきたのは、ミントグリーンの看板。その下には今日もシュークリームを求める人たちの列ができている。夏の日差しで作られた木漏れ日が、湿った空気を少しだけ軽くする。周囲に膨らむのは甘いバターの香り。ゆっくり呼吸をするだけで胸は温かくなる。 「帰りにするか」  こっそり窓から覗けば、忙しく動き回るスタッフの姿が見える。シュークリームは売り切れてしまうかもしれないが、ケーキだって負けないくらい美味しい。それこそ毎週食べても飽きないくらいに。  ――いくつにする?  ――いくつでも食べられちゃうよね。  列に並ぶ女性たちの会話が耳に入り、胸の中で頷く。  焦げる手前、絶妙なタイミングで取り出されるシュー生地。表面には粒の細かなあられ糖。歯を立てる前にパリパリと崩れていく皮は、内側にしっとりとした柔らかさを残している。中にはたっぷりとクリームが詰められているのに、舌触りは軽く、飽きのこない甘さが広がる。その中に混ぜられた塩味。小さな塩が甘さをより引き立ててくれる。  初めて口にしたときの感動を忘れたことはない。  きっと、この先一生忘れることはないだろう。  彼と泣きながら食べたときと同じ――涙の味がするのだから。
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