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9.美味しくない
帰宅するとハルは変わらず「おかえり。遅かったね」と笑って言った。
いつもと変わらないその笑顔がたまらなく憎くて、気づいた時には手にしていた箱を投げつけていた。箱はもちろんハルの体を通り抜けて床へと落下。ぶつからないと分かっていてもハルは反射的に体を強張らせた。嫌な音を立てて歪んだ箱を見下ろし「残念。俺には当てられないよ」とおどけてみせる。声の強張りさえ隠せていなかったけれど、そんなことに構ってはいられなかった。
悔しくて。悲しくて。どうしたらいいのかわからなくて。この痛みが失恋によるものなのか、ハルが黙っていたことに対してなのかもわからなくて。ただただ込み上げる苦しさに耐えきれなくなって、言葉だけが落ちた。
「出てって……」
「え?」
「もう出てってよ!」
言葉を空気に投げ出した、その瞬間――。
ハルは消えた。
手品みたいに。夢から覚めるみたいに。音もなく、目の前から姿を消した。
「……え?」
こんなにあっさり消えてしまうと思っていなかった私は思わず「ハル?」と先ほどまでハルがいた空間へ呼びかける。「出てって」と言ったのは自分なのに。本当に姿が見えなくなったら不安になるなんてひどいと思う。でも、呼びかけたならハルは「え、もういいの?」とあっさり出てきてくれる気がしたのだ。
「ハル? え、ハル? ちょっと何もそんな急に……」
ハル、と呼ぶ自分の声だけが部屋の中を埋めていく。気づけば額には汗が滲んでいて、室温が上がっているのがわかる。じわじわと暖められていく空気にハルがここにいないことを教えられる。
「……っ」
こぼれたのは汗ではなかった。
「っ、ハル……なんで……」
自分がどうして泣いているのか、何が悲しいのかわからない。わからないままに床に転がっている箱を開けた。中にあったシュークリームは横に倒れ、柔らかなクリームが箱の側面にべたりとついていた。お店に並んでいたときはあんなにもまるくて幸せそうな姿をしていたのに。今は形を崩して寂しそうに見える。
床に座ったままシュークリームを手に取り、口へと持っていく。手がクリームでベタベタになろうが構わず食べる。形を崩そうが中身は一緒だ。表面は少しカリッとしていて香ばしいのに中はたっぷり空気を含んだ柔らかい生地で。ずしりと重みを感じるほどぎゅうぎゅうに詰め込まれたクリームは甘いのにすっきりとしていて。いくらでも食べられそうな美味しさだった――のに。
幽霊のハルに出会うまでは何度かシュークリームを買って食べていた。シュークリームは私の大好物で、とくにこのお店のものは私の好みど真ん中だった。だから、食べる前から美味しいとわかっていた。それなのに。
今、口に含んでいるシュークリームからはちっとも美味しさを感じられない。生地もクリームも同じなのに。いくら食べても何も感じられない。クリームでべたつく手も、床に張り付いて汗をためている足も何もかもが嫌で、たまらなく悔しくて、どうしようもなく悲しかった。
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