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10.失恋
ガチャリと鍵の開く音。ドアを開けると日中に暖められた空気がむわりと流れてくる。熱帯夜だと言われている外の方がまだ涼しい。かといって部屋に入らないわけにはいかない。
外の空気をたっぷり吸い込んでから、熱い気体の中へと体を入れる。触れただけで肌には汗が浮かび、息苦しさを感じる。パンプスを揃えるのは後回しにし、とにかく部屋中の窓という窓を開けた。膨らみ過ぎた部屋の匂いを溜めこまれた空気と一緒に押し出す。流れていく風を肺に入れ、玄関に戻ってパンプスを揃える。コン、とヒールが音を響かせれば室内がとても静かなことを実感する。きちんと消されたテレビ。五分後には稼働させる予定のエアコン。「おかえり」と言う声はもちろんない。
これが当たり前だった。これが私の日常だった。
リン、と窓辺にかけていた風鈴が音を鳴らす。振り返れば、ひらひらと舞う短冊が目には見えない風を教えてくれていた。
風鈴なんてハルが見つけなければ出すことはなかっただろう。いつ買ったものだったのかも覚えていない。クローゼットに勝手に入り込んだハルが「この箱の中に風鈴入ってるよ」と言うまで思い出すこともなかった。「夏にしか飾らないんだから、今飾るべきでしょ」とハルに言われ、面倒だなと思いつつも窓辺に吊るすことにした。「どうせまたしまうのに」と思ったけれど、いざその音を耳にするとそんな気持ちはどこかへいってしまった。「夏って感じがしていいだろ」そう言ってハルは笑っていた。
見えないけれど触れたとわかる風。
ハルは見えるのに触れることはできなかった。
たった三週間しかいなかったくせに。こんな思い出なんて残していかないでよ。胸が痛くて、苦しくて……たまらなくなる。
消える一瞬前、最後に見たハルの顔が忘れられない。
あれはあの日と同じ顔だった。
――だって。俺のこと見えるの、璃子だけだから。
そう言って笑ったあの日と同じ。
思えばハルはいつも笑っていた。楽しくて笑うこともあれば、怒りながら笑うこともあった。悲しいときですら、泣きたいときですら笑っていた。ハルにとっては笑うことでどうにか自分を保っていたのかもしれない。
そんなことに今さら気づいたところでどうにもならない。どうにもできない。
私はまた同じことをしてしまったのだ。ハルがサッカーを辞めたことを話してくれたときと同じで。ハルがどんな気持ちでいたのかなんて知ろうとしないで、無責任な言葉を投げた。いなくなってから間違えに気づいても謝ることはできないのに。後悔を繰り返すだけだと知っていたはずなのに。
再会できても私はあのときのことを謝れてはいなかった。後悔が消えたわけではなかったけれど、彼の話を聞いて、ハルが今までと変わらず接してくれるのに甘えて、なかったことにしようとした。今さら蒸し返すこともないだろうと、目の前にある時間だけを大切にしていればそれで許されるような気持ちになっていた。
「……」
立ち上がり、開けていた窓をひとつひとつ閉める。部屋の中を自由に動き回っていた風が止まる。閉じられた空間の中でエアコンのスイッチを入れれば、稼働音が耳に届く。緩やかで冷たい風は自然のものとは違う。ハルが触れたときに感じるものとも違う。
体の中へと吸い込んでも、広がるのは柔らかな冷たさではない。甘い香りもしない。
「……ハル」
呼んでもそれは音として落ちていくだけで。「なに?」と答えてくれる声は聞こえない。
本当はずっと考えていた。
なぜ一昨日はシュークリームを選んだのか。「心残りは『兄貴の最高傑作』を食べられなかったこと」そう言われて食べたことのないものだろうと、新商品やリニューアル商品ばかりを買っていたのに。あの日、あのとき、失恋する直前に選んだのはなぜか。ハルの顔を思い出したなら……選ぶべきは『最高傑作』でなくてはならないはずなのに。
たった三週間。ハルがここにいたのはたった三週間だった。彼のことを考えていた時間に比べればとても短い。
「……っ」
目の奥が痛くても、こぼれていく熱を実感しても、唇を噛みしめなければ耐えられないほどに苦しさが込み上げてきても。認めるわけにはいかない。絶対に認めるわけにはいかなかった。これは勘違い。勘違いに決まっている。だって……認めてしまったら。気づいてしまったら。今度こそ本当に私は失恋してしまうのだから。
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