13.二回目の臨時休業

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13.二回目の臨時休業

 それからもハルは今までどおり私の部屋にいた。 「ただいま」と声をかければ、「おかえり」と返ってくる。  はっきり決まってはいないと言われ、いつ消えてしまうのかと最初は不安で仕方なかった。それでも時間が経つにつれて「別れの日」を意識することは薄くなっていった。いつかは離れてしまう。いつかは別れてしまう。それはもう変えようがないから。こうして今が当たり前にあるならそれだけを感じていたかった。  ハルが再び現れるようになってから一か月と一日。  一か月ちょうどの昨日は突然消えてしまうのではないかとびくびくしてしまったけど、朝になってもハルはいた。「いってきます」と部屋を出たときもとくに変化はなかった。ハルに「今日で一か月過ぎたけど?」と聞いてみたが「うーん。はっきり決まっているわけじゃないから。そろそろってことしか言えないけど。でも、とりあえずまだ平気な気がする」と言われ、不安は残ったものの出社してしまった。本音を言えば、有給休暇を全部使ってでもハルと過ごす時間を作りたいところだけど。現実はそんなに甘くない。私にできるのは忙しさのピークである今日を乗り切って、明後日のお休みを手に入れることくらいだ。明日は祝日。金曜日のお休みさえ取れれば四連休になる。四日なんてささやか過ぎるくらいだけど、これが精一杯だから仕方ない。  有休の申請が承認されたのを確認してパソコンを閉じる。これで四日間は自由に時間を使える。ノー残業デーもなんとか守られ、夕陽が沈むのとほぼ同時にビルを飛び出した。  この一か月で私はずいぶんと歩くのが速くなったと思う。会社にパンプスを常備し、通勤はスニーカーに変えてしまった。こんなのほんの数分の差かもしれない。でも、ハルと私にとってはその数分が、一分一秒がとても大切だった。  まっすぐ帰ることもできたけれど「ケーキを一緒に食べる」という約束も大事にしたい。この約束こそが私たちを繋いでくれるものだから。触れられなくても。手を握ることすらできなくても。ケーキを食べている間の「美味しい」という気持ちは分かち合うことができた。それはきっと――。 「今日は特別に二種類買っちゃおうかな」  なんといっても四連休を勝ち取ったのだから。ちょっとくらいの贅沢も許されるはずだ。  夏から秋へと変わり始めた空気には湿気と涼しさが混ざり合い、今この瞬間が「変わり目」なのだと伝えてくる。風が少しずつ重さを落とし、肌に柔らかな温度を残していく。  ――まるでハルといるみたいだ。  そんなことを思っていたら、視界の端にミントグリーンの看板が見え始める。考え事をしていても迷わずたどり着けるくらい来ているという事実に小さく笑ってから、歩くスピードをさらに上げようとした、そのとき。  シャッターが下りていることに気づいた。いつも外に出されている看板ももちろんない。  定休日は月曜日のはず。今日は水曜日。毎週私が買いに来ている日。時間だっていつもと変わらない。むしろいつもよりちょっと早いくらいで。  ドクン、と嫌な音を立てて心臓が鳴った。  それでも行かないわけにはいかなかった。シャッターには何か貼られている。その何かを確かめてからでないと帰れない。ドクドクと騒ぎ出した心臓を落ち着けようと深呼吸を繰り返しながらお店の前まで足を進める。  夜に染まり始めた空にはまだ太陽の光がわずかに残っていて、シャッターの前に立つ私の影を薄く伸ばした。自分の影で薄暗くなった視界の真ん中、それは貼られていた。よほど慌てて書いたと思われる少し乱暴な『臨時休業』の文字。理由までは書かれていなかったが、突然の休業を丁寧に詫び、近いうちにまた再開する旨は記されていた。  ――このお店の『臨時休業』を見るのはこれが二回目。一回目はハルが亡くなったときだった。  ざわざわと私の胸の中を表すかのように風に吹かれた木々が葉を擦り合わせる。ザラザラ。ガサガサ。ちっとも心地よくない音が耳から入ってきて、胸の中の不安を膨らませる。早く家に帰らなくては。そう思うのに、体にうまく力が入らない。とんでもなくいやなことが待ち受けている気がして動けない。  シャッターの下りた店の前で立ち止まったまま動けなくなった私に、それは唐突に、とても優しく――触れた。  少し冷たい、柔らかな風。薄く甘い香り。  さぁっと肌を撫でた風はカサカサと頭上の葉を震わせる。 「ハル――?」  落ちてきた音に重ねた名前。その響きが自分の中に戻ってくる前に、私は地面を蹴って駆け出した。
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