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1.雨の夜
人間驚きすぎると声を出すことすらできないらしい。
傘にあたる雨音に、音にすらならなかった悲鳴は掻き消された。
シャッターの下りたお店の前。時刻はおそらく二十二時過ぎ。
昨日の「ノー残業デー」のしわ寄せが今日に回り、結局こんな時間だ。なんのための「ノー残業デー」なのかわからなくなるけれど、そのおかげで毎週水曜日にケーキを買えているので文句はない。通りの先の商店街ではほとんどのお店でシャッターが下ろされている時間帯。アーケードの明かりが消えていないのでこちらと違ってだいぶ明るくはある。
住宅街が広がるこの場所は外灯の明かりと家々から漏れる光しかない。辺りに満ちるのは夜の暗さと静けさのみ。空に広がる雨雲にじっと見下ろされ、息まで詰まりそうだ。
「見えるの?」
半袖の白いシャツを着た彼も驚いた表情でこちらを見つめている。
「見えるけど……」
そう答えながら、いかにこの答えが信じられないものなのかは彼よりも私のほうがわかっている。見える。軽く見上げる高さにある顔。薄く日焼けした肌。見開かれた黒い瞳。大人にはまだなりきれていない幼さがしっかりと残っている。第二ボタンまで開けられた白いシャツも紺色のズボンも見える。その下の黒のスニーカーもこの暗さの中でもはっきりと見える。――足、あるよね? 視線を上から下へと動かし、再び顔を見上げる。
「そっか。見えるんだ」
噛みしめるようにつぶやき、一瞬逸らされた視線が戻ってくる。
「じゃあ、しばらく泊めてよ。璃子、一人暮らしだったよね?」
先ほどまでの驚きはもう消化されたらしい。一か月前に見たときと変わらない笑顔で彼は言った。
「いや、それは」
「まあ、断られても勝手に入っちゃうけど」
「え」
「だって、ほら」
すっと伸ばされた手に思わず首をすくめれば、頬に残ったのはひやりとした冷たさだけで、触れたはずの大きな手の感触は一切なかった。小さな風が通り抜けるような感覚。と同時に甘い香りが鼻に触れた。雨が降っていて、お店は閉じられているのに。
「ね。だから璃子の部屋にもあっさり入れちゃうんだな」
左の頬から右の頬へと抜けたのは風じゃなかった。彼の手だ。指を大きく広げた、私の顔よりも大きな手。その手が小さなリボンを丁寧に結ぶのを私は知っている。小さなこどもの頭を柔らかく撫でるのも。
会えなくなったこと、その姿を見られなくなったことを悲しく思う気持ちは今もまだ残っている。だけど、これとそれとは別だろう。
「いや、だからってなんでウチ? なんで私?」
彼が会いに行くべきは、顔を見せるべきは――彼がこの世を生きた十六年――ずっとそばで見守ってきた家族だろう。お店の常連客でしかない私ではないはずだ。
「だって。俺のこと見えるの、璃子だけだから」
初めて見る顔だった。笑っているのに泣いているみたいだった。隠しきれない寂しさを見せられて、断ることはできなかった。
「だから俺が成仏できるように協力してね」
付け加えられた言葉に一瞬息が止まる。あっさりと、まるで当たり前の事実を言うかのように言われ、どう答えてよいかわからなくなる。
「とりあえず、週三回はお店に行ってほしいな」
強くなった雨が傘を叩く。
傘を持っていない、屋根のない道の真ん中に立つ彼――ハルは、雨の中にいるはずなのにどこも濡れてはいなかった。ああ、雨さえ通り抜けてしまうのだと、そんなことを思った。
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