2.ケーキ屋

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2.ケーキ屋

 そのケーキ屋さんを見つけたのは偶然だった。  就職を機に今の街に越してきて一か月。ようやく訪れた大型連休。環境の変化に慣れるために使い果たされた体力を回復すべく、初日はとにかく寝ようと決めていた。毎日残業していたわけでも、寝不足だったわけでもない。人間関係だってそれなりに良好だ。先輩は優しいし、同期とも気が合うし。それでも体は正直だった。緊張や気疲れ、自分でも意識していないうちにストレスは溜まっていたらしい。しばらく休める、と思った途端にスイッチが切れたように体からは力が抜けた。  ――パチッと音がするくらいの勢いで瞼が上がる。  目が覚めた。眠気のかけらもなくスッキリと。すごく爽やかな目覚めだ。体に残っていた嫌なものはきれいさっぱり消えている。ベッドに沈み過ぎた体は少し動きがぎこちないけれど、確実に回復したのだとわかる。  体を起こしてみるが、遮光カーテンを引かれた部屋の中は暗く、今が朝なのか夜なのかもわからない。振り返っていつも枕元に置いているスマートフォンを手に取る。触れればすぐに反応するかと思ったら、画面は真っ暗なままだった。 「あ、そっか」  昨日の私はとにかく誰にも邪魔されずに寝たいと電源を落としたのだった。会社は休みで、これといった予定もない。アラームは必要ないだろう、と。  ローテーブルにはご丁寧にミネラルウォーターのペットボトルまで置いてある。起きてすぐに飲めるように。キッチンまで行かなくていいように。二度寝前提の準備。昨夜の自分の用意周到ぶりに自分で笑ってしまった。  ぐっと上半身を伸ばしてからペットボトルへと手を伸ばす。持ち上げれば小さな水たまりができている。片手で持つには大きすぎるスマートフォンは濡れないようテーブルの端に置いた。電源はまだ入れない。  寝すぎて力の入らない手でどうにか蓋を外し、喉へと透明な液体を落とす。体の中に流れてきて初めて喉が渇いていたことを自覚した。あっという間に三分の一ほど中身を減らし、もう一度蓋を回したところで立ち上がる。内側が空っぽになったような軽さと凝り固まった筋肉とちぐはぐな体で窓辺へと向かう。  カーテンを一気に引けば、差し込むのはオレンジ色の強い光。白くなるのではなく赤から青へと変わる空。 「夕方だ……」  それも陽が沈みかけている時間。振り返れば壁にかけられた時計は十九時まであと五分を示している。ベッドに入ったのが二十二時だったから……ほぼ二十一時間寝たってこと? くぅとお腹が鳴る。そりゃお腹も空くよね。こんな時間に化粧をするのもな、と思いながら軽くなった体を洗面所へと向かわせた。  部屋を出るころには太陽は沈んでしまっていた。歩いて五分のコンビニが一瞬浮かんだが「それじゃない」と掻き消す。空腹を満たすだけなら何でもいいのかもしれないけれど。せっかくリセットされたのだ。最初に入れるのはもっと特別なものがいい。  駅へと向かって伸びる商店街。お肉屋さんのコロッケの匂い。ウナギ屋さんの煙。スーパーの前に並ぶ自転車。カフェのクーポンを配る女の人の声。買い物袋を提げた親子連れに、手を繋いで歩くカップル。スーツ姿の男性に、部活帰りと思われる学生の集団。匂いも音も人も雑多に混ざり合う空間。不思議とうるさいとは思わなかった。それよりもどこか居心地の良さを感じる。自分の身近にある他人の生活。交差する場所。家と会社を往復するだけの毎日では気づかなかった空気。ひとりではない、という漠然とした安心感。 「……ん?」  吸い込んだ空気の中に柔らかな香りを感じ取り、思わず顔を動かす。  バターの香ばしさ。カスタードの甘さ。頭に浮かんだのは美味しそうなケーキの姿。きょろきょろと見回してみるが視界に入る並びにはそれらしきお店は見当たらない。  裏に伸びる小道の方だろうか?  アーケードから外れて目についた路地へと進む。たった一本、道を変えただけで騒がしかった空気は一気に遠ざかり、住宅街の静かな温かさが広がる。一軒家が多く立ち並ぶ道の少し先。吊り下げられたミントグリーンの看板が目に入る。  あと数歩でたどり着くというタイミングで、カランカランと音が響く。中から出てきたのは白いコックコートを着た男性。思わず見上げてしまう背の高さに、自然と顔が上を向く。 「いらっしゃいませ」  目が合ってすぐに柔らかな声が落とされる。辺りに漂う甘い匂いのせいもあってか、ふわりと目を細めて笑った顔にふわふわのシュークリームが思い浮かぶ。  目覚めて最初の食事がケーキなのはどうなのか、と思わなくはなかったけど。  向けられた笑顔に促されるまま私は店内に入ってしまった。  それから五日間。  連休中は毎日、そのお店に通った。ケーキが美味しかったのはもちろんだけど。彼の柔らかな空気に惹きつけられてしまったのだ。  連休が明けてからはさすがに毎日行くことはできないので、ノー残業デーの水曜日と土曜日の週二回だけにしている。土曜日はお店が混んでいて彼と話せる機会はほぼない。厨房で忙しく働く彼の姿を遠目に見つめるだけ。それだけでよかった。もう少し話したいな、と思わなくはなかったけれど。同じ空間にいられるだけで、その存在を感じられるだけで胸は温かかったから。  このささやかな楽しみだけで十分。十分に幸せだと思えていた。  ――ハルに会うまでは。
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