4.ハル

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4.ハル

 毎週土曜日。ハルはお店にいた。今まで気づいていなかっただけで私が通い始めた連休中も毎日ではないが働いていたらしい。  ハルと初めて言葉を交わしてから一か月。私が本当に知りたいのは、仲良くなりたいのは彼のほうだったけれど、増えていく情報はハルに関するものばかりだった。  彼とはその姿を見られるだけで、ほんの少し言葉を交わせるだけで十分だったのだから。それでもいいはずなのに。彼の弟であるハルとここまで話せるようになると、彼とももっと話せるのではないかという期待が生まれてしまう。自分の中に芽生えてしまった欲ほど厄介なものはないのに。  そんな私の気持ちには構わず、ハルは私に話しかけてくる。厨房にいる彼と違い、お店に出ているので言葉を交わす機会は多い。 「それでさあ。すっごくいやな言い方されたから辞めちゃったんだよね」 「……」  一体私は何を聞かされているのだろうか。  いや、そもそもどうしてハルは私にこんな話をしているのだろうか。 「ひどくない? 俺、何も悪いことしてないのに。璃子もそう思わない?」  ショーケースを磨くハルが振り返る。屈んでいるので見上げられる形になる。  野良猫に懐かれた気分とでも言えばいいのだろうか。ふいっといじわるなことばかりしてきたくせに一度気を許すと(?)ひたすらそばに寄ってくる。エサなどあげた覚えもないのに。名前も教えた途端、当然のように呼び捨てにされた。 「――そんな言葉で辞めちゃうくらいのものだったんだ」  普段の私なら「そうだね」って言うところだけど。ハルには言えなかった。  なんでもかんでも同意してもらえると思うな、といじわるな心の方が勝ってしまう。彼へ持ってしまった期待に対するモヤモヤとした気持ちもあったと思う。ハルがこんなふうに話しかけてこなければここまで彼を意識せずにすんだのに、と。 「あー、そうかも。サッカーなんて楽しくてやってただけだし」  返ってきたのは拍子抜けするほどあっさりとした言葉だった。高校生のハルにとって部活を辞めることはそんな程度のことでいいのだ。私が会社で働くのとは違う。興味を持ったらやってみる。つまらなくなったら辞めればいい。そういうことが繰り返せるのが若さだ。もっと私も若かったなら、こんなに悩まず彼にも向かっていけたのかもしれない。自分が失ってしまったものを思い「こんなのただの八つ当たりだ」と、自分で自分が情けなくなる。  それでもハルに素直に謝ることはできなくて 「じゃあ、このお店は?」  指紋ひとつなく磨き上げられたガラスを視界に入れたまま問いかける。  立ち上がって体を伸ばしていたハルは「んー、どうだろ?」と答えを濁してにやりと笑った。素直なようで素直じゃない。わかりづらいようでわかりやすい。お兄さんに怒られながらも毎週手伝いに来るのだから。ショーケースを挟んで笑顔を作れるのだから。ハルはこの仕事が好きなはずだ。 「ふーん」  なんだか可愛いな、とこっそり思った心を隠して、ガラスの向こう側へと視線を向ける。  磨き上げられたショーケースの中には宝石のように輝くケーキたちが並ぶ。残っていたのはイチゴのショートケーキ、オレンジとチョコレートのケーキ、レモンとチーズのタルトとシュークリームの四種類だけ。閉店間際だから仕方ない。水曜日と違って時間のある土曜日は日中に訪れることが多かった。今日はたまたま予定があってこんな時間になってしまったけど。  閉店まではあと十分。  ひとつひとつは手のひらよりも少し小さいけれど、食べるとそのサイズが丁度いい。お腹がいっぱいになりすぎない「もう少し食べたいな」という絶妙な量と味なのだ。全種類を制覇したわけではないけれど(そもそも毎週のように新商品やリニューアル商品を出されたら追いつけない)、それでもわかる。きっとどれを食べても美味しくて、とても幸せな気持ちになれるのだと。だって――。 「お決まりですか?」  聞こえた声に視線を上げれば、優しく微笑む彼の顔があった。  心臓がピョンと跳ね、自分の意思とは反対に顔が下がる。 「えっと……」  人差し指をガラスに向けたまま言葉は途切れる。 「ゆっくり選んでください」  ふふ、と小さく空気を震わすような笑いをこぼして彼は閉店準備を始める。棚に並んでいる焼き菓子の数を数え、飾られている値札をひとつひとつ確かめる。こんな彼の姿が見られるのは閉店間際に駆け込む水曜日だけのはずだった。  遅い時間に来るのも悪くないな。選べるケーキの種類は減ってしまうけれど、彼と話す機会は増えるのだから。 「で? どれにするの?」  隣に立っていたはずのハルはショーケースの向かい側にいた。  彼との会話に夢中でちっとも気づかなかった。 「えっと……」  少しだけ不機嫌な表情を見せるハルに「もう少し待って」と返して視線を動かす。  本音を言えば、残っているケーキすべてを買い占めてしまいたかった。どれを選んでも美味しいのなら、「いっそ全部買ってしまおうか」と思わなくはない。けれど、ひとつを丁寧にじっくりと味わうからこそとても美味しいのだとも思う。それにこんな時間にケーキを四つも食べたら後々の自分が恐ろしいことになるのは明白だった。  ここはちゃんと特別なひとつを選ばないと。  静止している宝石たちを前に、右から左、左から右へと何度も視線を移動させる。 「レモンとチーズのタルトください」  選んだのは『新商品』のシールが商品名につけられているタルト。レアチーズの白い生地の上には薄いレモンのはちみつ漬け。添えられたミントの緑色がとても爽やかで夜に食べても罪悪感が少なそうだ。 「レモンとチーズのタルトですね」  トゲトゲした声を出しながらも、トングの先は優しく商品に触れる。  ひとつしかないのだから間違えようはないけれど「こちらでよろしいですか」と、ハルは箱の中身を見せてくれた。小さな保冷剤と一緒に入れられたケーキは少しだけ窮屈そうな顔でこちらを見ている。とても丁寧に詰められたそれらがなんだかおかしくて、小さなくすぐったさを胸に隠したまま「はい」と答えた。ハルは一瞬不思議そうな表情をしたけれど、すぐに蓋を閉じ、お会計をしてくれた。  白い小さな箱を手に外に出れば、街はすっかり夜に染まっていた。数メートル進み、角を曲がったところで首だけを振り返らせる。外に出されていた看板を片付けるハルの背中が見え、足を止めたままにする。梅雨入り間近の風は重く湿っていた。「雨が降り出す前に」と思いつつも、カランカランとドアが閉められる音を確かめてから私は歩き出した。  ――それが生きているハルと話した最後だった。
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