5.臨時休業

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5.臨時休業

 ハルが事故に遭って亡くなったのを知ったのは、お店のシャッターに貼られていた『臨時休業』の紙が剥がされたときだ。  急なお休みに不思議なほど心は落ち着かなくて、会社の行き帰りも駅と家の最短距離ではなくケーキ屋の前を通るように遠回りしていた。何か変化があったらすぐに気づけるように。それほど私の胸はざわざわと不安でいっぱいになっていたのだ。  梅雨入りが宣言されたのは三日前。  その日も残業を終えて雨の中を遠回りして帰っていた。雨の音しか聞こえない、夜の暗さしか見えない、そんな寂しささえ感じられる空気の中、シャッターの下りた店の前に彼の姿を見つけた。いつも見るコックコートではなく、半袖のシャツを着て紺色の傘を広げる彼を。 「あの……」  お休みしていた理由を知りたかった。けれど言葉はそれ以上続かない。  外灯の頼りない明かりしかないのに、彼の憔悴した表情がはっきりとわかる。すごくよくないことが起こったのだと伝わってくる。何を聞けばいいのか、どんな言葉をかければいいのか、頭が真っ白になっていく。 「ああ、えっと……璃子さん、でしたよね?」  今にも壊れそうな空気を出しながら、それでも彼は小さく笑った。彼に名前を呼ばれたのは初めてだったけれど、そんなことを気にしてはいられなかった。彼から感じる空気があまりにも痛々しくて。 「あ、すみません。ハルがよく呼んでいたので――」 「いえ……」  ショーケースを挟んでだったら普通に言葉を交わし合えるのに。今はどんな言葉もぎこちなく響く。今さら立ち去ることも、自分から会話を続けることもできず、私は広げた傘の表面で小さく跳ねる雨音を聞いていた。 「よかったら、お店の中に入りませんか?」  剥がされたばかりの紙を握り締めていた彼が震える声で言った。決して強くはない、静かな雨にも掻き消されそうなほど弱弱しい声で。  埃よけに被せられた白い布が店内を埋める。厨房の奥にある休憩スペースへと通され、そこでようやく臨時休業の理由を教えられた。淹れてもらった紅茶の湯気がふわふわと上る中、向かいに座る彼は「璃子さんにはお伝えした方がいいかと思って」と悲しみの消えない顔で小さく笑った。 「ハル、が……」  私が言えたのはそれだけだった。伝えられた事実を飲み込みきれず、浮かぶのは「璃子」と勝手に呼び捨てにしてくる小憎らしいハルの顔だ。ハルが亡くなった? あんな若さを詰め込んだようなハルが? 冗談でも言われているのだと思いたかったけれど、目の前にある彼の顔はそれが真実であることを語っている。 「アイツ本当はサッカーすごく上手かったんですよ」  どうして急に彼がそんなことを言いだしたのかわからなかったが、今は彼の話を聞くべきだろうとまっすぐ視線を向ける。 「それこそ推薦で高校に入っちゃうくらい」 「でも……」  思い出されるのはハルと最後に会った日の会話。  ――サッカーなんて楽しくてやってただけだし。  そこまで真剣にはやっていなかった、というくらいにあっさりとハルは言っていた。けれど推薦でいくほどの実力であったのなら違うのではないだろうか? あのときハルは辞めた理由を「すっごくいやな言い方されたから」と言っていたけど。それは軽く言ってみせただけで、本当はもっと重い出来事だったのではないだろうか。 「アイツならもっとやれたと思うんだけど。まあ、強豪校っていろいろあるよね」  言葉を濁され、ドン、と胸の中へと重りが落ちてくる。ハルはあのときどんな気持ちで私に話したのだろう。どんな答えを求めて言ってきたのだろう。今さら思い返したところでどうにもならない。どうにもできない。じわじわと苦しさが痛みとなってせり上がってくる。それを吐き出さないようにすることしか今の私にはできない。 「ハルがサッカーを辞めたとき、ちょっと心配だったんだよね。それこそドラマやマンガでよくあるみたいに荒れちゃうんじゃないかって」 「……」 「でも、そんなことにはならなかった」  サッカーを辞めたハルはこのお店でしっかり働いていた。それは私もよく知っている。 「あのシュークリーム、ハルが作ったんだよね」 「え?」 「僕も璃子さんに言われるまで知らなくて。普段お店のお客さんに『試作品』なんて渡さないから、なんのことだろうって思ったんだけど。シュークリームだって言われて『ああ、ハルが勝手にやったんだ』って気づいたんだ」 「ハルが……」 「アイツなりの反省のしるしだったんだと思うけど。でも、あんな未完成品をあげちゃうなんて。本当にごめんね」 「いえ」  湯気の消えたカップを両手で持ち上げれば、まだ温かさは残っていた。手のひらから伝わる熱を閉じ込めるようにゆっくりと口元へと持っていく。体の中へと落ちる紅茶は冷めていても柔らかな香りで心を慰めてくれた。 「璃子さんが完成を楽しみにしているって伝えてくれたでしょ? それをハルに伝えてからなんだ。ハルが毎週お店を手伝ってくれるようになったの」  ふわりと笑った彼の顔にはまだ寂しさが残っていたけれど、それでもお店の前で会った時よりはいくらか和らいでいる気がした。 「ハルが新しい夢を持てたのはきっと璃子さんのおかげだから。だから、ありがとう」  頭を下げられ、どう答えていいかわからなくなる。  彼の話に救われたのは私のほうだ。ハルの言葉を適当にあしらってしまった自分。深く考えず、それこそいじわるな心で、羨ましささえ持って放ってしまった言葉。それらを消すことはもうできない。ハルに謝ることもできない。それでも私の言葉が、ほんの少しでもハルを救っていたなら――。胸の中の重りが少しだけ軽くなる、そんな気がした。  ――それが一か月ほど前の出来事。
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