7.ブルーベリーのタルト

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7.ブルーベリーのタルト

 今日は約束の水曜日。  顔を洗って戻るとハルはさっきと変わらず箱を見つめている。  まっすぐすぎるまなざしにハルが失ったものを思い出し、胸がキュッと苦しくなる。ハルはもうケーキを食べられない。作ることもできない。彼が教えてくれた『新しい夢』を叶えることももうできない。ツン、と鼻の奥が痛み出し、部屋の入口に立ったまま動けなくなる。 「璃子? 早く開けてほしいんだけど」  振り返ったハルに顔を見られてはいけない気がして「あ、うん。お茶淹れるから待って」とハルの待つダイニングではなくキッチンの方へと体を向けた。 「はーやーくー」  お腹が空いているというわけではないだろうに、ハルは不機嫌さを滲ませて言ってくる。まるでごちそうを前にしたこどものような言動にさっきまでの悲しさがふわりと消えた。  テーブルに載っているのは紅茶の入ったティーカップとケーキの入った白い箱。ハルはキラキラと瞳を輝かせて箱を開ける私の手元を見つめている。本当に高校生? と訊きたくなるような幼さ全開の顔に思わず笑ってしまう。 「なに?」  小さく息を吐き出したように見せかけたのに、笑ったのがバレたらしい。ハルがムッと眉根を寄せて見上げてくる。「なんでもないよ」とさらに笑ってやれば「あーもう、早く!」と耐えきれずに手が伸びてきた。すっと冷たい風が通り抜け、体がビクンと跳ねる。 「あ、ごめん」  ハルが気まずそうに視線を逸らす。 「え、あ、いや、平気。むしろこんな時期だからひやりとして気持ちいいくらいだよ」とよくわからないフォローを口にすれば、「ひとを冷房代わりにするな」とハルはすぐにいつもの調子を取り戻した。  ハルは変わらない。私も変わらない。だけど、ときどきこういう瞬間がある。すぐ元に戻るけれど、でも、確かにあるのだ。どうにもできない寂しさが、越えられない隔たりを感じる瞬間が。私たちはもう別々の世界にいるのだと思い知らされる。 「ブルーベリー?」  箱の中を覗き込んだハルが声を弾ませた。 「うん。ブルーベリーのタルト。今週のおすすめだって」  小さく切り分けられた表面を青と紫を混ぜて煮詰めたような深い色が覆っている。天井からのライトの光がツヤツヤと塗られたシロップを輝かせる。白い箱から皿の上へと着地させれば断面があらわになった。香ばしく焼けたタルト生地。ちょっと固めのカスタードクリーム。果肉の食感を残したまま煮詰められたブルーベリージャム。ふわりと白い生クリーム。見ているだけですでに美味しさが口に広がってしまう。 「あ、そういえば璃子、夜ごはん食べてなくない?」  フォークを構えていざ出陣、という段階になってハルがパッと私の顔を見た。  え、今それ気にする? と思わなくはなかったけど。ハルなりに気を遣ってくれたのかもしれない。ハルが部屋に来てから今日で一週間。平日の仕事終わりのヘロヘロな姿も、休日以外の食事はスーパーのお惣菜に頼ってしまっているのも見られている。 「水曜日はいいの」 「え」 「空腹こそ最高の調味料って言うでしょ? だからまずはケーキ。それでも小腹が空いたらそのとき考える! っていうのがルールなの。それに今日はおまけでクッキーも買ったし」 「……なるほど」  ハルは感心したのか呆れたのかよくわからない言葉を落とした。 「では、いただきます」  まるで何かの儀式のように改まってからフォークの先を持っていく。ハルの視線は私の顔とタルトを行ったり来たりしていた。タルト生地までしっかりフォークで切ってから口へと運ぶ。  最初に感じたのはそれぞれの歯ざわり。サクサクでバターの香りたっぷりの生地、固めに見えてしっかりと口の中でとろける甘いカスタードクリーム。ザクザクふわふわ。次にそれぞれの味と香りが一気に膨らむ。広がった甘さにブルーベリーの酸味が加えられ、爽やかな果実感が滲みていく。最後にすべてを包み込む生クリームの軽さがふわりと降りてくれば、どこをどう味わっても「美味しい」としか言えない。ひとつひとつの素材を食べてもきっと美味しいに違いない。それが全部合わさったら「最高に美味しい」に決まっている。 「ほわぁぁぁ」  言葉にすらできずに息を吐き出せば、向かいに座るハルが「ふ」と息をこぼして笑った。 「ふ、ふは、璃子のその顔だけでどんな味かわかるわ」  声を弾ませて笑うハルに「だって美味しいんだもん」と言い返してもう一度フォークを運ぶ。せっかく淹れた紅茶も意識の外にいってしまう。ハルの明るい笑い声が広がる部屋の中、私はブルーベリーのタルトを食べ続けた。
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