7.ブルーベリーのタルト

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 あんなに美味しかったのに。  ブルーベリーのタルトは『最高傑作』ではなかったらしい。翌日もハルは部屋にいた。  ふわりと心地よい涼しさが肌に触れ、甘い香りが鼻に届く。しあわせな心地で目を覚ますと、正面にハルの顔があった。 「ひゃ……」  瞼を開けてひとの顔が目の前にあったら誰でも驚く。それがどんなに見慣れた顔であっても。だから悲鳴を途中で飲み込んだ私はエライと思う。それなのにハルは「えー、そんなに驚く?」と不満顔だ。いやいや、自分がやられたら絶対叫ぶから。そう言ってやりたいが今のところ私がハルに復讐できる機会はなさそうだった。ハルは――寝ないから。 「璃子、自分でアラーム止めたの覚えてる?」  不満顔を少しだけ崩してハルが言った。 「へ?」  言われた内容を理解するより早く、手は枕元のスマートフォンを掴む。画面へと顔を向ければアラーム表示が目に入る。音は出ていない。ということは止めたということだ。 「今、何時?」  飛び起きると同時に壁を見上げれば、時計は部屋を出る十五分前を示していた。 「うわぁ」  寝起きの頭をフル回転させて十五分で整えられる準備の算段をつけていく。顔を洗って歯を磨いて、日焼け止めは譲れないけどチークもアイシャドウもカットでいい。ファンデーションと眉さえしっかりしていればあとはどうとでもなる。口紅だって後回しでもいける。朝ごはんは食べたいけど……これも無理かな。バタバタと部屋と洗面所を行き来してどうにか外に出られる状態に整えた。人間急げば意外といける。三分を残して準備はできてしまった。 「あと三分で食べられるもの~」  叫びながら冷蔵庫に顔を突っ込む私のうしろで「三分しか戦えないヒーローっていたよな」とハルはのんきな声を出している。くぅ。言い返したいけど今はその時間も惜しい。 「クッキー」  ぽそりと呟かれた言葉に振り向けば「クッキー、昨日買ったって言ってなかった?」と呆れ顔で言われる。そうだ。そうだった。昨日はタルトのほかにクッキーも買ったのだった。昨日の自分ナイス! 「そうだった! ハルありがと!」 「……どういたしまして」  棚にしまったクッキーの袋を引っ張り出し、リボンを解く。封を切ればバターの柔らかな香りが鼻に届く。うん。これなら午前中の仕事くらいは乗り切れそうだ。時間がないとは言え、さすがに立ったまま口に入れるのはどうかと思い、ダイニングの椅子に腰かける。パクパクとクッキーを口に放り込みながら手首につけた腕時計で時刻を確かめる。本当はもっと味わって食べたかったのにな。口に広がった甘さをごくんと飲み込み「ごちそうさまでした」と手を合わせてカバンを掴む。  ふよふよと律儀に玄関までやってきたハルが「璃子って……」と何か言いたそうな顔を見せたが、さすがに今はもう付き合えない。 「え、あ、ごめん。行ってきます!」  無理やり会話を遮って飛び出した私は鍵をかけながら、ドア越しにハルの笑い声を聞いていた。
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