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朝起きてテレビをつけながら、すべてのチャンネルで巨大隕石落下の臨時ニュースが流れていやしないかとか、オフィスの窓から外を眺めながら、この窓をぶち破って特殊部隊が闖入してきやしないかとか、このところ連日ある非通知の着信が秘密組織からのコンタクトじゃないかとか、誰しも一度くらい考えるだろう。
この話をすると友人たちには決まって子供っぽいと呆れられ、非通知の着信なんて振り込め詐欺かせいぜいロマンス詐欺だと笑われる。
そんな時自分は、こんなに子供じみた空想ばかりするようになったのは大人になってからだと反論し、また笑われる。
もうずいぶん長い時間、人生は無味乾燥だ。
これと言って悲しいことや辛いことはないが、毎日が平坦で平凡だ。毎日、ドラマチックな急展開を夢見てばかりいる。
もっとも、現実に訪れるハプニングなど、休日出勤の夜に祖母の訃報が届いて、大学卒業以来に北陸へ向かう新幹線に乗るなんて、ドラマにもならないただの里帰りだった。
吸いもしない煙草を口実に会場を抜け出したが、喫煙ロビーの人影を見て、横を素通りする。あの人影の中にも顔もわからない遠縁の親戚がいて、今日だけでいったい何度聞かれただろう、仕事はどうだとか結婚はいつだとかいう世間話に付き合わされると思うと、ふりでも立ち寄る気になれなかった。
ホールを抜けて、自動ドアをくぐる。清々しい空気をひとつ吸った瞬間、くしゃみが出る。受け入れたほうが楽だと感じる一方で、診断が下るまでは花粉症でないはずだと思ってもいる。むず、とまた鼻の奥が痒くなり、くしゅん、と、もう一度くしゃみが出た。
丘の上の斎場に来るのはたぶん二度目で、一度目は十年前の祖父の葬儀、そして二度目の今日は祖母の葬儀だ。あの時も確か桜の季節で、だだっ広い駐車場を囲うようにずらりと植えられた桜は満開だった。もしかしたらそれは他愛ない記憶を上書きするにはじゅうぶんな凡庸なばかりのイメージで、現実はすっかり葉桜だったのかもしれないし、まだ蕾だったのかもしれないが、とにかくまあ、あの時も精進落としを抜け出して、よく晴れた空の下に広がる光景に息を呑むような気分になったのだろう。
タイル敷きの舗道をはみ出して、雑草混じりの芝生を踏みしめながらコンクリートの壁伝いにぐるりと回り込むと、ふわりと香ばしい煙草のにおいが漂ってくる。
喪服に包まれた長身をやや屈め、やや裾足らずに見えるくらい長い脚をどこか邪魔くさそうに交差して、いかにも所在なげに煙草を咥えている。
彼は煙草を唇から離し、こちらを認めると、ゆっくりと目を細めた。
「穂貴」
その眼差しも、自分を呼ぶ抑揚も、十年前とちっとも変わらないような気もするし、もう他人ほど変わってしまったような気もする。
「お前も煙草?」
「そういうことにしてある」
穂貴が隣に立つと、五歳上の従兄――椎路は軽く吸った煙草の煙を、失笑とともにふーっと細く吹き上げた。
「なんだそれ」
十年前、十五歳の自分は、親戚の輪から少しでも遠くへ離れたくて、こんな火葬場の裏まで来た。そして彼も、十年前もここで煙草を吸っていた。きっと理由は同じだ。今も昔も居場所がない。もしかしたら今日の自分は、十年前に並んで過ごした他愛ない記憶をたぐるような気持ちで、ここまで来てしまったのかもしれなかった。
もたれかかったコンクリートの壁が、背広越しにひんやりと冷たい。ちらりと盗み見た従兄の濃い無精髭に縁取られた横顔に、後ろでひとつに括れそうなほど伸びた癖の強い髪に、精悍というには鋭利にこけた頬や目の下の隈に、どこか茫洋とした瞳の色に、気後れする。彼の横顔がかすかにうごめき、また、くすんだ色の唇から紫煙が吐き出された。
「最初、わからなかったよ」
「僕?」
「うん。ずいぶん変わったな」
「派手にはなったかも」
「似合ってる」
「ああ、これ……最初は紫だったんだけど」
「きれいだよ」
自分の中の彼がずっと、お下がりの喪服が似合わない二十歳のうら若い青年だったように、彼の中の自分もまた、髪色やピアスに憧れを持つより前の子供のままなのだ。すっかり色落ちして黄ばんでしまった化学的な色の髪を、穂貴は決まり悪い気分で耳にかけた。
「……そういうのは、僕じゃなくてお姉に言いなよ」
「あー、実乃(みの)梨(り)も見違えた」
「中身は相変わらずだけどね」
「相変わらず、仲いいんだな」
穏やかで、どこか抑揚に欠けて薄情そうにも響くまろやかに煙った声は、年を重ねて味わい深くなったと思う。
「ねえ、おぼえてる?」
「うん?」
「おじいちゃんのお葬式でも、こうやってサボったの」
「おぼえてるよ」
「椎路くんの喪服見るの、二回目だ」
「お前は制服だったよな」
「ああ、うん、そう」
「入学式より先に制服着ることになったって言って」
「よくおぼえてるね」
「思い出した。あの時も、物欲しそうに俺の煙草見てたよな」
「……見てませんけど」
咥え煙草の先端から目を逸らして答えると、椎路はふっと笑い、煙草の吸い口をこちらへ寄越すのだった。
「吸う?」
「……あの時も同じこと聞かれた」
「なんて答えた?」
「思い出したんじゃないの?」
「未成年だったもんな。今は? 吸わないの?」
「僕ね、ひとのカプセル噛む係」
「――残念、これ普通の煙草」
椎路は再び煙草を咥えてもごもごと言いながら、胸ポケットからアルミの小さな携帯灰皿を取り出す。長くなった灰は間に合わずにポロリと落ちていき、彼は喪服の胸元をおざなりに払うと、出番のなかった携帯灰皿を胸ポケットの中へ戻した。
「穂貴、今なにやってんの?」
十年前ここに並んで他愛もない話をして以来、今日まで十年間音信不通だった従兄だ。
「グラフィックデザイナー」
「へえ。すごいな」
「大量生産のデザインばっかりだよ」
「美大行ったんだろ?」
「一応」
「有言実行だな」
「椎路くんだって」
穂貴が言うと、無精髭に縁取られた横顔がほろりと綻ぶ。
「俺のこと、聞いてる?」
「……母さんづてに、少し。あとは、ネットニュースとか」
「そっか」
穏やかなはずの相槌が、どこか沈痛に響く。
父方の従兄の椎路とは、一番年の近い男子だったのもあって仲がよかった。盆や正月の集まりに、ギターばかり弾いている椎路と絵ばかり描いている自分は、親戚の間で変わり者扱いされていた。離れの物置小屋で、自分はたいてい庭の花や木をスケッチしながら、従兄の弾くギターの音と時々混じる聞いたままの曖昧な英語の鼻歌を聴いていた。学年が上がるにつれて椎路は親戚の集まりにも出なくなり、十年前、十五歳の自分が久しぶりに再会した二十歳の彼は、東京の大学に通いながらバンド活動に精を出していた。就職はせずに卒業後もバンドを続けるのだと言う彼の、知らないうちに煙草なんて吸うようになった姿を眩しく感じたが、卒業後の進路で伯父たちと揉めてほとんど勘当されたのだと、いずれ知ることになった。
重い沈黙を掻き分けるように、ふーっと、椎路の唇からまた煙が吹き上がる。
「穂貴の知ってるとおりだよ」
やおらそう言うと、ポケットに突っ込んでいた左手を、ゆっくりと空にかざす。うららかな春の光に透かされた彼の手は、手のひらから手首にかけて皮膚がよじれ、腫れぼったい色をしていた。
「……痛い?」
「いや。痛みはもう、ほとんどないんだ」
「そっか」
指先がぴくりと痙攣し、ぎこちなく握り込まれる。椎路はしばらくそうやって握ったり開いたりを繰り返していたが、やがて胸ポケットから再び携帯灰皿を取り出し、やはりぎこちない手つきでそこへ煙草をねじ込んだ。
「お前も、命があることに感謝しろって思う?」
不意の問いかけに戸惑う。きっと、今日までに何度も同じことを言われてきたのだろう。彼にかける慰めの言葉など、それくらいしかないのだから。
「……感謝って、誰に?」
「さあ、誰にだろうな」
無意味に問い返した言葉尻は、すぐに打ち返されて、またすぐ口ごもることになる。
「神も仏もないのになぁ」
シニカルで自虐的で、意地の悪い言い草だった。答えを求められているわけではきっとないし、自分はといえば、会話に困ったら言葉尻を問い返せというアドバイスはせいぜい一夜の相手を口説く時くらいにしか使えないらしいと、遊び仲間の酔っ払った顔を思い出してもいる。
左隣から漂う、残り香というにはまだ生々しい煙草のにおいを吸い込んで、椎路を見上げる。
「僕は、椎路くんに会えてよかった」
隈の目立つ下目蓋が、軽く見開かれる。
「隠してたけど」
「うん?」
「好きだったし」
「――ああ、うん、知ってた」
ほのかな恋心だった。差し出された煙草の吸い口に唇をつける勇気すらなかった。彼はそれを知って、あの時、煙草を差し出したのだ。
「うわ、ひっでぇ」
五歳上の初恋の従兄は、ついさっき揉み消した煙草のことを忘れたわけでもあるまいに、まるで煙を吹き上げるようにふーっと息を吐くと、静かに笑った。
「ごめん」
明るいうちに葬儀は終わり、参列者が三々五々に帰っていく。
最寄りと言うには遠すぎる駅まで自分を送り届けてくれる手はずになっていた姉が、東京に帰るならと椎路にも声をかける。喪主である椎路の父親は、母から聞いたとおり椎路に対する態度を持て余しているようだったが、椎路のほうも同じようで、散々確執のあった父子はお互いに対してまだ思うところが多いのだろう。厳しい伯父と対照的に朗らかな伯母と言葉を交わした椎路の表情は、それに比べて穏やかに見えた。
四人乗りの軽自動車の助手席に自分、後部座席に椎路が乗り込み、斎場を出る。カーオーディオからは、姉が小学生時代から熱心に追いかけているアイドルグループの曲が流れている。行きの車内でも、自分はこれを延々と聞かされていた。
「お姉、ほかのプレイリストないの?」
「文句あんのぉ?」
「洗脳されそうなんですけどぉ」
「してんの、洗脳」
どれが誰の歌声かもわからない男性ボーカルのユニゾンするポップスが消え、カーナビの画面に古いドラマの再放送が映し出される。デリカシーに欠ける姉だが、おかげで車内は明るく、しかし後部座席の椎路は時々笑い声を立てる以外は黙ったままだった。
「お正月くらい帰ってきなさいよ」
寂れた駅の車寄せの脇で降り、電話越しでなく肉声でこの小言を言われるのに不思議な気分になりながら、走り去る姉の車を見送った。
新幹線の停車駅までは、ローカル線で一時間かけてJR線と合流し、さらに快速に乗り換えて二時間、合計三時間かかる。ローカル線では久しぶりにボックス席なんかに向かいあって座り、音信不通の十年間を埋めるほどもない話をした。自分には亡くなった祖母に美大の学費を援助してもらった恩があること、椎路も学生時代に密かに仕送りを受けていたこと、祖母の財産ひいては祖父の財産がいくらかというには多く不出来な孫ふたりに費やされたのだろうこと、お堅い職業ばかりの親戚にはそれが何重にも忌ま忌ましいのだろうことを、笑いあった。
快速に乗ってからはお互い黙りがちになり、そのうちに眠り込んでしまった。昨夜、半日かけて東京から郷里へ戻り、既に物置となった実家の子供部屋に泊まれるべくもなく、姉が手配してくれたビジネスホテルでやり残してきた仕事を明け方近くまでしていたせいで、ほとんど強制シャットダウンだった。
「穂貴、次」
椎路に揺り動かされて降り立ったホームは、寝ている間に夕暮れを過ぎ夜の色になっていた。
最初に目についた売店で、お茶と、旅行でもないのにと思いつつチームに行き渡る分の箱入り饅頭を買う。案内板の矢印を頼りに広い構内を移動し、中二階の新幹線乗り換え口の手前で鞄を漁りながら、穂貴は椎路を振り返った。
「僕、往復買ってあるんだけど、椎路くんは?」
少し離れたところで立ち止まった椎路が、ゆるりと首を横に振る。
「俺はここでいいよ」
「いいって、最終だよ?」
まだ宵の口ではあるが、頭上の電光掲示板に表示されている次の新幹線が東京行きの最終便で、それを逃がすと帰るのは翌日になる。
「いいんだ」
たぶん、彼の唇はそう言った。
同じように最終の新幹線に乗り込もうとする人々が次々に横切り、自分たちを隔てる。
「しぃちゃん?」
思わず口をついた子供時代の呼び名は、彼まで届いたろうか。
「最後に会えてよかった」
彼の、どこか抑揚に欠けて薄情そうにも響くスモーキーボイスを聞いたのかもしれないし、唇がそう動いただけだったかもしれない。
「明日、死のうと思ってさ」
穏やかに告げられた言葉には、驚きがあったし、理解もあったし――少しのときめきがあった。
「明日って……日付が変わったら? それとも、夜が明けたら?」
咄嗟に尋ねた自分の声が、上ずっている。
「それは考えてなかったな」
椎路が意外そうに両目を瞬いて、顎先の無精髭を撫でる。
胸が逸るのを堪えながら、彼のだらりと垂れた左手に手を伸ばす。
「一緒に行っていい?」
人々が自分たちをすり抜け、改札口に吸い込まれていく。
どこか遠くで、ゴーッと唸るような音と、到着の自動アナウンスがぼんやりと聞こえている。東京行きが……十二両編成で……。
いつか、自分たちは、ただじっと見つめあっている。
椎路の左手が、油切れのブリキ人形のようなぎこちなさで穂貴の手を握り返す。彼はゆっくりと目を細め、ほろり、と笑った。
「いいよ。帰りは送ってやれないけど」
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