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 音楽にほとんど無関心な自分はせいぜいアニメやドラマのタイアップ曲を聴く程度で、就職してからはそれさえ遠のいていた。椎路がほとんど勘当状態で実家と疎遠になっていたのもあり、彼の在籍していたバンドのことは去年まで知らなかった。去年の今頃――春先にインターネットを賑わせたのは、とあるロックバンドのボーカルが死んだというニュースと、それにまつわる悲惨な事故だった。  ストーミー・マンデイは、ボーカルの吉岡東夏(よしおかとうか)とギターの(こん)椎路が大学時代に結成し、幾度かメンバーチェンジをしながら活動していたロックバンドだった。マニア好みというのだろうか、少し探せば専門誌の特集記事なんかはいくつもヒットし、誰々の再来だのいつ以来の名盤だのいくつも大層なキャッチコピーがつけられていたが、少なくとも彼らが作っていたのは普段テレビから自動的に流れてくるような音楽ではなかった。  活動停止の告知が最後になったSNSの公式アカウントや、動画サイトの最新ミュージックビデオのコメント欄は、バンドの解散とボーカルの死を嘆くコメントで溢れていた。学生時代に映像学科の友人が好んで撮っていたようなやたら輝度の低いセピア調のミュージックビデオの中の、髪でほとんど顔の隠れた椎路を眺めながら、スマートフォンの画面を隔てた従兄の人生を思いやろうとして上手くいかなかった。きっと会おうと思えばいつでも会えたのに、同じ東京にいて一度もすれ違わなかったか、すれ違っても気づかなかったのだなと、ぼんやりと考えた。 「この窓からじゃ、高さが足りないかな」  カーテンの隙間に顔を突っ込んで見下ろした景色は、ほとんど真下を道路が走る殺風景なコンクリートだ。 「やっぱり橋?」 「日本 高い 橋」で検索したスマートフォンの画面に顔を寄せた椎路が、目を細める。 「絶景だな」  画面にはずらりと、日本各地の橋を映した美しい海と空の写真が並んでいる。いつも暗い色をしていて、どんなに晴れても無表情な水平線があるばかりだった、生まれ育った町から見る日本海とはまるで違っていた。 「でも電車はロマンがないから嫌だし――あ、東尋坊!」  両眉を下げた椎路が、とうとう破顔する。 「楽しそうだなぁ、穂貴」  くつくつと喉を鳴らしながらベッドの縁に腰かけた彼の隣に、穂貴もまた勢いよく座り込んだ。 「……毎日つまんなくて」  壁掛けの大きな液晶テレビにリモコンを向けて、番組表のカーソルを適当に動かす。 「朝起きて、テレビつけて。巨大隕石が落ちて地球が滅亡するってニュースが流れてないかな、とか」 「昔のハリウッド映画みたいに」 「そう。会社の窓ガラスが割れてSATが突撃してこないかなとかさ、毎日、そんなことばっかり考えてた」  洋画チャンネルの一覧に並んだ名作映画のサムネイルを、やはりひとつずつカーソルでなぞる。 「きっと椎路くんがすごく痛くて辛い時も、僕は明日地球が滅亡しないかなあって、会社の窓から外見ながら」 「コーヒー片手に?」 「エナドリです」 「ディティールにリアリティがあるな」 「事実に基づいてますから」  肩にもたれかかった穂貴を邪険にするでも抱き寄せるでもなかった椎路が、やがてゆっくりと体重を預けてくるのがわかる。 「俺と心中じゃあ、ちょっと地味だろ」 「そりゃ、地球滅亡に比べたらね」  上手くもない自分の言い草に自分でおかしくなりながら、ごろんと仰向けに倒れ込むと、しっかりと弾力のあるベッドに背中が跳ね返される。 「穂貴?」  覗き込んでくる椎路の頬に手を伸ばし、もう少し、と目で乞うと、従順に降りてくる。  線香と煙草の混じったにおいが鼻先をかすめ、顎を上げると、乾いた彼の唇に唇が触れる。皮膚に擦れた無精髭の感触が、ちくりとくすぐったかった。 「……椎路くん、男と寝たことある?」 「いや」 「僕、死ぬ前に、初恋のひととエッチしたいかも」  両目を瞬いた椎路が、ぽつりとうそぶく。 「下心だったか」  駅のすぐ横のビジネスホテルでなく、わざわざラブホテルまで来た。行き先を穂貴に任せた椎路は、ホテルに着いても部屋に入っても、何も言わなかった。恥を掻いてもどうせ明日死ぬのだし、明日死ぬ彼なら頷いてくれるかもしれないと期待した。 「だめ?」 「……だめじゃないよ」  ため息交じりに笑うと、椎路はそのまま、もう一度穂貴の唇にキスをした。  シャワーから上がると、手枕の椎路の落ち窪んだ目には、穂貴が適当に選んだ数年前のアクション映画の光がちらちらと反射していた。 「空いたよ」 「ああ、うん」  のそりと起き上がった椎路の、着崩れたワイシャツの背中に声をかける。 「ねえ、椎路くん、髭剃ってほしいな」 「好みじゃない?」  似合わない? と聞かないのがおかしい。 「うん」  穂貴の即答ににやりと笑い、彼はバスルームの中へ消えた。  実際そこまで似合わないわけではなかったが、すっかり髭を剃り落として戻ってきた彼の、こざっぱりと涼しげになった風貌は、懐かしさとともに穂貴の胸をときめかせた。  大きなベッドの真ん中で向かいあい、彼のこけた頬を、目の下の隈をなぞり、しっとりと潤った唇に唇を重ねる。あれほど染みついていると感じた煙草と線香のにおいは消え、今は知らないシャンプーと、歯磨き粉のかおりがする。 「……嫌じゃない?」 「聞かなくていい」  ストレートの男を誘って寝るのは初めてではなかったが、こんなにやけっぱちで、こんなに緊張しているのは久しぶりだと思う。 「ん」  彼の唇を何度も啄み、首筋、鎖骨、胸にもキスをする。穂貴の背中を撫でる彼の手は優しく、耳朶にちゅっと弾けた音と感触が、じんと腹の奥を疼かせる。タオル地の上から揉んでいた感触が少しずつ張りを持ち始めるのに安堵し、バスローブの裾を掻き分けて、彼の股座に顔を埋める。 「穂貴」  しーっ、と椎路の制止を払う。髪と同じく癖の強い、生い茂ったと表現したくなる黒々と濃い陰毛と、少し皮膚の余ったくすんだ色のペニス。手で扱き、側面に舌を這わせ、口に含んでわざと唾液を泡立たせながら啜れば、むくむくと膨らみ、素直なくらい硬くなっていく。彼の両手が、穂貴の髪をくしゃくしゃと掻き混ぜる。彼を咥えたまま目を上げると、眉間を快げに歪めた椎路と目が合う。 「んむ……」  やがて口の中に、えぐいようなしょっぱいような味が滲む。  ふー、と、頭上で浅いため息が漏れる。  内側から押された右頬に、いびつな感触の手のひらが添えられる。それに手を重ね、味わうように擦りつける。 「気味悪いだろ?」  まだ縫合の跡が消えない、皮膚の引き攣れた手だ。 「んー、フランケンシュタインみたい」 「はは、ひでえな」 「褒めてるのに」 「うん、いいな、それ」  椎路は愉快そうに笑い、やはりどこかぎこちない指先で、唾液と先走りに濡れた穂貴の唇を拭った。 「ね、挿れていい?」 「それ、俺が聞くやつじゃねーの」  太股に跨がった穂貴の腰を支えながら、含み笑いに震える唇で、喉仏にキスをする。 「ちょっと腰上げて」 「……うん」  ゴムを付ける気配が終わるのを待ち、彼のいない所で準備を済ませた尻穴に椎路をあてがう。ゆっくりと身体を落とす時の、先端のめり込む感触には、どんなに慣らしても一瞬息を呑んでしまう。 「んっ……」  椎路の痩せた肩を掴み、異物感を堪える。 「なあ、脱がないの?」  バスローブをくぐろうとする彼の手を慌てて押さえ、腰に回させる。 「……ついてるから」 「ついてなかったら驚く」 「見なくていいって意味。萎えちゃうかも」 「うん?」  非情にも裾を割った手に前を露わにされ、緩く勃起していた自分がこぼれ出すだけの刺激に、鼻から悲鳴が抜けた。 「あ、やだって」 「かわいいな」 「……見ないでってぇ」  不意打ちの揶揄が甘く響き、じん、とまた痺れる。  少し沈んで、少し浮き、穏やかにリズムを取る。マットレスの具合もよく、ゆさ、ゆさ、穂貴に応える椎路の腰つきも少しずつ弾む。彼のペニスを舐めた穂貴の口の中に、椎路は躊躇わずに舌をねじ込んでキスをした。  ちゅる、と、濡れた唇が滑る。ゆさ、ゆさ、マットレスがリズミカルに跳ねる。ちゅ、ちゅ、と浅瀬でもどかしく立っていた水音が、じゃぷ、じゃぷ、と、奥まで満ちるそれに変わる。ふーっ、ふーっ、お互いの上ずった息が絡み、知らぬ間に汗が伝う。 「ね、ちゃんと、きもちい?」 「わかんない?」  逃げれば追いかけてくる腰つきは、腹の中を擦る硬い感触は、彼の興奮だ。 「穂貴」 「ん……?」  苛立ったように穂貴を呼んだ彼が、ずん、と、奥を突き上げる。 「あっ、そんなの……」 「悪い」 「ちがう、きもちぃ……」  走った快感に堪らず口走ると、ぐう、と、また苛立ったように唸って。ひと突きめより激しく穂貴を突き上げると、そこからの彼は乱暴だった。 「あっ――」  膝から力が抜け、彼の太股にへたり込めば、尻たぶが潰れて深く繋がる。それを跳ね返すほどまた突き上げ、強引に穂貴の腰を引き寄せては、また揺する。 「しぃちゃん」  きつく刻まれた眉間の皺、食いしばった歯、細かく震える目蓋、椎路の顔じゅうに我慢と快感が滲む。ゆっさ、ゆっさ、マットレスはトランポリンのように跳ね、ギ、ギ、スプリングの軋む音が混じる。 「……しぃちゃん、そこ、きもちぃ」  快いところに当たるたびに悶え、椎路の肩にしがみつき、癖っ毛が伸び放題に伸びた頭に抱きつく。ぎゅうぎゅうとうねる中を無慈悲に分け入ってくる椎路に揺さぶられながら、あ、そこ、だめ、なんて、気づけば押し出されるままに喘いでいる。 「穂貴、こっち」 「んぁ?」 「耳もね、左、あんま聞こえねーの。こっちで喋って」  後ろ頭を掴まれ、かじりついていた左肩から右肩に抱きなおされる。彼の耳朶をしゃぶりながら、夢中で答える。 「――しぃちゃんの、きもちぃ、って、いってただけぇ」 「ははっ、かわいいなぁ、お前」 「やっ……しぃちゃん」  椎路の腹に当たっては跳ね返っていた自分が、彼の手に捕まる。 「やだ、さわんないで」 「きもちい?」 「やだ、やだっ……ぁ」  迷いのない手つきで扱かれて、あっけなくほとばしる。  部屋ごとひっくり返るような勢いで、背中から落下する。余韻にわななく穂貴の上で獰猛に腰を振った椎路は、やがて短い呻き声とともに達した。  ごろりと仰向けになった椎路の腹に寝そべって、はーっ、はーっ、ふたりして息が収まるのを待つ。手持ち無沙汰なのか穂貴の髪を撫でていた彼が、ぽつりと呟く。 「男って、気持ちいいのな」  あけすけな述懐に、この従兄も行きずりの男と同じことを言うのだと、おかしみが込み上げる。それに、場違いな恥ずかしさと喜びも。ああ、僕、しぃちゃんとエッチしたんだ――なんて、今さら。 「僕が特別なのかもよ?」 「そうなの?」 「……冗談です」 「俺はお前しか知らないからなぁ」  まるで愛でも囁くように、ぞんざいな冗談を返すものだと思う。相変わらず、どこか抑揚に欠けて薄情そうにも響く、まろやかなスモーキーボイスだった。  最後の晩餐は、ラブホテルのルームサービスとなった。ビーフカレー、ラーメン、ビール、レモンサワー。 「ねえ、椎路くんは、死ぬまでにやりたいことってある?」  アクション映画はエンディングに差しかかっており、うっすら聞こえるBGMはハッピーエンドそのものの、明るいオーケストラだ。 「僕、ホテルのスイートでシャンパン開けてみたかった」 「もう遅ぇよ」 「今思い出したんだもん」  穂貴が笑うと、ビールのグラスを傾けながら椎路も笑う。再び彼の開いたメニュー表には、充実したフードとドリンクの写真が並んでいる。 「もしかして、シャンパンある?」 「……ないな」 「なんだ。あ、あと」 「まだあんの」 「釣りとかキャンプとか。就職してから一度も行ってない。釣りは去年誘われてたんだけど、行けなくなっちゃってさ」 「案外アウトドア派なんだな」 「全然。釣り堀と日帰りのハイキングでいい。あ、でも、カップ麺」 「うん?」 「キャンプ場で沸かしたお湯で、カップ麺食べてみたかった」 「はは」 「憧れない?」 「まあ、わからなくはないな」  ぐびりとビールを呷る椎路につられて、穂貴もレモンサワーのグラスを傾けた。  長いエンドロールもすっかり終わったテレビ画面は、無音の番組表を映している。満腹感に委ねるまま身体をベッドに寝転ばせて、食後の一服を決め込む椎路の横顔を見上げていると、伸ばされた彼の左手に髪を撫でられる。 「きれいだよな」 「僕は椎路くんみたいなのがよかったな」 「面倒だぜ」 「僕だって」  椎路の強い癖っ毛は父方の遺伝で、母に似た自分は生来、扱いづらいくらいの直毛だ。お互いの不毛な主張がおかしくて、思わず笑ってしまうと、今度は頬をくすぐられてまた笑わされる。穂貴はその手を握り、いびつな皮膚をなぞった。 「……痛い?」 「平気」  頭を振った椎路は、吸い始めたばかりの煙草を揉み消すと、ふーっと勢いよく煙を吹き上げる。 「親父に啖呵切って東京に出たけど」  不意の問わず語りは、鼻歌のように軽かった。 「音楽だけで食えるようになるまで、ずいぶんかかった。けどまあ、移籍の話も持ち上がって……それで揉めに揉めて。そんな中でも、ツアーの移動は自分たちでしてた。大学時代に東夏と折半で買った中古のバンを、いつまでも乗ってさ。あの日も、パーキングエリアで交代するまでは、俺が運転してた」  どこか抑揚に欠けたメロディに、じっと、耳を傾ける。 「運転を代わって、俺は後部座席に東夏と並んで座って……前の日に大喧嘩してから口きいてなくて、気まずくてすぐに寝たふりしたよ」  懐かしそうに細められた目にはきっと、あの無音の番組表は見えていない。 「突然だった。車がひっくり返って……痛いっていうより、ぐちゃっとなった、って感じだったな。サイレンが鳴ってた気がするし救急車に担ぎ込まれた気もするけど」  握り返すでもなく穂貴の手の中にあった椎路の左手が、するりと抜けていく。 「身体の左側が下敷きになった。左耳と、よりによって左手をだめにした」  縫合の跡の消えない手で耳朶をさすり、それから、手のひらに目を落とす。  高速道路での事故だったそうだ。前を走っていたトラックが緊急停止車両を避け損なってはみ出したのに、椎路たちの乗ったバンが接触して横転したのだと。運転席と助手席のメンバーはそれぞれ軽傷、左側の後部座席にいた椎路は重傷、右側にいた東夏は重体で病院に搬送された。右利きのギタリストである椎路にとって、弦を押さえる左手の怪我はプレーヤー生命に関わるものだった。しかし、その時の彼には、自らの不幸に絶望する暇さえじゅうぶんになかった。 「あいつ、二週間も植物状態で生きたんだよ。そのくせ結局、死んじまった――俺を残して」  色の悪い唇が、小刻みに震える。 「好きだったの?」 「そんなきれいなもんじゃない。愛してると思える瞬間もあったし、殺したいくらい憎い瞬間もあった。きっと、お互いそうだった」  吉岡東夏という男のことを、椎路は親友とも相棒とも言わなかった。辞書にあるような陳腐な言葉では、きっと表せない関係だったのだろう。それがひどく羨ましくて、少し憐れだと思う。 「ごめんな、穂貴」 「いーよ。僕だって下心だもん」 「ははっ」  椎路の目の縁からようやく零れた涙に感じたのは、安堵だった。声もなく、息を殺して泣く彼を、穂貴はただ抱きしめていた。  すすり泣きがやがて途絶え、彼の濡れた頬を頬で拭い、くすんと鳴った鼻に鼻先で触れる。小さく笑う彼の、腫れぼったい下目蓋にめがけて唇を寄せる。 「地球滅亡には及ばないけど、こういう展開も悪くないよ」 「ちょっと地味だけどな」 「ちょっとね」  背中を抱き返されると、伸び放題に伸びた椎路の癖っ毛が、頬や首筋をくすぐる。ふふふふ、ネジが外れたように笑い続ける椎路の震える胸に手を当てれば、皮膚の奥から心臓の鼓動が返ってくる。 「死ぬまでにやりたいことなんて、何もないと思ってたけど」 「僕のひとつあげようか?」 「なんだよそれ」  抱きあったまま、どさりとベッドに倒れ込む。椎路の唇が、首筋から耳朶に伝う。ふふふ、なおも漏れだす笑い含みの彼の息にくすぐられ、ふふふ、くすぐったさに身悶える。 「……今は、お前ともっとセックスしてえなぁ」  唆すようで甘えるようで、そのくせ抑揚に欠けるスモーキーボイスが吹き込まれる。穂貴は堪らず目を瞑り、強い癖っ毛の頭を抱きしめた。 「…………何回でも、しよ」  平凡で憂鬱な毎日だった。  淡々とこなすだけの膨大な仕事と、見知らぬ男とのスリルを求めた一夜の情事。そんなものいくら重ねても無味乾燥なばかりで、苛立つような淋しいような、いつも小腹がすく気分だった。朝起きてテレビをつけながら、荒唐無稽な臨時ニュースを探しては、ドラマチックな急展開を夢見ていた。  もっとも、現実に訪れるハプニングなど、十年ぶりに郷里で再会した従兄とその晩――朝までセックスをして――東京へ戻ってふたりで暮らすなんて――せいぜいその程度のことだった。
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