56人が本棚に入れています
本棚に追加
2
*
「おはようございます、山野主任。」
「おはようございます。」
「主任おはようございます__」
朝の社内はどこもおはようで溢れている。
お・は・よ・う
朝の挨拶に相応しいスッキリした響き。だけど誰もスッキリした顔じゃ無い。そう思うのは私自身がスッキリしてないから?
バカバカしい。
軽く首を振ると後ろで一つに纏めた髪も一緒に揺れる。
「おはよう。」
聞き慣れた声に条件反射的に挨拶を返す。
「おはようございます、加藤課長。」
顔を上げた途端、彼の首筋に目が吸い寄せられる。
シャツの襟元に隠れるかくれないかの微妙な位置に赤い痕。
あれってもしかして昨夜私がつけた?
まあどうでもいい。
誰が気づいたところで当たり前に気づかない振りをするだろう。
気づいたところでせいぜいニンマリ笑う程度だ。
課長が左手を差し出してきた。私は当たり前のように机の資料を手に取り彼に手渡す。
左指に光るそれが目に入らないよう正面を見据えながら。
彼がフロアにいきわたるように声を出した。
「朝礼始めるぞ。」
*
第2四半期決算公表を控え、確認作業や段取りで経理部はどこも人手不足だ。まさに猫の手も借りたいくらいだがあいにく余分な人間は余っていない。
特に我社は少数精鋭の実力主義で世の中に知られてる商社だ。
当たり前に人材派遣で人員補充なんて有り得ない。
「……という訳で今回の決算準備も第二経理課だけで行う。」
ーー今年もかあ、また午前様かあーー
目線を下げてるみんなの心の声が聞こえてくるようだ。
この4年というもの、新型感染病のおかげで世界中が止まっていた。
海外の度重なる非常事態宣言で人が動かなくなった。人が動かないことで経済が止まった。
原材料の不足、海外の工場の長期操業停止、原油高騰、輸送高、加えて円高。商品の価格見直し、受注スケジュール調整、国産化への転換など次々に業務が押し寄せた。
当然のごとく感染症は国内でもあっという間に広がり、会社内でも感染者や自宅待機が増え、残った人間で業務をこなしてきた。
状況が状況なだけに不平を口にする社員はいなかった。まあ影では言っていたかもしれないけれど。
せめてもの救いは今年の春から義務付けられていたマスク着用が自己責任で着用になったこと。簡単に言えばつけなくても良くなったということだ。
それだけでもストレスがかなり減ったのは間違いない。
「その代わり、という訳では無いが……」
課長が口元を微かに引き上げた。
「目算だが、今回も業績は前年比の1.5倍ほどアップしている。ボーナスは期待していいぞ。」
一斉に下を向いていた彼らの顔が上がった。
あらら、目がキラキラしてる。見事なアメとムチだ。
皮肉なことに我が社の業績はこの4年で、パンデミック以前の二倍以上
にはね上がった。
外出が制限されている人々は、家での生活を楽しむべく普段買わないような生活雑貨品やブランドものの家具などを買うようになった。
生活雑貨やオリジナル家具など生産、輸入を行う我社には追い風になった。
おまけに営業部が海外出張を取り止め、リモート営業や国内拠点への転勤に切り替えた分人件費が浮いて、純利益も増えた。
初めからリモートで良かったのでは?って株主総会で皮肉られたとかって言ってたっけ、課長が。
「それと……急な話だが営業部から一人応援が来ることになった。決算公表が終わるまでの予定だ。」
なんだろう。少し課長の声のトーンが下がった気がする。
「辞令はもう貰っただろうからそろそろ」
「課長遅くなりました。」
風のような素早さで社員の間をすり抜けて来る。
背が高い人だ。
明るい癖のある髪と銀縁眼鏡がみんなの頭より上に出てる。
「ああ、来たか。」
今度は聞き間違いじゃない。課長の声が更に低くなった。
え?
紺のスーツに揃いの紺のマスクを付けている。
彼が課長を……見ずに私を見た。
いきなりすぎて目を逸らす暇もなく、まともに視線が交わった。
なぜだろう。指先が震える。
「みんなに挨拶を。」
珍しく苛立ったような声を出した課長にすみません、と詫びながらみんなの方を向いた。
「営業部北米担当課より1ヶ月応援に来ました、佐野雄輝です。ニックネームはゆーです。三ヶ月前にやーっと日本に戻ってこれました。特技はソロバン、三級持ってます。苦手なものは苦い野菜、ピーマンもゴーヤーも食べません。皆さん宜しくお願いします!」
何それ?これまでにこんなおふざけ、いやオープンな挨拶した人いた?
案の定みんな魂抜かれたみたいな顔をしている。
いけない、この場を取り繕わないと……って、ちょっと当の本人は満面の笑顔ですけど?
まさか空気読めてないの?
仕切り直そうと息を吸い込んだ時。
し、んと静まり返ったフロアからぷっと吹き出す音が聞こえた。
「こちらこそ宜しくお願いします。」
後方からお調子者の田辺くんが声をあげた。それを皮切りにどっと笑いが起こる。
「てへへ、俺マゾっ気なんで思う存分こき使ってください。」
「任せてくださーい。」
一気に和んだ場にホッとしながら課長を見上げると。
眉間に皺を寄せながら、左指で両のこめかみを抑えていた。
*
「押しすぎですよ。」
誰も来ない会議室で彼のこめかみにそっと指を当てる。
そこにくっきりと残る赤い痕。どれだけお怒り堪えていたんだか。彼がふぅっと息を吐き出して私を引き寄せた。
「ああ、大人げなかったな。千穂にみっともないところ見せてしまった。」
この行動もね。
いくら鍵を掛けてるとはいえここは会社。誰かが耳をそばだてているかもしれないのに。
あの後、課長は田辺くんを呼びつけ佐野さんの教育担当及び監督係に任命した。
おまけに「こいつの望み通り、無駄口叩く間も無いほど働かせろ。少しでも遊んでる様子が見えたらその時は連帯責任だからな。」と捨て台詞まで残してフロアから消えていった。
いつもの彼らしくない態度になんだか不安を覚えた私は、買い出しを口実にして彼の後を追いかけたけど、廊下にも休憩室にも向かいの第一経理課にも総務部にも課長の姿はなかった。
諦めて買い出しに行こうと階段を降り始めたところで非常用扉の影にいた彼に拉致られ、そのまま階下の会議室に連れ込まれた。
「らしくないわ、課長。どうしちゃったんですか?」
答えの代わりに両手を回して更に抱きしめられる。
スーツに化粧が付かないように両手を彼の胸に当てる。
スーツからほんのりと糊の香りが漂う。
クリーニングから戻ってきたばかりなのだろうか。三日前の出張の時に着ていたから、戻ってすぐに持っていったんだろう。
シャツだっていつもおろしたてみたいに綺麗で取れかけてるボタンや縫い目のほつれなんてついぞ見た事がない。
奥様はまめにお手入れしているのね。
愛する夫のために細々と家事をして、嬉々として帰りを待つ主婦。
なのに貴女の夫は週に何度も私の部屋を尋ねてきてベッドを共にし、帰宅するのは午前様なんて。
私が貴女の立場ならやりきれない。
そう思った途端、糊の匂いが鼻についた。
「千穂。」
「はい。」
離して欲しい。
見たこともない奥様が彼の背後から睨んでるような気がしていたたまれない。
「君さっき佐野と……」
「……佐野さんと?何?」
私と佐野さん?何かあったかしら。というか、まだお互い一言も話していないのに。
思いがけない問いかけに顔を上げると彼と視線がぶつかった。まるでりんごの品定めでもしているみたいな目で私を見ている。
切れ長の目が更に細められ、やがて目をつぶり、代わりにふっとため息を漏らした。
「いや、なんでもない。」
そう言って私を解放した。
「決算業務が終わるまで俺の秘書として動いてもらう。いいか。片時も俺の傍を離れるなよ。」
「はい?でも」
仕事に差し支えますが?
これでも私は主任職なんですけど?下に八人ほど部下抱えてますが?
挙動不審になりかけの私に言い訳がましく言葉を紡ぐ。
「お前の代わりは藤堂にやってもらう。あいつもそろそろ昇進していい頃だ。実務経験積ませないと。お前も部下の力量試したいだろ?」
ああ、これは完全なる思いつきね。
大体いくら忙しいと言っても課長に秘書は要らないでしょう、補佐ならともかく。
それに補佐業務ならこれまでだって私がやっていたし。
口に出しては言わないけれど多分表情に出ていたんだろう。
「そんなに不満か?俺と四六時中いるのが。」
そう言っておでこに軽くキスを投げてくる。
ええ、不満ですとも。
いえ、違うわ。
不満というより、申し訳なくて。奥様に。
今更、か。
最初のコメントを投稿しよう!