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佐野雄輝という人物はかなりの人たらし、らしい。
わずか三日で経理部どころか人を人とも思わないって太鼓判を押されてる総務部まで制圧したようだ。
「で、何時にする?」
「どうせならフロア全体でやらない?」
「忙しい時だけどさあ、下の大会議室で就業時間後にチャチャッとやるのもいいと思うの。」
「その後は同士募って二次会にしようよ。」
「千穂はどう思う?」
知らないわよ。
はた迷惑な事だ。お昼になった途端休憩室に引っ張りこまれ、第一声が『佐野くんの歓迎会やらない?』だ。
しかも経理部の女性だけでなく総務部の方々まで同席されていて、二十人も入ればいっぱいの部屋に立ったままでぺちゃくちゃやってる人達までいた。
休憩室は部署の数だけあるし、社員がどこの休憩室を使ったところでなんの問題も無いけれどこれは異常でしょ。
「ごめん、時間ないから食べながら聞くね。」
食事そっちのけで話したそうな同僚達には申し訳ないけど時間がない。
さっさと席に着いて紙袋を開いた。出社前にサンドイッチ買っておいて正解だった。コーヒーは諦めた。
サンドイッチをかじりながら左手でスマホの画面をひたすらスクロールし続ける。
今は食べることと各支店からのメールチェックで忙しいと映るように。
「もう、社畜なんだから。その分だと佐野くんとまだ話したことないね、千穂は。」
同僚達の言葉にコクコクと首を縦に振りながらモグモグと口を動かす。
「よし、じゃあ私達が教えたげる。この三日間に得た情報を。」
……情報ね。再度コクコクと首を縦に振ると彼女達が次々に話し始めた。
おかげで別段聞きたいとも思っていなかった佐野さんの三日間の行動をほぼ全て把握することとなった。
「あー。佐野くんと遊園地デートしたら楽しいでしょうね。」
きゃー、っと歓声。
とうとう妄想劇まで始まった。
頭が痛い。
もう戻っていいかな。これ以上佐野話で体力消耗するのはゴメンだ。
午後は水戸の技術開発部まで課長と出かける。
資料は準備出来てるけど業務車両の手続きしないと。
「私そろそろ」
「ね、千穂、何とかならないかな。」
「……第二経理課主催でやるってこと?」
「だって他のところが出張ってきても面白くないじゃん。」
小声で耳元に囁いたって皆に丸聞こえだよ。というか、これが目的か。
つまり経理部総務部合同で彼の歓迎会を第二経理課主催で執り行え、と。その許可を課長に貰ってこい、とそういう事ね。
また無理なことを。
課内の同志で飲みに行く程度なら何も言わないだろう。
だけど課としてやるのは猫の手も借りたいこの時期には大問題だ。ましてやフロア全体で、なんて。
大前提として彼はその『猫の手』なのよ。あくまでも一ヶ月だけの応援で席を置いてるだけなのよ。
営業部の耳に入ったらそんな余裕があるなら返せと言われかねない。
「歓迎会は……そうね、行きがけに課長に聞いてみるわ。」
多分「ダメだ」の一言でしょうけど。
「あら大丈夫よ。貴女が頼み込めば。」
……このムカつく声。人が多すぎて気づかなかった。貴女もいたのね、高田さん。
「お気に入りの山野さんの頼みなら断るわけがないじゃない、あの加藤課長が。なんてったって貴女の涙で経理課の人間総入れ替えさせたくらいだものね。」
浮かれまくっていた室内の空気が瞬時に絶対零度まで落ちる。指先が冷たいサンドイッチよりなお冷たくなる。
「ちょっと、何言ってるんですか高田さん。」
経理課の同僚達が私の傍に集まりだす。
「何って、本当のことでしょう?ねえ、や・まの・さん。」
この人はあの時のことをまだ根に持っている。
それはそうでしょうね。間接的とはいえ経理の花と呼ばれた貴女を総務の片隅に追いやったのは他でもない私だもの。
「千穂は、山野主任は実力で今の地位にいるんですよ。」
「そりゃそうよねぇ、貴女にあるのはそのおツムだけですもんねぇ、山野主任。魔王の課長とほんとお似合い。」
「高田さん!」
お似合い、ね。
私達の関係に気づいてるかどうかは分からないけど、結構確信突いてるわよ高田さん。
ただ仕事とプライベートはしっかりケジメつけてるけどね、貴女と違って。
……なんてね。下手に口を開けばぼろを出しかねない。ここら辺が潮時。
仕事場に戻ろう。
サンドイッチは行きがけの車の中ででも食べればいい。
手に持っていたそれを袋に戻す。
「ちょっと、逃げる気?」
高田さんがヒステリックな声をあげた。
さすがに我慢の限界だ。
顔を上げて彼女を睨みつける。
「何よその顔。なんか文句」
「あー、ここに居たのね千穂!探したよー。」
バタバタと駆け寄る足音。
振り返る間もなく私の肩にポンと手が置かれる。
「どうしたの歩、そんなに慌てて。」
「あのね、さっきの資料で気になるところがあってさ。午後から出かけちゃうでしょ。お昼ご飯中に申し訳ないんだけど見て欲しいんだ。」
肩に手を置いたまま周りに有無を言わせないその態度にひたすら感謝だ。
「OK。」
サンドイッチを手に席を離れた。
*
「ありがとう、助かったわ。」
「お礼はコストリーのフルーツパフェでいいわ。」
「だけどよく私が危機的状況ってわかったわね。」
いくら歩と仲がいいと言ったってテレパシーで会話ができる訳じゃなし。
「あーそれね。私あの時コピー室にいたのよ。」
コピー室……納得。
「それは間違いなく丸聞こえだったわね。」
「みんなどうかしてるよ。あんな大声でさあ。人事課の新人くん、怯えてたよ。」
コピー室は元々私達のいた休憩室の一部でパーテーションで区切っただけの部屋だ。
ボード一枚では音なんか筒抜け。
それもあってあそこを使うのは好きじゃないのよね。
誰に聞かれているとも分からないから。
「最近は大人しくしてたのにねぇ、高田のばばあ。」
「彼女まだ29よ。」
「私らより3つもばばあ。アラサーで頭の中はお花畑って間違いなく老害。」
お花畑とはまた意味深な。
「きついなぁ。」
二人して音にならないくらいの声で笑う。
同期の小川歩とは研修の時からの付き合いだ。
本採用の人事でお互い県外の支店に振り分けられたけれどメールのやり取りは頻繁にしていた。時間が会う時には飲みに行ったり、泊まりに行ったり。
パンデミックのおかげでしばらくメールオンリーだったけど、一昨年二人揃って本社経理部に移動が決まった時は久しぶりの飲み会で大はしゃぎした。
その時はまさかその後に地獄の日々が待っているなんて想像もつかなかった。
まあ、もう済んだ事だ。今更蒸し返す気もない……けどなんだろう、なんだかモヤモヤする。
「でもホント驚いた。彼女なんであそこにいたのかしら。しかも歓迎会ごときにあの入れ込み方って……」
ちょっと鬼気迫るものがあった。
「……千穂、みんなの話ちゃんと聞いてた?」
「?多分。」
歩が顔を上に向けてジーザスと呟く。この帰国子女は事ある毎にこのポーズを取る。そしてこのポーズをとる時は大体において……
「私またなにかやらかした?」
ここに来てから二年、色々あってかなり上手く立ち回れるようになったと思ってたんだけど。
「やらかしたわけじゃないけど。彼女達が言ってたでしょ?立ち居振る舞いや言動が王子様みたいだって。」
あのオヤジギャグが?納得いかない。
「まだ彼とは直接話してないの?」
「ええ。まだ。」
業務以外の会話はするなと彼に止められている。
実際業務に関しても彼の傍にいる今は特に話すこともない。
何故とは聞かなかった。きっと業務上部外者には知られたくない事があるんだと思った。
私は彼に近すぎるから、それと知らずに守秘事項を漏らすかもと考えているのかも。
なんてのは建前で。
私の本音は。
彼の前ではクールな人間を演じていたいから、だ。
「これはあくまでも噂だけど。」
歩が第二経理課のドアノブに手を掛ける。
「財閥の御曹司説が流れてる。」
御曹司?それは……
「それがまじバナなら、確かに食いつくわね。」
今の彼女なら確実に食らいつく。なるほど、だからお花畑、か。
「何が食いつくの?」
噂をすれば影がさす、って正にこのこと。
振り向いた先には佐野雄輝の満面の笑顔があった。
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