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「あ。」
まさかご本人登場とは。
「お疲れ様です。今お戻りですか?」
「やっと帰ってこれました。」
佐野さんが落ちかけていた眼鏡をクイッと押し上げる。
午前中は田辺くんと品川の取引先に出かけていたはず。田辺くんが明細不備で書類作り直しだって慌てていた。
「田辺くんは?」
歩が尋ねると「あれ?置いてきちゃったかな。」と明るく返された。
「どこに?」
「駐車場?車のキー戻しに行ったら警備員さんとおしゃべりしてたから行くよーって声は掛けたんだけど。」
置いてきた……。彼は貴方の指導係なんだけど。
「佐野さんお昼は?もう12時半になりますよ。」
おしゃべり好きの彼のことだから警備員さんとあれやこれや盛り上がっちゃってたんだろうけどお昼過ぎてるのに相方を待たせてはいけない。
「あー、それそれ。軽く食べようと思ったんだけどこの辺よく知らなくてさ。誰かに聞こうと思ってたところに食いつきが、って聞こえたからご飯のことかなと思って声掛けたんだよね。」
ニコニコ笑いながら話す彼は私達に対して既にタメ口。確かこの人私より年上だ。さっき聞いたところだと……4つ上?
「佐野さん。若輩の私がこんな事言うのは甚だおこがましいのですが、役職が上の山野主任に向かってその言葉遣いは如何なものでしょう。幾ら年齢が上とはいえ失礼ですよ。」
少し苛立ったような口調で歩がまくし立てる。
「あ、失礼しました山野主任。以後気をつけます。だけどそれでいくと、田辺さんて小川さんより年上ですよね。くんづけってどうなんだろうな。」
はて、と首を傾げる彼に思わず口を抑える歩。
「佐野さん。田辺く、田辺さんは自分からくんづけで呼んでくれと言ってるんですよね。なので今年入社の子も彼のことを田辺くんと呼んでるんです。 」
「へえ、そうなんだ!」
佐野さんがポンと手鼓を打つ。
横からは安堵のため息。
歩、これでさっきの貸しはチャラね。
「大変失礼しました。お詫びに二人にご飯奢りたいんだけど、どうかな?もう食べちゃった?」
「は?」
歩の素っ頓狂な声が耳に刺さる。
「俺的にはなんとなく蕎麦気分なんだけどこの近くにある?あ!蕎麦アレルギー大丈夫?」
懲りない人……。
「生憎だが山野はこれから私と外出だ。食事は社食を使いたまえ。」
背を向けていたドアから明らかに不機嫌と分かる低い声が響く。
そっと振り返ると、課長が仁王立ちしていた。そういえばさっき歩がドアを開けかけていた。今の会話、課長に丸聞こえだったのね。
「えー、社食なんてどうなんですかー?俺グルメなんですけどー。ねー、山野主任、小川さんどう思うー?」
拗ねてますか?佐野さん拗ねてますか?
だけどすぐおやめ下さい。
背中から冷気が発せられてます。
間違いなく絶対零度を遥かに通り越えてますから。
「あ、私案内しますね。ここの社食すごく美味しくて有名なんですよ。ガラス張りのカフェテリアで雰囲気も良くて周りの会社の方や女子会なんかにも使われてて……」
私同様状況把握した歩が、まだなにか言いたそうな佐野さんの腕をグイグイ引っ張ってエレベーターへと向かっていく。
「さっさと支度しろ。」
「はい。」
……道中思いやられる。
*
「なんだか不満そうだな。」
苦笑いする彼につられて私も苦笑いを返す。不満というか、居心地が悪い、いや座り心地は最高なんだけど。
「資料は?」
「どうぞ。」
鞄から彼のタブレットを取り出して課長に手渡す。
また手持ち無沙汰になった私はもう一度豪奢な車内を見渡す。
……まさかリムジンを使うなんて。
「コーヒー頼めるか。」
「はい。」
コーヒーカートリッジに電気ポット、小型冷蔵庫、カップは……ジノリか。
グラスやアルコールは流石に今日はセットされていないけど、これでワインパーティーなんかやったら楽しいでしょうね。
まさに動くホテル。
……私には全く分不相応。
地下駐車場で目の前にリムジンが止まった時、社長が来たのかと思った。
「時間がもったいなくて、運転手付きの車を頼んだら車がこれしか空いてなかったんだ。」
隣で言い訳がましく呟やく彼に、それって役員車ですよね、私達中間管理職ですよね、ペーペーとかわらないですよね、私が運転すれば普通の社用車で十分でしたよね……とどれだけ突っ込みたかったか。
「間違いなく一生の思い出になりますね。」
なるべく平静を装ってみたけれど。
VIP専用のこの車は輸入家具商社としての威信を掛けて作り上げた、と聞いた。
今回は役得ということで楽しもう。
「望むなら……」
「え?」
「……行くぞ。」
促されて歩を進めると、運転手さんがドアを開けて「どうぞ」と手を取ってくれた。
緊張しながら乗り込んだ瞬間。
これ、ホテルのラウンジ?革張りのソファ、窓に沿って取り付けられた煌びやかなテーブルや収納、シャンデリア。
軽く見積っても仕入れ値300万は下らないだろうペルシャ絨毯を惜しげも無く裁断してぴっちりと敷き詰めた床に気後れしてしまった私の足は無様に竦んでしまった。更にみっともないことに、そのまま前方につんのめった。
「大丈夫か?」
課長に腕を取られてなんとか転ばずに済んだけれど。
制服は仕方ないとして、せめて靴だけでも通勤用のに履き替えてくればよかった。
高級絨毯を踏む仕事用のビニールレザーのパンプスは税込3000円。
恥ずかしさで顔が熱くなる。
そんな私を見ることなく彼はさっさとソファに腰を下ろして上着を脱いだ。
「昼まだだったんだろう?食べてていいぞ。」
オフィスを出る前に紙袋を鞄に詰めてるところを見られたみたいだ。
「すみません、お言葉に甘えます。」
紙袋から食べかけのサンドイッチを取り出す。一口噛むとパサパサしたパンが口の中の水分をガッツリ持っていった。
大分時間が経ったものね。
カップに手を伸ばしてパンの塊を喉に押し込む。フィリングは卵だったけれど口の中はコーヒーの味しか感じない。
不意に視線を感じて彼を見る。
「どうしました?」
見つめていた割に、課長は無言でタブレットに向き直り指をスライドし始めた。
どうしたのかしら。資料に間違いでも?
なんて思う間に鞄の中で社用のスマホが震える。
LINEが入ったみたい。非表示にしてあるからアプリを開くまで誰かわからない。
ポップアップをタップする。
ん?
『美味しそうだな』
え?
思わず課長を振り返ったら。
彼が横目でニヤリと笑う。
LINEはお隣に座る課長さまからだった。
全く。こういうことで会社支給のスマホ使わないでください。
『一時間前なら最高に美味しかったはず』
彼が吹き出す。
『買い直してやろうか?』
『いいわよ。お腹に入ってしまえばおんなじ』
『男前だな』
今度は私が吹き出す。
『キスしていいか?』
いや、流石にまずいでしょ。チラッと前方を見る。
運転席とフロアを仕切る仕切り壁の小窓にはこちら側からカーテンがしっかり閉められているけれど。
「心配しなくても透けて見えたりしない。」
いきなり生の彼の声が耳をくすぐり、彼の息が首をくすぐる。人一人分のスペースは空いていたはずなのに、いつの間にこんなに近くまで来てたの?
彼の右手がスマホを握る私の手に触れる。
「だが、話し声は聞こえるかもしれない。喘ぎ声なら間違いなく。」
……一発殴ってやろうかしら。
でも。
殴る代わりに彼の首に両の腕を回す。
「なら、塞いで。」
私の口を。
囁く私の首に左手が添えられる。
指の金属が私の肌を擦っていく。
奥様には申し訳ないけれど。
今だけはこの人は私のもの。
今だけは。
*
打ち合わせもスムーズ、とはいかなかったが何とか就業時間までに終わった。
戻る頃には残業タイムだろうけど。
打ち合わせしている間に必要なデータは先にメールで送っておいたから今頃は歩達が処理してくれているはず。
あとはあの豪華すぎるリムジンに乗って帰るだけ。
外はもう真っ暗。
今夜は、彼来るんだろうか。
……物足りない。
キスだけで終わらせてしまったせいで体の中にまだ残り火が燻っている感じ。
やっぱりあの時もう少し……って、バカな事を。
仕事とプライベートを混同したら終わり。
さっきはあの特殊な環境でたまたま雰囲気に飲まれてしまっただけで……車窓から見る夜景は綺麗だろうな。
彼の隣で、ってまた馬鹿なこと考えてる。
それにしても遅い。
部長と何話してるのかしら。どうやら仕事ではなさそうなんだけど。
10分ほど玄関ロビーで待っただろうか。なんだか気難しげな顔だ。
「帰る前に寄りたいところがあるんだが?」
「かしこまりました。」
「……行き先聞かないのか?」
そう言われても。上司が行くとなれば黙ってついて行くしかないじゃない?
なにより、せっかくあなたといられるというのに、私が拒む理由がない。
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