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開幕
生きてる事の意味。
そんな難しいこと考えても仕方がない。
とりあえず息はしてる。
目の前にあるリンゴは綺麗な赤で、甘い匂いが鼻をくすぐってくるし喉の奥に唾が溜まってくる。ストレス軽減してくれるらしいアルファ波の音楽を疑いながら流しつつ万能包丁をりんごの皮に添わせる。五感も運動能力も問題なく働いている。それゆえ生きてるんだと自覚する、とりあえず。
「リンゴ剥くのに何を考え込んでるんだ?」
背中に投げられた言葉にハッと我に返る。
「うさぎにした方がいいのかしらって。」
乾いた笑いと共に皮は苦手なんだと彼が返してくる。
私は六等分にカットしたリンゴの皮に包丁をあてながらちょっとだけ意地悪なことを考える。
(一欠片くらい皮残してやろうかしら)
やらないけど。
「はいどうぞ。」
「サンキュ。」
ソファに座ってスマホを弄る彼が、空いた手で爪楊枝に刺されたリンゴを口に放り込む。リンゴを盛った皿なんか目もくれずに。
手のひらにも目が着いてるのかしら、なんて馬鹿なこと考えながらウエットティッシュの箱を皿の脇に置く。
「うん、完璧。やっぱり千穂だな。」
彼の頬が砕き切ってないリンゴで尖る。
「褒めてる?」
右の人差し指で尖りを軽くつつくと、頬は直ぐに咀嚼の形に変わった。
「もちろんだ。」
彼の手が頬に触れてた私の指を掴んで、パクリと銜えた。引き抜こうとした途端、指の腹を舌で擦られた。
ぞくりと背中に甘やかな痺れが走る。
「だから俺のものにした。」
そのまま腕を引かれ彼の膝に倒れ込む。
ええ、そうね。貴方は完璧なものが好きだから。だから私は……。
「それは身に余る光栄ね。」
尊大な台詞を吐きながら口の端だけで微笑む。
「このまま千穂を食べてもいいかな。」
「それは遠慮しておくわ。代わりに私の分のリンゴも進呈するから。」
ここでハイなんて言ったら99パーセントの確率で彼は部屋を出ていく事だろう。立ち上がり、彼に背を向けて簪を引き抜く。ストレートの髪がサラリと肩に広がった。これは彼のお気に入りの仕草。
「シャワーを浴びてくるから。ベッドを暖めておいて。」
あと一週間で10月。
にも関わらずエアコンの設定温度は22度。私には寒すぎてキツい。
せめてベッドの中くらいは暖かくないと眠れない。
まあ、それもほんのひとときだけど。
掛け布団はすぐに床に蹴り落とされるから。
彼に言わせると行為の最中は暑くて22度でもキツいらしい。
「手短かに済ませろよ。日付が変わるまでには家に戻るつもりだ。」
事もなげに告げられたそれが、氷の棘になって私を突き刺す。
少しだけ振り返ってさっきと同じように口の端で微笑みながら右手をヒラヒラさせる。
まだ崩れてはダメ、彼は見てる。ドアを閉めるまでは踏ん張らないと。
彼の前では、いえ彼が目を光らせてる場所では、絶対に崩れてはダメ。
それがこの不毛でしかない恋愛のルールだ。
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