御守

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19:00過ぎのスターバックス。 仕事帰りの僕の視界の端に、1組のカップルが映っていた。 僕は今日買ったばかりの推理小説を片手に、3つ前の斜め前の席に座るカップルの様子をうかがう。 店内は満席で、カウンターにはテイクアウトのオーダーを待つ客が列をなしている。 夏のフラペチーノの新作が出たばかりの今日は特に、店内が混雑していた。 連日の猛暑で、ソールドアウトの製品も出ている。 店内では、それぞれの客が、各々の作業をしている。 イヤホンをしながら黙々と資格の勉強をする大学生。 勉強という名目のもと、いちゃつきに来ている高校生カップル。 ステータスのためだけに、家でやればいいだけのリモート会議をカウンター席でしている会社員。 たくさんの人の中でとあるカップルが目に入ったのは、2人が神妙な面持ちで店内に入ってきてから、しばらく黙ったまま、重たい空気だけが流れ続けているからだ。 「私、許さないから」 座席につくなり女性が大きな手帳をカバンから出した。 赤い革のカバーをかけた、A5サイズの手帳は厚みがある。 その背表紙には、黄色い御守が結んであり、どうやらそれをブックマーク代わりに使っているようだ。 手帳から彼女が何かを男性に差し出し、最初に発した言葉がそれだった。 男性は何も言い返さない。 それきり、2人は黙ったままだ。 女性は黒のワイドパンツスーツに白いブラウス姿だ。 長い黒髪のストレートで、前髪を作っておらず、後ろにかき上げている。 色白の彼女は目鼻立ちがくっきりしていて、きりっとした眉毛が彼女の几帳面さを象徴しているかのようだった。 長い足をクロスして腕組みをしている。 レッドブラウンのルージュできれいに縁どられた唇が真一文字に固く結ばれているのが、彼女がイラついているという事実を間違いのないものにしていた。 彼女は、野々宮小春という小説家だ。 最初はあまり相手にされていなかったが、最近出した小説がこのミス大賞にノミネートされたのだ。 来年にはその作品がドラマになるといううわさもある。 まだまだ世間に名前が知れているわけではないが、ドラマ化が決まれば間違いなく話題になる。 作品も面白いが、何よりも彼女の容姿はは素晴らしい。 美しすぎる小説家とか何とか言ってちやほやされるのだろう。 一方の男性の方は、癖毛で、何かのバンドTシャツに黒いスキニージーンズをはいている。 顎のところどころに吹き出物の跡が見えるその男は、まだ顔に幼さが残っている。 バンドをやっているのか、はたまた違う職業なのか。 ただ、どこかで見覚えのある顔だ。 怒りに燃える小春を前に、彼はうつむいたままだ。 時々子犬のように彼女を見上げるが、鬼の形相で座っている彼女の視線に耐え切れずにすぐにうつむいてしまう。 スーツを着こなし、ヒールが高めのパンプスを履いて風を切るように歩く小春と、薄汚れた黒のコンバースハイカットを履いて、踵を擦るように歩く男。 2人とも30代だが、どこから見ても不釣り合いだった。 美女と野獣のような2人の間に起きているであろうドラマが気になって、僕は手に持った小説などどうでもよくなってしまっている。 相手に悟られないように小説を読むふりをしながら、耳は彼らの話に傾けていた。 僕はイヤホンを片方だけ外し、もう片方をしっかりと入れなおした。 5分くらい、黙ったままだろうか。 ついにしびれを切らした小春が、怒りに震える声で話し始めた。 「もうこの人たちには会わないって言ったじゃない。関係を断ち切らないと、いつまでたってもあなたが前に進めないでしょ?」 「でも、金に困ってるっていうから。頼られて、放っておけなかったんだ」 男性は半べそだ。 情けない。 「酒とギャンブルで勝手に貧困に陥っている人に情けをかけてる暇なんかないでしょ」 「そういうわけにはいかないんだ。1年目の時に本当に世話になったし、今不定期でもテレビに出てられるのは、この人のおかげなんだよ」 どうも、男性はお笑い芸人らしい。 確か、ドッキリの番組でだまされる企画に出ていた。 情けない顔でギャーギャーと騒ぐあの男の姿の姿が頭の中で再生される。 ネタ番組に出ていた記憶はないから、多分まだそこまでブレイクしていないのだろう。 「いくら貸したの」 「……10万円」 「10万!?」 彼女の声が上ずり、周辺にいた客数名がちらっと彼らを見る。 咳払いをした彼女は少し声を押さえて話を続ける。 「信じられない。私に家賃を前借りしておいて、10万も……」 「来週にはギャラが入るから。家賃はその時に全部返すよ」 小春が小さくため息をついた。 「あなたの、その優しいところが好きなの」 「……うん」 「でも、この人たちにこれからもついていくっていうなら、私はもう付き合いきれない」 「……」 「どうする?いまこの場で別れてもいいわ」 男性は今にも泣きそうだ。 小春は感情を隠しているのか、すでに怒りの表情もなく瞬きもせずに男性を見つめている。 「分かった。もう金は貸さない」 「約束できる?」 男性がうなずいた。 「じゃ、この話はこれで終わり」 「許してくれるの?」 「今度こんなことがあったら、もう許さない」 男性が安堵のため息をついた。 嬉しそうな表情で小春を見上げる。 「分かってる。ありがとう」 僕はこぶしを握り締めていた。 なぜだ。 なんでそんな、しょうもない人間に金を貸してしまうような男を許すのか。 大して売れてもいない芸人と、ドラマ化の話が進んでいる小説家の小春。 この先、もし美人小説家として売れていくなら、間違いなく彼の存在は邪魔だ。 「それにさ、気を付けたほうがいいよ。こんな写真、撮られてるんだから」 「この写真、どうしたの?」 「今朝、事務所に届いたの。私の事務所に届いたのよ?」 男性が怪訝な顔をする。 「週刊誌?」 小春がフフッと笑った。 「私たち、どっちもそこまで有名じゃないでしょ。でも差出人の名前がないの。気持ち悪いから開けないで捨てようかと思ったんだけど、気になって開けたらこの写真が出てきて、呆れたわ」 「誰がやったんだろう」 彼女は写真を破って細かくしてしまった。 「なんでもいいわ。とにかく、約束は守って」 「うん」 「この後は、どうするの?」 「少し相方の家によってネタ合わせしてから帰るつもり」 「そう。遅くなる?」 「できるだけ早く帰るよ」 彼女はコーヒーを持って立ち上がった。 「じゃあ、私先に帰ってるから。あとでね」 カツカツとヒールの音を鳴らして、店の外に出ていく。 僕はイヤホンを外し、小説を手に持ったまま彼女の後を追った。 人ごみの中を颯爽と歩く小春の後を追いかけ、角を曲がって少し人気がなくなったところで声をかける。 「あの、野々宮小春さんですよね?」 「えーと、そうですけど……」 「僕、あなたの小説のファンなんです。よかったら、サインしていただけませんか?」 僕は、手に持っていた小説を彼女に差し出した。 カバンからペンも出して、本に添える。 「もしかして、新作発表の時に来てくれてました?」 覚えてくれてたんだ。 彼女はカバンからお守りを取り出して私に見せた。 勝守と書かれた黄色の巾着型のお守りは、少しボリュームがあるが、彼女の手帳につけられて小さな鈴音を鳴らしている。 「このミス大賞はとれなかったけど、ドラマ化するかもしれないって話にもなってて。本当はあまりこういう話はしちゃいけないんだろうけど、でもネットニュースになってるからいいですよね。初めて読者の方からもらったものだから、嬉しくて持ってたんです」 「ドラマ化、実現しそうですか?」 「どうでしょう。教えられないけど、実現するように祈っててください」 彼女は慣れた手つきで本の表紙の裏にサインをして、僕に手渡した。 「ありがとうございます。これからも、応援しています」 「こちらこそ、いつも応援ありがとうございます」 小春は小さく会釈をして歩いて行った。 僕は、イヤホンを耳に入れる。 小春が小さく鼻歌を歌っているのが聞こえた。 その声にだんだんとノイズが入り、そして聞こえなくなった。 あの男は、君には不釣り合いだ。 なぜそれがわからない。 普段温厚な君が声を荒げるほど激しく喧嘩をした原因の、金食い虫とつるんでいる証拠を押さえて君に渡したのに。 なぜ気づいてくれないのだろうか。 これからも僕は、小春のことを見守っていくしかない。 いつか、僕の尽力に気が付いてくれる日が来るといいなと思う。 もし、こんなにも思っている僕の気持ちが伝わらないのなら。 その時僕は、君のことを。 きっと、許さないだろう。
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