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 タカ叔父はマンションにはいなかった。鍵を預かっていたので勝手に中に入ったけど、もぬけの殻だった。午後も早いうちなのでまだ家にいると思ったのに、タカ叔父も赤ちゃんもいない。ぼくはハルカさんを思い出して、その部屋へ向かった。チャイムを押すと、ハルカさんがドアを開けた。無表情のまま言う。 「よう、甥っ子。どうしたの」 「赤ちゃんいますか?」 「うん。行ったり来たり面倒だから、昨日からここにいっぱなし」 「すみません。ご迷惑かけます」 「持ってくの?」 「あの、明日連れて行くことになると思います」 「そう。じゃあ入る?」 「いいですか?」 「うん。それまでうちに預ける気なんでしょ?」 「はい。すみません」 「どうぞ。あの男はどこ行ったの?朝様子見に来てから、出かけるって言って戻ってこないよ」 「そうなんですか?すみません。ぼくもちょっと判らないです」  ぼくは靴を脱いで部屋に上がらせてもらう。タカ叔父の部屋と間取りはほとんど変わらなかった。玄関のホールを進むと広い居間があって、その奥にも部屋があるみたいだけどそのドアは閉まっている。タカ叔父の所ではそこを寝室に使っていた。そこも広い部屋だけど、居間に続いている台所は六畳だった。広い2DKか1LDKという事になると思う。けど、多分この広さなら4DKの部屋もできるだろう。  居間の中央には長いテーブルがあった。仕事用の机みたいで、書類や本や筆記用具がばらばらに広がっていた。食卓なら八人は一緒に食事をできるくらいの広さで、でも椅子は二脚しかなかった。一つの椅子の近くの机上にマグカップが置いてある。多分、今までその椅子にすわっていたんだと思った。  その机から少し離れて、窓側に小さめのソファーが置いてある。赤ちゃんはそのソファーの前のスペースに寝かされていた。タオルケットで敷布団が作られて、その上に寝ている。ソファーの上には新しいオムツとかタオルとかが置いてあった。 「寝たばかりだから起こさないでね」 「はい」  ぼくは赤ちゃんの傍らにすわって、その寝顔を眺める。  この子をぼくが育てないといけない。それはまだ非現実的な感覚だった。今夜眠って、目が覚めたら、全ての状況が変わってるという事があるかもしれない。この子の存在はどこかに消えていて、ぼくは学校に行ってフランス民話を読む。その方がずっと現実的に思えた。  明日の朝この子を迎えにきて、家に連れて帰るんだ。今これからって言うのはちょっと無理みたいだ。まだ頭ははっきりしない。それに父さんが何時ごろ帰ってくるか判らないし。明日なら土曜日だから、二人とも家にいてもらおう。  驚くだろうし、怒られるだろう。  もしかして泣いたりするかな?お母さんは。  ぼくはそれまでに気持ちを落ち着かせないといけない。そして、これからのことを考えないといけない。  タカ叔父は一緒についてきてくれるかな?それじゃあ弱虫過ぎるだろうか? 「コーヒーでも飲む?」 「あ、はい。すみません。あの、ぼく、ここにいたら邪魔ですか?」 「別に。そっちが暇ならそれまでここにいなさいよ。それでオムツ替えたりミルクやったりしてちょうだい。親戚でしょ」 「はい。すみません」  ぼくはキッチンに立っているハルカさんを見ながら、タカ叔父の部屋から育児書を持ってくれば良かったと思った。赤ちゃんがおとなしいと、ぼくはここでやる事がない。  ハルカさんがインスタントコーヒーを作って、マグカップを持って戻ってくる。 「こっち来なさいよ。赤ちゃんにこぼれたら危ないから」 「はい」  ぼくは立って、机の方へ行った。ハルカさんは自分の席の向かい側にカップを置いてくれた。そこにもう一つの椅子がある。テーブルは天然木のナチュラルな感じのやつだったけど、椅子はガス圧式の青い布張りの事務椅子だった。ぼくはそこに座って、ハルカさんの様子を眺める。今日もジーンズ姿でスッピンだった。だからといって男っぽくはなかった。全体的に痩せてはいるけど女の子っぽい体型だった。髪も長くて綺麗だ。  ハルカさんは書類をめくって、面倒臭そうにそれを読んでいた。机の上には白紙のケント紙が置いてある。 「あの、ハルカさん」 「んー、なに?」  ハルカさんは視線を書類に向けたまま応答する。 「何のお仕事されているんですか?叔父さんは、自宅で仕事してるって言ってたけど、今やってるのが仕事ですか?」 「ああ、うん」 「何をされてるんですか?」  ハルカさんは不意に顔を上げて、ぼくを見た。 「お喋りしたいわけ?」 「あ、ごめんなさい。邪魔ですよね」 「いや、聞いてんのよ。話しするんなら、私ちょっと休むから」 「あ、えっと……、どうしましょうか?」  ハルカさんは怒っている風ではなかった。その証拠にふっと微笑んでくれた。そして書類を傍らに置き、マグカップを手に取る。 「きみ、なんて名前?」 「忠成です」  言って、ぼくはいつもみんなにそうするように、漢字の説明をした。 「愛称が付けにくい名だね」 「ああ、そうかもしれないですね」 「タダでも、ナリでも変だもん。忠成じゃ長いし、呼び捨てにしたら呼んでるこっちが偉くなった気がするみたい」 「そうですか?」 「うん。忠成って、家臣を呼んでる気分だよ。おい、忠成、馬を引け。とかね」  ぼくは笑う。やっぱりぼくの名前は時代劇になってしまうらしい。 「でも殿を付けると途端に君が偉くなっちゃうから嫌だし。忠成殿」 「殿はさすがに、付けられたことないです」 「普通はなんて呼ばれるの?」 「名字ですね。芹沢、芹沢くん。後は、オイとか」 「甥っ子なだけに」  言ってハルカさんは顔を伏せた。 「ごめん。しょうもないこと言った。忘れて」 「でも、ちょっと忘れられない気がします、今のは」 「忘れて。恥ずかしくなってきた。子供相手になに言ってんだろう」  ハルカさんは顔を上げ、結局口をつけないままのカップを置いて、頬を恥ずかしそうに両手で挟む。ぼくは口がにやけていた。本当につまんない。 「笑うな。忘れろ」 「はい」  素直に返事をして、ぼくは唇を噛んだ。お世話になってる人だから、言うことは聞かなければ。だから話を変える。 「あの、さっきの話ですけど、お仕事はなんですか?」  ハルカさんもそこから逃げたかったみたいで、ぼくの質問にすぐに答えてくれる。 「アホなイラストレーター」 「えっ……アホなって、上に付くんですか?」 「付くの。だってつまんない仕事だもん」 「どうしてですか?」 「やりたくてやってる訳じゃないからね。金になるからやってるだけで。生活してかないといけないでしょ、人間は」  ぼくは頷く。今のぼくにとってそれは切実な話だった。 「そうですね。他に本当にしたい事とかあったんですか?」 「したい事とかあったんだよね」  ハルカさんは言いながら、事務椅子の上で胡坐をかいた。その姿勢でマグカップを手に取り、中身を一口飲む。飲んで、息を一つ吐いた。 「何をしたかったんですか?」 「絵」 「絵。って、今やってるんじゃないんですか?」 「油絵を描きたかったの。今やってるのは、私にとっちゃ落書きみたいなものよ。こういうのを目指したり、やってる人をバカにしてる訳じゃないわよ。単に私がアホなの。私の描いてるのは落書き。だって、適当に描いてるんだもん」 「でも、それで食べていけるなんて凄いですね」 「世の中おかしいわよね。そもそも、成りたいものに成ってる人って、世の中にいるのかしら。時々思うの。みんな本当に成りたいものには成れない運命なの。だから、余程したたかに、本当に成りたいものは隠して隠して生きていかないといけないんじゃないかって」 「途中でばれたら終わりですか?」 「終わりよ」  ハルカさんは右手を握って、親指で首を斬る仕草をした。 「そこで、ハイお終い、って言われて、五番目くらいに控えてた成りたいものに成らされるの。だって、そういう人いっぱい知ってるんだもん。世の中上手くいかないわよね」 「そうですね」  ぼくは何になりたいんだろう?まだはっきりしていない。とりあえず、予定外の父親には、すでになってはいるけど。 「油絵は、あきらめたんですか?」 「うん、食べてくことはね。趣味では描いてるよ。まあ、結局才能がなかったんだろうけどね」 「どうして今の仕事をするようになったんですか?」 「流れで」  あまりに抽象的で、ぼくは首をひねる。ハルカさんは苦笑いした。 「美大に行くお金がなくてね、デザインの専門学校に行ったのよ。もう、ここの思考からアホだったんだけど。知ってる?美大って本当お金かかるんだから」 「そうなんですか」 「うん。そこで上手い具合にコネとかできて、気付いたら仕事を任されるようになってたの。まあ、生活できてるんだから不満はないけどね。だから、適当には描いてるけど、締め切りとかはちゃんと守るの。指示されてる事もちゃんと守るの。クライアントの注文はとにかく素直に呑むの。これは生活のための仕事だからね。絵は適当だけど」  ハルカさんは肩をすくめる。 「君は何かしたい事があるの?」 「しなきゃいけないとは思うんですけど、まだ判らなくて。でも、ぼくもイラストを描く仕事してるんです」 「え?」  ハルカさんは急に顔をしかめた。 「嘘。ごめん。私、気に障ること言った?さっきも言ったけど、バカにしてるんじゃないのよ。私に限っての話しよ。私はつまり、自分の自由に描いた絵で食べていくことを夢見てたけど、現実はそんなに甘くなかったって話しよ」 「いいえ、大丈夫です。勉強になりました」 「別に、ただの愚痴だったんだけどさ。でも、大学生なんでしょう?」 「はい。仕事と言っても只働きなんです。学校が出してる月刊誌に似顔絵を描くように言われて」 「えー、それ只なの?酷いなあ」 「たまに図書カードとか貰うんですけど。なんか給料とか報酬とか払うと事務手続きが面倒らしくて、君も面倒だろうって」 「騙されてるよ、君は、薄汚い大人たちに」  ぼくは笑った。 「でも、その分責任は少ないから。もしかしたら適当に描いてたかもしれないです」 「そうね、まあ、図書カードでも貰えるだけいいわね。ふうん。似顔絵屋さんか、君は」  ハルカさんは「あっ」と、言ってぼくを指差した。 「なんですか?」 「今、凄くいい愛称を思いついたよ」  ぼくは嫌な予感がした。おまけにまた、つまらないギャグが飛び出した時の対応も考えないといけなかった。 「なんですか?」 「鴨」  やっぱり。  でも、芹沢鴨ってそんなにポピュラーかなあ? 「ぴったりじゃん、鴨だし」 「そんな、決め付けないで下さい。ぼく一生そこから抜け出せないような気がしてきた」 「なんで?そもそも君はお人好しとか言われてる?」 「……はい」 「そうだね、君、なんでも言うこと聞いてくれそうな顔してるもん」 「どんな顔ですか?」 「鏡見たことないの?」  ハルカさんは屈託なく笑った。今の彼女はだいぶ第一印象と違った。 もっと静かな人だと思ってたのに、結構喋るし、声出して笑ったりもするんだ。 「でも、やっぱりそれは酷いかもね。芹沢鴨じゃあんまりだよ。あれはお人好しの域にはまったく入ってないからね」 「でも、本名は違うって聞いたことがありますけど」 「うん。でも知らないし、本名なんか」 「そうですね」 「じゃあ、仕方ないから忠盛でいいいや」 「忠成です」 「ああ、ごめんごめん。ナリか」  赤ちゃんが目を覚ましたようだった。少し声を出して、見ると手を動かしていた。ハルカさんは椅子から降りて、歩きながら、少しリズムをつけて、独り言のように呟く。 「違うなりー。盛でないなりー。成なりー」  ちょっと変わった人だなあ、と思いながら、ぼくも後に続いた。クールな人だと思ってたのに、結構面白い人だった。タカ叔父の前でもこうなのかな?タカ叔父は「結構厳しい」って言って、ぼくもその感じが判ったような気がしていたのに、今はなんとなく「結構柔らかい」って感じだ。  ハルカさんは赤ちゃんのオムツを見て、ぼくに言った。 「ほら、替えなきゃいけないよ。やれ、忠成」  やっぱりちょっと厳しい人かもしれない。  タカ叔父は四時を過ぎても戻ってこなかった。ぼくは仕方ないのでハルカさんに赤ちゃんを頼んで、一人で店に行った。鍵を取り出しながら階段を降りる。そして鍵穴に鍵を差し込もうとして、ふと覗き窓から中を見ると、中に人がいた。一瞬焦ったけど、カウンターに突っ伏しているのがタカ叔父だと判ると、ふっと息を吐いて鍵をしまい、ドアを開ける。電気もついてなくて、店内には小さな窓からの光しかなかった。 「どうしたの?部屋で待ってたんですよ」  そう言って、ぼくは開店前なのに酒の匂いが強いのに気付く。タカ叔父は寝ているのか、ぼくが入ってきても動かなかった。 「ちょっと、タカ叔父」  ぼくはタカ叔父の背中に手をあてて揺らす。起きないので一瞬不吉な予感が心臓を突いた。でも、すぐに「んー」と唸って、ぼくはほっと肩を落とす。 「びっくりさせないでよ。なに店の酒で酔っ払ってるの?ダメなんでしょう、こういうケジメのない所業は。ほら」 「っせぇなあ」  突っ伏したまま言うので、くもった声になっていた。カウンターの上には空のボウモアの瓶が一本と、半分のが一本立っていた。 「まさかラッパ飲みしたの?汚いなあ。商品にならないじゃん、もう」 「っせっ」  もう、何て言いたいのかも判らない。 「開店までにお酒抜ける?」  ぼくはカウンターに入って手を洗い、店内の照明をつける。それからタカ叔父の飲み散らした瓶を片付けた。飲み残しの一本を事務室に持っていき、モップを取って戻ってくる。 「店開けない気なの?そういうの嫌いだよ、ぼくは。いつも自分が言ってることじゃない」 「なん…つ…れお」 「はあ?」  ぼくはタカ叔父のそばに寄って、モップを軽く動かしながら耳をタカ叔父の顔に近付けた。タカ叔父は顔を、ぼくの耳のある右側に向けた。右手を曲げて、左手はカウンターの奥まで伸ばして、カウンターに這いつくばるようにして、目は閉じている。 「なんか、作れよ」 「バカじゃない」 「作れって」  ぼくは溜め息をついて、モップを壁に立てかけ、カウンターに入る。なるだけ不機嫌に聞こえるように言う。 「ご注文は?」  タカ叔父は少し目を開け、そして閉じた。  それから言う。 「ブルース」 「え……。知らないよ、ぼく。そんなのレシピにあった?」  ぼくは作業台の棚に手を伸ばす。カウンターテーブルの下にあたる部分で、お客さんからは見えない場所だ。そこにタカ叔父の手書きのレシピ集がひっそりと置いてあった。でもぼくがそれに手を触れた時にタカ叔父は言った。 「レシピはない」 「ないの?じゃあ作れないよ。知らないもん、そんなの」 「ロックグラスにランプを割って入れろ」  仕方ないなあ。  ぼくは面倒臭い気分だったけど、言われた通りに棚からロックグラスを取って台に置いた。引き出しからアイストングを取り出し、アイスストッカーのスライド式のフタを開く。でもすぐに閉めた。  タカ叔父はもちろん、照明器具を壊してグラスに入れろって言ったんじゃない。ランプはランプ・オブ・アイスを略してるだけで、オン・ザ・ロックなんかに使う握りこぶし大の氷のことだ。氷は何種類かの大きさに分かれてアイスストッカーに入っている。いつも閉店後には製氷機からストッカーに氷を移しているので、前の晩に入れたそれは充分にそこにあった。 「わざわざ割らなくても、小さい方使っちゃ駄目なの?」 「言われたようにしろ。半分に割るんだ。洗わなくていいから」 「なんだよ。酔っ払いのくせに偉そうだなあ」  ぼくは仕方なく、少し考えた。  バイトを始めた頃は氷を直接手で触ってよくタカ叔父に怒られた。それでぼくはポリエチレンのラップフィルムを適当な幅に切って、左の掌にかぶせて、アイスストッカーからトングで挟み取った氷をそこに置いた。冷たかったので布巾にラップをかぶせて持てば良かったと悔やみながら、アイスピックを引き出しから取り出し、氷の真ん中をめがけて一突きする。氷は綺麗にほぼ半分に割れてくれたので気持ちが良かった。それをグラスに入れて、トングとピックはストッカーの脇に置いてある道具入れに差し込んだ。 「やったよ」 「バーボンを四十五、片方の氷の上から」 「どれ使うの?」 「てめえで決めろ」  肩をすくめ、ぼくはバックバーからフォアローゼズを取った。メジャーカップで四十五ミリリットル計って、言われた通りに片方の氷の上からそれを注ぐ。タカ叔父はほとんどメジャーカップは使わないんだけど、ぼくは目分量なんかでは作れない。 「入れたよ」 「ブラック・パイナップル・リキュールを十。同じ氷の上から」  ぼくは言われた通りにする。 「入れたよ」 「クランベリー・ジュースを五。同じ氷の上から」  言われた通りにする。 「入れたよ」 「おしまい」 「混ぜないの?」 「まんまでいい」  ぼくはグラスを、タカ叔父の顔の前に置いた。タカ叔父は目を開け、しばらくの間、目の前のブルースを見ていた。 「氷とけちゃうよ」 「客に指図するな。最低なバーテンだな」 「それ、そのまま返したいよ」 「ふん」  タカ叔父はおもむろに体を起こしてグラスを手に取った。少し頭を押さえ、グラスを口に運ぶ。ぼくは聞く。 「ハウ、ドゥーユー、ライクイットゥ?」  タカ叔父は唸って答えた。 「味が判らん」 「飲んだくれ。どうする気だよ。まったくもう」  タカ叔父はグラスを持ったまま立ち上がり、フラフラと事務室に歩いて行った。 「なに逃げてんの?ぼく一人じゃ店開けられないよ」  タカ叔父は無言のまま事務室のドアを閉めてしまった。 「冗談じゃないよ」  ぼくは呟いて掃除を続ける。とてもじゃないけど、今の時間から一人でいつも通りの開店準備はできない。ぼくは床を拭いた後に手早く店先の掃除をして、カウンターを拭いた。ボトルを拭くのはやめることにして、グラスだけを拭く。 「ねえ、買い物もしてないの?」  ぼくは事務室に向かって聞いてみたけど、返事はなかった。 この店では食べ物は簡単なものしか出していない。茹でたウィンナーとか、トマトとか、チーズ、アイスクリーム、チョコレート、ミックスナッツなんかで、どれもすぐに出せるものだけだ。冷蔵庫を見ると、毎日買ってくる筈のトマトがなかった。ぼくは事務室に行って、プレート、セロテープ、コピー用紙、茶色のペンを取ってきてカウンターの席に座った。部屋の中でタカ叔父は、グラスを手に椅子にすわって、壁に背をもたれてうなだれていた。起きてるんだろうけど目は瞑っていた。  ぼくはA4の白紙に「本日半営業」と、まず大きめに書いた。それから「Cocktail」の下に自分が作れるカクテルの名前を書いて、「Food」の下にチョコとミックスナッツだけを書く。最後に「本日、席数は三席となっております。御了承ください。営業終了時間午前0時」と書いた。  そしてスポットライトのスイッチをオンにしてから、外に出て店名のプレートをかけ、テープで即席メニューをガラスの下部分に丁寧に張った。 ぼくは、こんな事をして、もしも明日からの営業に差し支えたりしたら?と、少し心配だったけど、マスターの指示がないので、ま、いいや、とも思っていた。音楽を適当に選んで店内に流す。自分の好きなものを流せるのは少し嬉しかった。カウンターの中で背伸びをする。  これではたして、お客さんが来るだろうか?  張り紙を面白がって入ってきてくれる常連客が結構いた。最初に入ってきたのは会社帰りのサラリーマン。中にいたのがぼくだったので、気軽に声をかけてくる。 「どうしたの?今日は」 「すみません。マスターが風邪ひいちゃったんです」 「へえ。鬼の霍乱だね」  スツールに腰かける。 「一杯だけ飲んで行こうかな」 「はい。何にしましょう?」  気合を入れて聞くと、スコッチのオンザロックだった。彼が帰る前に会社帰りのサラリーウーマンが入ってくる。 「どうしたの?マスターは?」  同じようなことを聞かれて、ぼくは同じ返事をする。サラリーマンは一杯と言っていたのにおかわりをして、しばらく会話を楽しんでから帰っていった。  サラリーウーマンはぼくの作ったマティーニを飲んで、「やっぱりマスターの方が美味しいみたい」と、残念な感想を残して帰った。  限定三つの席はそれからぼちぼち埋まったり、無人になったり、時には五つに増えたりしながら時間は過ぎていった。  午前0時五分前に最後のお客さんが帰った。ぼくは見送って、プレートと張り紙をはずしてドアを閉める。スポットライトをオフにして事務室に入る。タカ叔父は今度は本当に眠っていたみたいだったけど、ぼくに気付いて目を覚ました。 「いい気なもんだよ」  ぼくは片付けながら言う。 「ああ、終わったん」 「うん」 「そう。じゃあ、後片付けもよろしく」 「マスターも手伝ってください」 「いいじゃん、たまには」 「ケジメをちゃんと付けてないと、経営なんか出来ないんじゃなかったの?体調管理もちゃんとしてなきゃいけないんじゃなかったの?今日のタカ叔父全然ダメじゃん。指示くらいしてくれないと困るよ。お店開けないでも良かったの?」  タカ叔父はむくれて立ち上がると、事務机に置いてあったグラスをぼくに押し付けて部屋を出る。 「ちょっと!」 「うるせえ小姑だな。便所だよ」  ぼくは腹が立って、唸りながらグラスを洗う。他の食器も洗う。タカ叔父がトイレから戻ってきてスツールにすわった。どうやっても片付けをする気はないようだ。 「何があったの?こんなの初めてじゃないか」 「トイレ掃除もな」 「あのねえ」 「お前、俺に恩があるだろう。文句言うなよ」  ぼんやりした顔でテーブルを眺めてタカ叔父は言った。恩をきせるような事を普通は言わない人なので、ぼくはそれでやっと本当に何かあったんだと思った。ぼくは百万円を頭に思い浮かべながらトイレ掃除に取りかかる。掃除をして、在庫チェックをして、カウンターの中の椅子に座り、グラスを拭きながら聞いた。 「どうしたの?」 「ああ?」  頬杖をついて、タカ叔父はぼくを見る。お酒はまあまあ抜けてるみたいだけど、覇気がない。 「ハルカさんに聞いたよ。朝から何処かに行ってたって」 「ああ。赤ちゃん見に行ったのか」 「うん」 「ああ、そうか。あの子に会いに行ったのか」 「うん」 「どうだった」 「うん。やっぱり、ぼくがあの子を育てる」 「本気?」 「だって、ぼくの子供だよ」 「ふうん」  気のない相槌だった。 「じゃあ、明日連れてくのか」 「うん」 「そう。まあ、頑張れや」  タカ叔父、一緒についてきてくれないかな?とは、言える雰囲気じゃなかった。今なにを言っても、ちゃんとした答えは返ってこないような気がした。 「ねえ、どうしたのさ」 「ああ?」 「ああじゃないよ。なに正体なくすまで飲んでるんだよ」 「正体なくなってたか?」  ぼくは突っ伏していたタカ叔父を思い返す。とは言え、話はできてたし、ぼくにレシピも教えてたし。  ぼくはミネラルウォーターをグラスに注いで、それをタカ叔父の前に置いた。 「うん、少しね」 「そうか」  タカ叔父は頭を掻いて背伸びをした。そして今度は両手で頬杖をつく。 「お前が変なこと聞きだすからさ。今日は朝から探偵になってみました」 「探偵?なにそれ」 「ちょっと調べ物をしてみました」 「なにを?」 「惚れた女のことを未練がましくこそこそと嗅ぎ回ってみました」 「え……。それって、あのお嬢様のこと?」 「うん。そしたらさ」  タカ叔父は少し笑って言った。 「今年の五月に結婚してた」  ぼくは言葉に詰まった。  そんな。  しかも、そんなに最近なの。  ぼくはタカ叔父の顔を見る。ぼんやりは治ってきていた。タカ叔父は少し首を傾げて、グラスを見たりカウンターの端を見たりしていたけど、表情は意外に穏やかだった。少なくとも、飲んだくれてた時とはまったく違う大人しさだった。  それからお祈りするみたいに両手を組んで、それに顎を乗せる。ふっと息を吐く。 「相手の人は、判ったの?」 「よくは判らなかったけど、彼女が選んだ野郎みたいだから、良い奴なんじゃないの。少なくとも、何処かのアホなボンボンとかではなかったよ」 「彼女に会ったの?」 「会う訳ないだろう」 「いいの、タカ叔父は、それで」 「なに言ってんの、お前。もう昔の話なんだぞ」  タカ叔父は鼻で笑ったけど、嫌みっぽいのではなくて、優しい感じの笑い方だった。 「だけど、忘れられないんでしょう」 「別にいいじゃん。忘れなくたって。忘れろって法律でもあんのかよ」 「ないけどさ。なんか……残念だね」  タカ叔父は額に片手をあてて俯いてしまった。ぼくはまずいことを言ったみたいだ。 「ごめん……」  タカ叔父は水を飲む。  タカ叔父とそのお嬢様について、ぼくは何かを言う立場ではなかった。ぼくがその話を忘れることにした。 「明日、タカ叔父、忙しい?」 「んにゃ。別に」 「付いてきてくれないかな。家に、ぼくと一緒に」 「赤ちゃん抱えて?」 「うん。抱えるのはぼくだけど」 「当たり前だ、バカ」 「ダメ?」  タカ叔父は少し考える。 「いいよ。でも、付いてくだけだ。俺は何も言わないぞ」 「うん。お願いします」 「判った。朝早いの?」 「ううん。お昼でもいいよ」 「じゃあ、昼飯食ってからな。義姉さんが怒って、昼飯抜きになるかもしれないし」  ぼくは少し笑った。
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