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 高田メグミは、岡村の友達の一人だった。  岡村とは違う劇団の女の子で、学校も違う。本名では「恵」と漢字なのだけど、芸名として彼女はカタカナで自分の名前を記していた。  メグミは美人だったが、正直、ぼくは彼女に恋をしたわけではない。でも、メグミがぼくの隣を選んで席に着いたのに気付くと、少し胸がときめいたことは事実だ。彼女はその飲み会の席に遅れてやってきて、ぼくの隣にいた男を押しのけて椅子に座った。平日の夜はアルバイトがあったから、ぼくが岡村と飲みに行くのは大抵、土日祝のいずれかだった。  メグミがぼくの隣に座ったのは土曜日だ。 「芹沢くん」  と、しばらくみんなと雑談をしていたメグミが、そこから自然に離脱して、ぼくの方を向いてぼくの名を言った。 「ん?」  と、ぼくはメグミを見て返す。 「先刻から飲んでるの、もしかしてウーロン茶?」 「ああ」  ぼくは、まるでウィスキーのようなフリをしてロックグラスに入っている琥珀色の液体を揺らしてみせた。中の氷がまるで酒に浸っているかのような気障な音をたてた。 「そう。ウーロン茶」 「なんだ」  メグミは真からガッカリした声を出した。 「芹沢くんって、お酒強いんだとばかり思ってた」 「だまされた?」 「ええ。だまされてたわ」 「すまない。だますつもりはなかったんだ」  ぼくはわざと、深刻なフリをしてそう言う。  メグミは少し笑って、 「ひどいわ。私というものがありながら」  と、辻褄の合わない返事をした。それでぼくも少し笑った。  メグミが言った。 「お酒弱いの?」 「さあ。あんまり飲んだことないから判らないよ」 「どうして飲まないの?」 「ぼく、十八才だよ。ハタチまでには後一年と二ヶ月ある」 「それが理由?」 「うん」 「へえ」  メグミは特に驚いた風もなく、関心を示すでもなくそう言った。そして目の前にあったアスパラガスのバター炒めに箸を伸ばし、ぱくぱくとそれを食べ、次に自分のグラスのモスコー・ミュールを飲んだ。 そして、またぼくの顔を見た。 「私いくつに見える?」  ぼくは数秒悩んで、言う。 「二一才」 「あ、すごい。当たった」 「本当?」  よかった。年齢より上に言ったら失礼だし、下に言っても下手したら怒り出す女の子がいることをぼくは知っていた。ぼくがほっとしていると、彼女は急に話を変えた。 「ご飯食べたの?」 「ああ、うん」 「そう」  メグミはそう言うと、ぼくとの会話は終わったという風に仲間達と話を始めた。ぼくは急に取り残された感じになったけど、すぐに隣の男から話しかけられてその方へ耳を傾ける。その男は黒澤映画について熱く語り始め、その場の数人がその話題に乗ってきた。ぼくもしばらく相槌を打ったり、たまに意見をのべたりしていて、そのうち手洗いに行きたくなってそっと席を立った。  ぼくが用を足してトイレから出てくると、トイレ前の通路にメグミが立っていた。彼女も手洗いに来たのかと思ったけど、どうもそんな雰囲気ではなかった。彼女はぼくに微笑みかけた。 「手、洗った?」 「うん」 「よかった。私、トイレに行って手を洗わない男って大っ嫌いなのよね」 「ちゃんと洗うよ、ぼくは」 「うん。じゃあ、行こっか」  そう言ってメグミはぼくの手を掴まえると、店の出口にぼくを引っぱって行く。 「ちょっと、待ってよ。行こうかって、何?」 「いいでしょう?消えちゃおうよ」 「え、でも」 「フェイド・アウト」 「あの、岡村が困るし」 「たまには困らせなさいよ」 「自分の分を払いもしないで行けないよ」 「大丈夫よ。今まで散々お財布になってたんだから、今日くらいみんな大目に見てくれるわ」 「そんなこと言っても」  メグミは店の外までぼくを引っぱり出してから、暗い道端で言った。 「イヤ?」  居酒屋の出入口から漏れるオレンジ色の明かりが、薄ぼんやりと、メグミの淋しそうで整った顔を映し出した。それを見るとぼくは否定することしか出来なくなった。 「嫌じゃないけど」 「じゃ、いいでしょう?」 「うん……」  ぼくは何に肯定したのかよく判らないまま、微笑むメグミに手を引っぱられた。  しばらく二人で手をつないだまま、夜の街を歩いていた。メグミは自分の大学の話や劇団の話などをしていたみたいだけど、それらはほとんどぼくの耳の左から入って理解を得ないまま右に流れていった。  ぼくの神経の大半はメグミとつないだ左手に集中していた。  ぼくは、大人の女の子と手をつなぐなんていうのは初めてだった。しかもそれはとてつもなく長い時間だった。しかも時間帯は夜中だ。本当はそろそろ帰らないと両親から叱られる時分だった。でもそんなこと言い出せなかったし、そんな子供っぽいことを言い出す雰囲気でないことくらいはぼくにも判った。 「ねえ、聞いてる?」 「へ?」  メグミは頬を膨らませる。ぼくは緊張する。 「芹沢くんの部屋がどこにあるのか聞いてるの」 「部屋?」  ぼくはどもりそうになるのを堪えて、頭を回転させた。それで、メグミはぼくが一人暮らしをしていると思っているらしいことに行き当たる。そうすると、ぼくは気まずい気分になった。 「あの、ぼく、実家に住んでるんだけど」 「え、ウソ」  メグミは立ち止まった。そしてぼくの顔を値踏みするように見つめ、言った。 「そうなんだ。知らなかった」 「うん」 「じゃあ、私のアパート来る?」  ぼくは即答できなかった。今、自分がどういう状況に立たされているのかが、正確に理解できなかった。この話の流れはどういうことだろう?彼女はぼくをどう思っているのだろう?このまま彼女の部屋に行ったら、何か特別な事態が待ち受けているのだろうか。  なんとなく、待ち受けているような気はする。  でも、それはあまりにも急で、陳腐で、あさはかで、ありえない展開のようにも感じた。  ぼくが言葉を言い淀んでいると、彼女はぼくの不安を払拭しようとするかのような明るい笑顔を見せた。 「私の部屋で飲みなおそうよ。ね」 「あ、うん」  ぼくは頭を掻く。 「でも、飲みなおすって言っても、ぼくは」 「缶ビール一つくらい飲めるでしょう?」  確かにそれくらいなら飲んだことはある。それでぼくが酔っ払うことはなかった。ぼくは悪い事だとは思いながらも頷いた。  それで、それから二人でコンビニエンスストアに寄って、酒や食べ物を仕入れ、彼女のアパートに向かった。  彼女の部屋は1Kで、玄関を入ったらいきなりそこがキッチンだった。キッチンと言うより、廊下に流しが取り付けてあるといった感じの狭さだ。外では美人で華やかにふるまってる女の子たちも、実生活では結構慎ましい生活をしているんだなと、ぼくは現実を肌で感じる。  それでも、そこにあったのは幻滅するような生活感というものではなかった。流しには洗っていない食器が溜まってるようなことはなく、こざっぱりと片付いて清潔感があった。外に出ている幾つかの調味料も行儀よく並べてあった。  その流しでメグミは手を洗うようにぼくに勧め、ぼくも彼女もそこで手を洗った。  そこを抜けて次の間へ続くドアを開けると、そこは広かった。十畳くらいの洋室だった。フローリングの床に直接ベッドが壁に寄せて置いてあった。大きな窓が一つあって、夜の見えるそこにメグミはカーテンを引く。それを見ていると、外界から隔離されたと感じて、ぼくはまた緊張し始めた。  ぼくはどうしてここに誘われたんだろう?  本当に飲みなおすためだけなのだろうか?  ぼくが所在無く立っていると、メグミはベッドの上にあったクッションの様な座布団を床に置いて座るように勧めてくれた。ぼくは部屋の真ん中にあったコタツ兼用と思われる小さなテーブルに買い物袋を置いて、勧められた座布団に座った。ぼくには初めて個人的に入り込んだ女の子の住まいを、じっくり観察するような余裕はなかった。ぼくは袋からビールや酎ハイやチョコレートを取り出して、その一つ一つの説明書きをいちいち目で読んだりしていた。読むそばから言葉の意味は失われた。  メグミは上着をハンガーにかけて、四角いテーブルのぼくのいる辺の隣の辺に手をついて座った。 「ビールがいい?」 「うん」  メグミはライムの酎ハイの缶を取ってプルタブを押し上げる。ぼくはビールを取って同じように開ける。メグミは「乾杯」と言って、ぼくの缶に自分のをかち合わせた。ぼくはビールを一口飲んだ。以前飲んだものよりそれは苦く感じた。喉が渇きすぎていたのか、種類の違いか、精神的な何かか。原因は判らない。  メグミは言った。 「ねえ、芹沢くん」 「なに?」  ぼくは出来るだけ平静を装っていた。ぼくは言いながらチョコレートの袋を開けた。買い物はぼくのお金でしたものなので、遠慮は要らなかった。 「テレビ見る?それとも音楽でも聴く?」 「そうだね」  ぼくはあまりテレビは見ない方だった。それに、気分的にもこの時はテレビという感じではなかった。ニュースだけの番組なら構わないけれど、番組予告やCMなどは危険な気がした。女の子と二人で見るには不適切な場面が、こちらの意思とは関係なしにいきなり飛び込んできそうだ。ぼくがどんな音楽を聴くの?と、聞こうとすると、彼女は待ちくたびれたのか新たな提案をする。 「映画もあるけど?」  彼女はチョコを一つ口に放り込んで、テレビ台の中から数枚のディスクを取り出す。彼女はそれを持って、今度は先程とは反対側の辺に座った。  映画は邦画と洋画とあった。有名なやつが五タイトルと、ぼくの知らないやつが一つだった。ぼくは知らないやつを取り上げてあらすじを読む。九十分のドイツ映画で、わりと面白そうな内容だった。でも、これを見ると言うことは、九十分はきっとこの部屋にいるという事なのだろう。ぼくはその点で悩んだ。するとメグミは、ディスクをぼくの手と一緒に手に取って見た。 「うん。これ面白いわよ。って言うか、私が面白いって思うのしかないんだけど」 「そりゃそうだよね」 「じゃあ、これ見よう」  メグミはそう言ってプレイヤーにディスクをセットした。字幕を日本語に設定して、映画は始まる。それだから画面を見ていないと内容は判らないのだが、メグミは特に映画を気にする風もなく、ぼくに近付いて話をした。 「芹沢くんってバイトしてるんでしょ?」 「うん」 「何してるの?」 「えっと、バーテンダーってことになるのかな」 「え?」  メグミはきょとんとぼくの顔を見る。 「お酒飲まないのに、バーテン?」 「バーテンダーはお酒を作る人で、飲む人はお客さんだから」 「そうだけど、なんだか不思議な感じ」 「そうかな。たまに味見はするよ」 「たまにしかしないの?」 「うん。大抵はマスターが味見して、合格したらお客さんに出すんだ」 「カクテル?一つ一つ合格しなきゃいけないの?」 「うん。マスターがそういうルールを作ったからね」 「そうなんだ。今現在、何種類くらいお客さんに出せるの?」 「十種類くらい」 「例えば?」  ぼくは少し考えてから答える。 「さっき君が飲んでたモスコー・ミュールとか、マティーニとか、ギムレット、マンハッタン。とりあえず、注文の多いやつから覚えてるんだけどね」 「へえ。芹沢くんが少し大人っぽく見えるのって、そういう仕事してるからなのかもしれないわね」 「大人っぽいの?ぼくが」 「うん。十八才には見えないわよ」 「ふうん。そうなんだ」 「あと二ヶ月で十九才だっけ?」 「うん」 「じゃあ、少し早いけど、おめでとう」  メグミはそう言うと、不意にぼくの口にキスをした。ぼくは顔の位置が瞬時に固定されて、離れたメグミの顔をそのままの状態で見つめた。メグミは悪びれずにニコリと笑っている。でもぼくが動かないので、不思議そうな表情になった。 「どうしたの?」 「え、いや、その」  ぼくは声を出せたけど、セリフを組み立てることはできなかった。 「びっくりした?」 「うん」 「そう」  納得したようにメグミはそう言って、再びぼくにキスをする。 「いや、だからさ、びっくりするじゃない」  ぼくは頑張って、頭に浮かんだ言葉を文章にして口から出した。 「そっか。びっくりさせちゃったんだ」 「そうだよ。びっくりするに決まってるよ」 「ごめんごめん。今度はびっくりしないようにするから」  言うと、メグミはまたぼくにキスをして、しかもそれは先刻の二回とは違って、すぐにはぼくを解放してくれなかった。ぼくはなんとなく逃げたくなって、体を後ろにそらせる。けど、すぐそこにはベッドがあって、ぼくはベッドを背もたれにしたままメグミにキスされていた。しばらくして、メグミがぼくから顔を離した。 「芹沢くん」 「な、に?」 「もしかして、女の子とキスするの初めてなの?」  もしかしても何も、手をつなぐのだって初めてでしたから。 「うん」  ぼくはそう言うのは少し恥ずかしい気がしたけど、本当のことだから仕方がなかった。 「なんだか意外だった。女の子達の間で噂してたのよ」 「え、何を?」 「芹沢くんって、きっとキスが上手いよねって」  下手でごめんなさい。と、言いそうになって、ぼくは慌てて違うことを言う。 「変な噂」 「本当ね。変な噂だわ」  それに、下手とか上手いとか、ぼくには判らないし。 「ねえ、芹沢くん」  メグミはぼくの胸に横顔をあてて言った。ぼくの心臓の音を確かめているのかと思って、少し怖かった。次に何かを言うのだろうと思って待っていたけど、メグミは言うのをあきらめた様にぼくの顔を見上げて、そして立ち上がった。ぼくの手を引いて。  一緒に立ったぼくの上着を、メグミは脱がせて床に落とした。そして、ぼくをベッドに誘導した。ぼくは情けないことに彼女のなすままに動いていた。だけど、横になったぼくに四度目のキスをしそうになったメグミを、ぼくは制止する事ができた。 「いや、だからね」 「なに?」  自分の肩を掴まえて焦っているぼくを、メグミは不思議そうに見ていた。 「君さ、ぼくのこと好きじゃないでしょう?」 「どうしてそう思うの?」 「君とまともに話をしたのは今日が初めてだし、それで劇的に君が恋に落ちるような気の利いたことを、ぼくはした覚えがないもの」  メグミは少しだけ眉をひそめた。 「私、芹沢くんのこと嫌いじゃないわよ」 「でも、好きじゃないでしょう」 「そう念を押されると疑問だけど、そうじゃないとダメなの?」 「ダ、ダメだよ。多分」 「そうか。なるほどね。判った」 「なに?」 「君は私が嫌いなんだね?」  芹沢くんから君に代わって、ぼくは急に十才分くらいの年齢を、彼女に奪われたような気になった。その分は彼女に上乗せされた。 「嫌いじゃないけど」 「けど、好きじゃないんだね?」 「だって、好きになる暇もないくらい急な展開じゃないかな、これは」 「そうでもないと思うけど」 「いや、ぼくは根がのんびりしてるんだ。これは混乱するよ」 「心は混乱してても、体は正直みたいよ」  彼女はぼくの体に寄り添っていたので、まあ、なんとなくそれも判ったんだと思う。なんとなくというか、確かに。 「仕方ないよ、それは」 「そうね。……私、可愛くない?」  彼女は急に、奪った年齢をぼくにつき返すように可愛い声を出した。奪った分より余計に返してきたかもしれない。それくらい可愛くて、淋しそうな声だった。 「君は、可愛いよ」 「それなのに、嫌なんだ」 「嫌って言うか……」 「結局は、そう言うことでしょう?」  ぼくはとりあえず深呼吸をした。  そうやっておいて、頭を整理する。  ぼくは彼女を嫌ってはいない。友人としては何の問題もなく付き合える人だと思う。彼女となんらかの関係に陥ることがすごく嫌だという訳でもない。でも、今ここには恋愛感情は存在しないし、なんだかこんなに急な、成り行きみたいな事情でそうなることには抵抗があった。そう思うのはぼくの個性で、もうそれは、どうしようもないことだ。  ぼくは彼女に何と言って現状から逃れようかと考える。そして言う。 「つまり、こういうのってある意味危険でしょう?」 「なにが?」 「ぼくがさ、病気でも持ってたらどうするの?君、困るでしょう。命に関わるものかもしれないよ」 「病気なの?」 「いや、多分大丈夫だと思うけど。でも、そういう事もお互いに何も知らないのに、急にこういう事っていうのは、非常に危険な行為だと」 「理屈っぽいのね、芹沢くん」 「でも、間違ってはないでしょう」 「うん。確かに間違ってない。そんな事を生真面目に説明する男の人は初めて見たわ」 「そうなの?世の中ってそんなに刹那的なんだ」 「……違うと思うわ。みんなバカなだけよ」  メグミはぼくから体を離して、その場にちょこんと座ってぼくを見下ろす。ぼくは横たわったままで、なんだか間抜けだなと思う。彼女は興味をなくしたような、つまらなそうな表情になっていた。 「でもそれって、ここにコンドームがあればいいって話でもないんでしょう?」  ぼくは一つ息を飲んだ。女の子の口から避妊兼感染予防具の具体的な名称を聞いたのは初めてだったので、少し驚いた。  ぼくは言った。 「うん、多分」 「おまけにあなたは、私のことをやっぱり嫌ってるみたいね」 「嫌ってはないんだけど……」 「生理的に嫌いなのよ。私のこと遊び人だと思ってるでしょう」 「よく判らない。少なくとも、男の扱いに慣れてそうには見える」  メグミはぼくを睨みつけた。 「失礼ね」 「ごめん」 「私、誰でもいいなんて思ってる訳じゃないし、誰でもこんな風に自分の家に連れてきたりする訳でもないわ」 「ごめん」 「病気だって持ってないわよ。去年保健所で調べてもらって陰性だったし、その頃から今日まで誰とも何もしてないし、おかしな症状だって何もないもの」  話しているうちに、メグミの目が潤んできた。ぼくはひどく罪悪感を覚えて体を起こした。メグミの前に座り、それでも「ごめん」と繰り返すしかできなかった。 「何でこんな事話さなきゃいけないの?私、そんなにバカな女の子に見えたの?見境なく男をあさってるように見えたの?」 「そんなことないよ。ただ、ぼくは、こういうの初めてだし、速い展開についていけるほど気の利いた男じゃないんだ。君が悪いんじゃなくて、ぼくがとろいだけで、だから、ごめん」  メグミは涙を指で拭って、ぼくを見つめた。 「じゃあ、生理的に私のことを嫌ってるんじゃないのね?汚らわしいとか思ってないのね?」 「うん。思ってないよ。でも、どうして君は、ぼくをここに呼んだの?ついてきておいて言うのもなんだけど、やっぱり、それほど良い事だったようには思えないよ。もしぼくが岡村だったら、多分君は無事じゃなかったと思うし」 「やめてよ。私、岡村くんなんか誘わないわ」 「そうか。ごめん」 「好きだったのよ。もちろん好きで好きで堪らなかったって言うわけじゃないわ。あなたが言った通り、あなたとちゃんと話をしたのは今日が初めてだもの。でも、前から少し気になってて、今日話しをして、楽しかったし、やっぱり少し好きだと思ったから。でも……、やっぱり私がバカだったのね。あなたと話してると、私、自分がすごく軽い女に思えてきたわ」  ぼくには軽い女の基準が判らないので、なんとも返事の仕様がなかった。 「でも私、本当に遊んでなんかないのよ。今までに付き合った男の人は一人だけよ」 「うん。判った」  ぼくが言うと、メグミはぼくの方へにじり寄って、ぼくの胸に顔をつけた。 「えっと……」 「少しこうしてていい?」 「あ、うん」 「もしよかったら、軽くでいいから、抱きしめてくれる?」 「え、うん」  ぼくは言われた通りにした。それは、彼女を図らずも傷付けてしまった事への謝罪として、当たり前だと思った。  それからいったい何がどうなったのか、ぼくには筋道だった説明をすることができない。  ぼくが目を覚ましたのはメグミのベッドの中だった。温かい布団に包まれて、顔を窓の方へ向けると、その隙間から朝の光がさわやかな雰囲気で差し込んでいた。外からは雀のさえずる声まで聞こえる。さーっと血の気が引いていく。  落ち着け。  ぼくは心の中で自分に言った。  落ち着いて、思い出すんだ。  ぼくは寝ぼけた頭で昨夜のことを思い出す。そして頭を両手で抱えた。ぼくはメグミが言ったセリフの断片をいくつか思い出しては、頭の中で復唱してみた。 「もう終電ないから、泊まっていけば?」 「気にしないで、私は平気だから」 「君も後でシャワー使っていいよ。体洗いたいでしょ?」  落ち着け。落ち着け。もしかしたら夢だったかもしれない。  ぼくは両手を顔にずらして、それからそっと布団の縁に持っていった。ゆっくり横を見る。メグミがすやすや眠っていた。すっぴんだけど可愛かった。化粧をしている時より、あどけない雰囲気が可愛かった。  夢じゃないじゃん。  ぼくはメグミを起こさないように気をつけながら、ベッドから外へ出る。  急に体が涼しくなって鳥肌が立った。ぼくはパンツとTシャツを着ていた。パンツは黒のボクサータイプで、Tシャツは薄いピンク色だった。その格好はなんだかとても軽薄で、ぼくは自分を残念に感じた。Tシャツはもちろんメグミの物で、一番大きいやつだと言って彼女が貸してくれたのだが、それでもぼくが着ると、少しぴちぴちな感じになっていた。  ぼくはそれを脱いで、できるだけスピーディーに、静かに、座布団の上に置いていた自分の服に着替える。上着だけはハンガーにかけて、長押に引っかけてあった。それを着てすっかり昨日のぼくに戻ると、少し落ち着きを取り戻した。  ほっとしてメグミの方を振り向くと、彼女は目を覚ましていて、こちらを横になったまま見上げていた。ぼくはびっくりして、一歩後ろに足を引く。メグミはくすりと笑う。 「おはよう」 「お、はよう」 「そんなにおどおどしなくていいのに」 「えっと、うん、そうだね」 「もう帰る?」 「うん」 「多分、今から駅に向かえば、始発がちょうど良い頃だと思うよ」 「そう。じゃあ、それに乗って帰るよ」 「うん」  メグミはベッドから降りてきた。彼女もぼくの寝ていた姿と大して変わらない格好をしていた。ただ、Tシャツではなく、キャミソールを着ていた。彼女はぼくの視線なんかにはまるで興味がないような素振りで、キッチンの方へ行ってしまった。ぼくはその後に続いて部屋を出る。彼女はコップにミネラルウォーターを注いで、ぼくにくれた。 「はい。のど渇いてない?」 「うん」  ぼくはその水をあっという間に飲んでしまった。思った以上にぼくの喉は渇いていたようで、胃に落ちる前に口内と食道で水分を全部吸収してしまったような気がした。 「ありがとう」  ぼくはメグミにコップを返して、玄関で靴を履く。  そしてメグミにまっすぐ体を向けた。  何かを言わなければならないような気がしたからだが、何を言っていいのか判らなかった。  それを見て、メグミが言った。 「昨日も言ったけど、気にしないで。誘ったのは私なんだし」 「……うん」 「これからも友達でいましょうね」 「うん」 「じゃ、気をつけて」 「うん。それじゃあ」  ぼくはメグミのアパートを出て、駅まで歩いて、切符売り場へ向かった。人は少なかったけど、それでも数人はホームで電車を待っている。  自動券売機の前に立ち、上着の内ポケットから財布を取り出す。大学の合格祝いに父から貰った革製の財布だ。折りたたみ式になっているそれを開いて、ぼくは「あ」と、声を出しそうになった。昨夜メグミと買い物をした時には、確かまだ数万円は入っていたはずだった。それが空になっていて、残っているのは小銭だけだった。  ぼくは十秒くらい目をつむって、開けると、カードではなく小銭を券売機のコイン投入口にいくつか入れて切符を買った。  始発電車に乗った。  人の少ない澄んだ空気の朝の街を、少しほうけた気分でぼくは帰宅した。
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