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〇
両親からは少し怒られたけど、思ったほどではなかった。それに比べて岡村はしばらくの間、恨みがましく文句を言っていた。同時刻にメグミもいなくなったので、何があったんだと聞かれたけれど、ぼくは答えなかった。ぼくは飲食代を出してくれていた友人に自分の分の代金は返したけど、岡村はしつこく彼女の事を聞いてくるので、奴の分は立て替えてやらなかった。
それからも岡村に誘われて飲みに行くことは相変わらずだった。だけど、その席にメグミの姿はなかった。それで余計に岡村はぼくと彼女の仲を勘ぐった。もちろん、ぼくは何も言わなかった。
ぼくは彼女に会いたいと思っていた訳ではなかった。
ぼくの気持ちは、彼女との間にそんな出来事があったからといって、恋愛には発展しなかったからだ。
ただ、少し心配だった。
彼女がいつも通りの顔でぼくの前に現れれば、ぼくの方も普通でいられたかもしれないけど、姿を見せないということに何か意味があるように感じた。
気にしないでと言った彼女の方が、もしかしたら気にしているのではないだろうか?
もしかしたら、結局ぼくは、彼女を傷付けたんじゃないだろうか?
そう思うと不安で、少し怖くも感じた。だから、メグミ以外の女の子に気持ちを向ける余裕もなかった。
消えた財布の中身のことは、実はそれほど気にならなかった。彼女がそれを取ったという証拠はない。もしかしたら買い物の時に落としたとも考えられる。その可能性は低い気はしたけど、もしメグミが取ったんだとしたら、それはそれでいいと思った。ずるい考えだと思う。ぼくはそれで少し、罪悪感から抜け出せる。でも、決定的ではない。それをメグミに確かめたい気持ちはあった。でも、聞く勇気がぼくにあるだろうか?もしメグミの仕業でなければ、さらに彼女を傷付けることになるのだから。
そんな気持ちなんか知らないだろうメグミが、ぼくの前に姿を現したのは、あの日から四ヶ月ほどたった頃だった。
木曜日の八時頃だった。
その日、ぼくはタカ叔父の店に出ていた。
店は居抜きで借り受けた半地下の物件だ。ビジネス街の駅に割合近いが、駅に向かうメインの道の一つ裏の通りに面しているために、家賃は割合抑えられている。天井は低くて狭い。でも、天井際にある窓のお陰で閉塞感は和らいで、換気の状態も悪くない。普段その窓は閉めているけど、半透明のガラスの向こうに外を歩く人の脚並みが見える。それはここを隠れ家のように演出してくれていて、とてもいい雰囲気だった。
少ない階段を降りた先に、木製の一見粗雑なドアがあり、それには店内が見えるように一部にガラスがはめ込まれている。覗き窓のその上に店名のプレートがぶら下がっている。店の名は「ヴォイド」。プレートには横文字で「V O I D」と書いてあって、その部分にスポットライトが当てられている。
中に入ると、もう隠れようのない、カウンターだけの狭い部屋だ。隠れ家の中で更に隠れる必要はない。この店に入った者はみんな、外界から身を隠すうさんくさい輩に見えた。脛に一も二も傷を持つような人間たちが。薄暗い照明に浮かんでいる。
カウンターの奥のバックバーには様々な酒が並んでいる。色形がちぐはぐなので、適当に置いているように思われるかもしれないが、タカ叔父はちゃんと種類ごとにそれを並べていた。主な照明はフットライトとカウンター真上の照明で、間接照明もいくつかあるが、バックバーに直接強い光が当たらないよう配慮もしている。棚の右端の一段にはディスクが沢山並んでいて、タカ叔父のその日の気分で選曲され、それが店に流れる。
この日は「THE BAND」のアルバムから三枚が選ばれて、それがエンドレスで流れ続けていた。
ドアから店内を覗く客に気付いたぼくは、いらっしゃいませと言う準備を心の中で整える。その客がメグミだということに気付いたのは、彼女がドアを開け、ぼくが「いらっしゃませ」と言った後だった。その後で、タカ叔父が「いらっしゃい」と言う。ぼくの様子を見て、「知り合い?」と目で聞いてきたので、ぼくは軽く頷いた。
空いてる席は二つあった。彼女は一人だった。彼女はぼくに近い左端のスツールに座った。この店に女の子が一人で来ることは珍しくなかったので、他のお客さんも取り立てて驚くことはなかったけど、美人だというのに気付いた何人かは、彼女を少し目で追っていた。
メグミが言った。
「こんばんは」
「うん。久し振り」
ぼくが言うと、メグミはニコリと笑った。
「ぼく、このお店教えたっけ?」
「名前は聞いたわよ。場所は岡村くんに聞いたの」
「岡村に?」
ぼくは口を歪めた。
「あいつ、何か変なこと言わなかった?」
「言ってた。何かあったの?って。私は何もって答えたけど、芹沢くんは?」
「ぼくも、何も、って言ったよ」
「そうなんだ」
今の返事は正解だろうか?
ぼくは少し不安になる。
友達に内緒にすることの方が嫌なことだったりするかな?
ぼくの不安は解消されないまま、時は過ぎる。
彼女は言う。
「実はね、芹沢くんにお願いがあって来たの」
ぼくは一瞬身構えた。ここに来てのお願いと言うことは、仲間たちには知られたくないと言うことじゃないだろうか?そういうお願いは、少し込み入っている事のような予感がした。
「なに?」
メグミは右手の人差し指をひょい、ひょい、と動かして、ぼくを呼ぶ。ぼくはメグミの口元に耳を近付けた。
「君、今日は、一段と色っぽいね」
ぼくは慌てて頭を上げる。タカ叔父がチラッとこっちを見たのが判ったけど、何も言わずにグラスを拭き続けた。彼女はおかしそうに笑っていた。ぼくは言う。
「なに?」
「仕事の時は、いつもそんな格好なの?」
ぼくは自分の格好を見る。白いシャツの袖をいくつかに折り曲げて、胸のボタンの上から二つを外している。胸のボタン外しはタカ叔父からの指示だった。下は何の変哲もない黒いズボンだった。ぼくはいつもこの格好でここに立っている。ちなみにタカ叔父の方は決まっていない。ジーンズ以外なら結構何でも着ていた。
「普通じゃない?」
「ううん。なんとなく大人っぽい。二十五才くらいに見える」
「それって、喜んでいいところ?」
「喜んでいいのよ」
「そうか。ありがとう。で、お願いってなに?」
メグミはもう一度同じ事をしてぼくを呼んだ。ぼくはまた耳を近付ける。
「百万円用意して欲しいの」
ぼくは、今度はゆっくり顔を上げた。彼女の顔を黙って見ていた。意味が判らなかったからだ。
百万円?
ぼくがしばらく固まっていたからか、タカ叔父はぼくに声をかけた。
「注文はなんだっけ。ブルー・ムーンだった?」
「あ、いや」
ぼくは何かに弾かれたようにタカ叔父を見て、そしてメグミを見た。
「何にする?奢るよ」
「うん、実はあまりお酒を飲みたい気分じゃないんだ」
「そうなの。じゃあ、アルコールの入ってないカクテル作ろうか」
「そういうのあるの?」
「うん」
ぼくがそう言うと、タカ叔父が言った。
「俺が作るよ」
「え、でも」
「お前は作れないだろうが」
確かに、ノンアルコールのカクテルはまだ作ったことがなかった。でも、レシピはあるし、ぼくは友人に出す分くらいならルールは無視してもいいかなと、少し軽く考えていたのだ。でも、タカ叔父、いや仕事中はマスターと呼んでいるからマスターと言おう。マスターは、ぼくのその軟弱を見抜いたようだった。
マスターは一度メグミに微笑を向けてから、オレンジジュースやパイナップルジュースなどを手際よくシェイカーに入れた。
「お前はオレンジとグレープフルーツをスライス」
「はい」
ぼくはカゴに盛られた果物の中からそれを選んで、ぺティーナイフで慎重にスライスする。そして、マスターがシェイカーを振っている音に紛れてメグミに言った。
「先刻の、あれ」
メグミはマスターがシェイカーを振る様を、少しうっとりした風情で見つめていた。
「よく、意味が判らないんだけど」
メグミはマスターを見たまま言った。
「判んなくてもいいの。頼んでるだけだから」
「でも」
「来週また来るから」
「え?」
「その時までにお願い」
「あの……」
マスターが手を止め、メグミはぼくを見る。
「いいの。ただ頼んでるだけだから。とりあえず、来週も来るわね」
マスターはオレンジ色のカクテルをゴブレットに注いだ。ぼくがスライスしたオレンジとグレープフルーツを飾って、それをメグミの前に差し出す。男の客に出す時よりも、幾分、気障な感じがした。
「どうぞ。プシー・キャットです」
メグミは嬉しそうに、可愛らしくグラスを口に運んだ。
最後の客が帰るのを、ぼくはドアで見送った。そしてドアを閉め、溜め息をついてスツールに腰かけた。カウンターに突っ伏する。それを見てタカ叔父が言う。
「お疲れさん」
「お疲れさまです」
顔を伏せたまま返事をした。
「なあ」
「はい?」
顔を上げると、カウンターの中のタカ伯父は怪訝そうな顔でぼくを見ていた。
「今日のあの仔猫ちゃんは誰だ?」
「ああ、彼女はその、友達です。岡村の劇団仲間」
「劇団員?ってことは女優?」
「そうなりますね」
「へえ。可愛い訳だな」
「それってどういう論理ですか?可愛いから女優?女優だから可愛い?そもそも役者は、」
「どうでもいいよ、そんなこと」
そうだな。どうだっていいや。
問題は意味不明な大金の請求宣言。
「あんな美人の女友達がお前にいたとは。なかなか隅に置けないな、お前も」
「美人でした?」
「うん。可愛い美人だった」
「そうですよね。やっぱり」
「めっちゃ俺好みやった」
冗談とも本気とも取れないそのセリフに、ぼくは複雑な気持ちでタカ叔父を見る。
「何だよ、その顔」
「別に」
「お前、もしかしてあの美人となんか関係あんのか?」
岡村相手なら何もないと言えるけど、なぜだかタカ叔父に対してはすぐにそう言えなかった。基本的にぼくはタカ叔父に弱いのだ。嘘もつけないし、ついたところで彼はすぐに見破ってしまうだろう。
「うわ、お前」
答えに詰まっていると、タカ叔父は大袈裟にぼくを軽蔑するように見る。
「やらしー」
ぼくはカウンターにうつ伏せになった。
なんとでも言っていいよ。
叔父さんには言われたくないって気はするけど。
「そうか、そうなのか」
タカ叔父はブツブツと独り言を言いながら、グラスを拭き始めたようだった。時々ガラスの触れ合う音がする。
「なんてこった、あのガキがあの美人と。腹立つなあ。羨ましいなあ」
タカ叔父はプレイヤーのスイッチを押して音楽を止めた。ぼくが顔を上げると、待っていたように聞く。
「で、今日は何のお願いされたんだよ」
「ああ」
どうしよう。こんな話、他に誰にも相談できないし。かといって、タカ叔父にはなあ……。
「なんだ?深刻な話か?」
「……うん」
「どうした?」
タカ叔父は珍しく真面目な顔になって、カウンターの中にある椅子に座った。
「言ってみろよ」
「うん。それが、ぼくにも訳が判らないんだけど」
「なんだ」
「来週までに百万用意しろって」
タカ叔父はやっぱり訳が判らなかったようで、とりあえずコケるフリをしてから言った。
「なにそれ?」
「だから、訳が判らないんだ」
「それ、俺に冗談言ってるんじゃなくて?」
「言ってるんじゃなくて。彼女がぼくに言ったの。本気みたいに」
タカ叔父は腕組みをする。
「銀行強盗?」
今度はぼくがコケるフリをしてやった。
「来週までにって、気長すぎ。しかも銀行じゃないし。どっちかと言えば誘拐犯みたいな」
「お前、彼女に余程酷いことしたとか」
「し、しないよ。してない、酷いことなんか」
「イイコトならしたのか。ックソ」
「ちょっと叔父さん、真面目に話してくれないかな」
「ああ、悪い。でも、何で百万なんだよ」
「だから判らないんだって」
「お前、百万持ってるのか?」
「ある訳ないでしょう。ぼくの収入源はこの店だけだよ」
「お前いい顔していろんな奴に驕ってるんだろう?金持ちと間違われたんじゃないのか」
「金持ちになら理由もなく百万円請求していいの?」
「うーん」
タカ叔父は左手で自分の顎をつまんだ。
「何で理由を聞かなかったんだよ?」
「だって、聞く暇なかったし、判らなくてもいいから、とりあえず頼んだわよ、みたいな」
「彼女の名前は知ってるのか?」
「高田メグミ」
「メグミちゃんは堅気の女か?」
「え……さあ。知らないよ、そんなことまで。でも変な噂は聞いたことないし、悪い人だとは思わないよ」
財布の話はしないことにした。確信のある話ではないから。
「意味の判らない大金を請求されてもそう思ってる?」
「……うん。何でこんなこと言うのか、それだけが不可解」
「ふうん。美少女の不可解な言動、か。いいねえ。神秘的だねえ」
「あのね、叔父さん」
「判ってるよ。真面目に考えてる。お前も考えろよ」
「うん」
ぼくらは、しばらく首を斜めに固定して考えていた。
そしてタカ叔父が先に言う。
「判った。お前が悩んでる理由が」
「え?」
「お前、金払う気でいるんだ」
「え、あ……」
「何悩んでるのかと思えば、百万をどうやって工面しようかって事だったんだ」
そうだ。自分でも気付くのが遅れてしまったけど、ぼくはもう、お金をどうしようかって考えている。
「知らん顔しててもいいような話なのにな」
「うん」
「彼女に惚れてるからか?」
ぼくは一瞬の後に、首を横に振った。
「ぼくと彼女はそういう間柄じゃないんだ。でも、彼女がそれをぼくにしか頼むことが出来なかったんだとしたら、ぼくはそうしてあげないといけないような気がする。そうじゃないと、彼女はとても困るんじゃないかな?理由は判らないけど」
「ふうん」
タカ叔父は腕組みを外して椅子から立ち上がる。
ロックグラスをカウンターに二つ置いて、アイスストッカーから取り出したこぶし大の氷を中に落とす。一つにはボウモア十二年を、一つには炭酸水を注いだ。当然ぼくに差し出されたのは、炭酸水の方。
タカ叔父は立ったまま一口飲んで、黙って炭酸の泡を見つめていたぼくに、それを飲めと顎で言った。ぼくは素直にグラスを取り、透明なオンザロックを飲んだ。
無糖の炭酸水は静かに舌の上ではじけて、なんとなくぼくを落ち着かせてくれた。
「お前、大事なことは自分で言わないと、誰も代わりに言ってくれねえよ。他人が何とかしてくれるなんて思うな」
ぼくはもう一口炭酸水を飲む。
「うん」
そう言ってから、タカ叔父の顔を見上げた。
「叔父さん、百万円貸して下さい」
「やだね」
間髪を入れない返事にぼくは面食らった。
タカ叔父はそのセリフをぼくに言わせようとしたんだとばかり思っていたからだ。でも、すぐに納得する。そもそもタカ叔父にこんな相談してもダメだろうなとは始めに思っていた。タカ叔父が人にお金を借りるところはよく見ていたけど、逆に金を貸す姿なんて、想像するのも難しい。
納得はしたけど、でもやはり残念だった。お金を貸してくれそうな人は、ぼくの周りに見当たらない。最悪、父に頼むか?それはちょっとな……。
ぼくが炭酸水を飲み干すのを見届けて、タカ叔父が言う。
「俺は人に金を貸すなんて御免だな」
散々自分は借りてたじゃん。
「金の貸し借りはトラブルの元だ。下手したら人死にが出る」
冗談で言ってるのか何なのか、ぼくにはよく判らなかった。それでぼくが溜め息をつきそうになった時、タカ叔父は意外な発言をした。
「百万はお前にやるよ」
え?と、声に出そうとした直前に吸った息が、口内の水分を気道にわずかに押し込んだ。お陰でぼくは激しくむせてしまった。ぼくが咳き込んで苦しんでいる最中に、タカ叔父が「何そのリアクション。失敬な」と、言うのが聞こえた。
ぼくはしばらくの苦闘の後、喉の状態をやっと回復させて、タカ叔父を見る。
「タカ叔父」
「必要なら仕方ないだろう」
「でも、叔父さん、百万円なんか持ってるの?」
タカ叔父は急に表情を強張らせた。
「てめえ、人をなめとんのか、コラ。お前みたいなガキと同レベルで見てんじゃねえよ。百万くらいあるに決まってるだろうが」
「だって、くれるって事は、百万円をなくしてもまだ余裕があるってことじゃないの?そうじゃないと困るでしょう?」
「だから、君ね、叔父さんを何だと思ってんの?一応、自立した大人なんですけど」
へえ。
とは、声に出さなかった。見直しちゃった。なんてセリフも飲み込む。
「お前、相当俺のことバカにしてたんだな」
「そんなことないよ。ぼくは叔父さんのこと大好きだよ。ただ」
「ただ?」
「お金持ちには見えなかったけど」
「お前の基準が判らないよ。別に俺は金持ちじゃねえし、百万をはした金だとも思っちゃいないからな」
「じゃあ、どうしてくれるの?」
「貸すのが嫌だから」
「ふうん」
ぼくが微笑むと、タカ叔父はグラスを流しに置いて「お前洗え」と、ぼくに命令した。ぼくはタカ叔父と場所を交代して、グラスを洗う。
「明日、銀行からおろしてきてやるよ」
「うん。ありがとう」
ぼくはちゃんとした社会人になって貯金が出来たら、真っ先にタカ叔父に百万円を返そうと思った。
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