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翌週の木曜日に、メグミは予言通り店に現れた。
ドアの向こうで顔を覗かせている。あいにく満席だった。ぼくはタカ叔父と約束済みの行動に出る。メグミが来た時に席がなかったら、ぼくは外に出ていいことになっていた。
ぼくは一旦、ドアを開けて外に出た。
「ごめん。満席なんだ」
「そうみたいね」
「ちょっと待ってて」
「え、うん」
ぼくは店に戻り、カウンター裏にある事務室に入った。金庫の中からタカ叔父からもらっていた封筒入りの百万円を取り出して、自分のリュックに入れる。金庫を閉めて、事務室のドアを閉めて、メグミの元に戻った。
「行こうか」
「えっと……。うん」
メグミはぼくの行動が予想外だったのか、少し戸惑っているようだった。階段を昇り、通りを二人で歩く。
ぼくは聞いた。
「お酒飲みたかった?」
「ううん。そうじゃないの。芹沢くんがあんまり当たり前みたいな顔して出てきてくれたから、少し驚いただけよ」
「そうか」
「私のお願い聞いてくれたの?」
「うん」
「どうして?」
ぼくはメグミを見た。
「どうしてって、そうして欲しいんでしょう?」
「でも、理由も聞かずによくそんな気になったわね」
自分が頼んだくせに。
「理由は聞きたいよ、ぼくだって。教えてくれるの?」
「ううん。教えてあげない」
「そうか。それで、ぼく以外には頼めないことだったの?」
「うん」
「何か危険なことでもしてるの?」
「多分、大丈夫よ」
「多分って……」
「大丈夫よ。心配しないで。ありがとう」
ぼくは理由を聞くことをあきらめた。
「もうこのまま帰るの?」
「うん。そうする」
「ここからだと、バス?」
「うん」
「バス停まで送るよ」
「いいの?お店」
「うん。ちゃんと断ってきてるから大丈夫」
「ありがとう」
ぼくはリュックから封筒を取り出した。銀行の封筒じゃなくて、茶色い無地の事務用封筒だ。銀行のだと、なんとなく生々しくて嫌な感じがしたので、ぼくが入れ替えた。彼女は受け取ると、深緑のトートバックにそれをしまった。そしてもう一度、「ありがとう」と言った。
「確認しておきたいんだけど」
「なに?」
「それ、悪いことに使ったりしないよね?」
「悪いこと?」
メグミは笑った。
「使わないよ」
「それならいいんだけど」
「でも、これ、遠慮なく貰っちゃうよ、私」
「うん」
「返す気なんて全然ないから」
「いいよ。返してもらえるとは思ってないから」
「私ね」
「うん」
「本当は、少し後悔してるの」
ぼくは黙って彼女の話を聞いた。
「後悔しないように生きていくって、難しいのね」
ぼくはやっぱり黙っていた。何についての話なのか、ぼくには判らなかった。バス停に辿り着くと、彼女は聞いた。
「ねえ、芹沢くん」
「なに?」
「下の名前、なんて言うの?」
「あれ、言ってなかったっけ?」
「うん。知らない」
「忠成」
「ただなり?」
「忠誠から、言偏を取るの」
「ふうん。忠成ねえ。なんだか古めかしい名前ね」
「両親が時代劇好きで、それっぽい名前をつけられたんだ」
「へえ。良かったわね、鴨なんて付けられなくて」
ぼくは笑った。
「うん。それ、時々言われるんだ。本当に良かったよ。ぼく、あの人嫌いだから」
「私も嫌い。芹沢鴨なんて、女の敵よね」
「そうだね」
「あなたとは大違いだわ」
ぼくは少しどきっとしながら答える。
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
バスが来て、彼女はその方へ歩み寄った。
「気をつけて帰ってね」
「うん。ありがとう」
昇降口のステップに足をかけた彼女は、振り向いて最後にぼくを見る。
そして微笑んだ。
「私、本当に思ってるんだけど」
「なに?」
「君で良かったよ」
彼女はステップを上り、ドアは閉められた。
窓の向こうで手を振る彼女に、ぼくは手を振り返す。
何が良かったんだろう?
ぼくは考えながら、店に戻った。
それから何ヶ月か経って、ぼくは大学二年生になっていた。そして、初夏のさわやかな季節に、岡村からメグミの話を聞いた。休学届けを出して、大学を休んでいるらしいという話だった。
学内のレストランで、岡村に昼飯を食べさせてやっている時だった。
「どうして?」
「知らない。最近は劇団の方もさっぱりだったみたいでさ、こないだふらっとやって来て、止めるって」
「止めたの?劇団を?」
「うん。その時の話で、大学も休んでるって言ってたらしいよ」
「理由は?」
「知らない」
彼女に何があったんだろうか。とても不安な気分だった。
「お前らさあ、会ってんじゃないの?」
「ぼくと彼女が?会ってないよ」
「そう。まあ、知らなかったんなら、そうだろうな」
「何があったんだろう」
「さあ。でも退学した訳じゃないから、戻ってくる気はあるんじゃないの」
「そうか」
「旅行にでも行くのかな」
「旅行?」
「ほら、いたじゃん去年、そういう奴がよ」
言われてぼくは、去年の出来事を振り返ってみる。旅行、あるいは旅をキーワードに思い浮かべていると、思い当たる出来事が一つ出てきた。
「原口か」
「そうそう、原口。そんな名前だったよ。よく覚えてたな」
原口と言うのはぼくと同じ学部の生徒で、そこそこ仲良くしていた男だったけど、ある日突然「俺は旅に出る」とか言って、海外に旅立ってしまった。何分入学して何ヶ月も経たないうちの話だったので、みんな少し彼のことを忘れかけている。彼はまだ出てったきりで戻っていないようだったけど、音沙汰もないのでどうなっているのか知らない。
だけど、メグミがそんな風にいきなりバックパッカーになったとは思えなかった。あの百万円がその資金だったとも、ちょっと考えられない。その考えはあまり現実的なものに思えなかった。どうせなら、その金を利用して海外留学をしている、という方が納得できる。彼女があの金を欲しがった理由は、そんな風に現実的で、しかも堅実なことのような気がしていたからだ。
でも、学校を休んでるって言うのは、思っていたような堅実さからは離れていた。ぼくが渡したお金のせいで、彼女の道が悪い方に歪んでしまったとしたらどうしよう。
「そこまで心配する必要ないんじゃないか」
タカ叔父が言う。開店前の準備中だった。
「うん」
ぼくはモップで床を磨きながら頷く。
「そうは思うけどね。やっぱり、ちゃんと理由を聞いておかないといけなかったんじゃないかって」
「教えてあげないって言われたんだろ」
「うん」
「自分の女でもないのに何でそこまで心配するかね。俺から見たら、お前なんて、あの仔猫ちゃんに良いように利用されてるだけだよ」
「そうだよね」
「惚れてないんだろう?」
「うん。そういうのとは違う」
タカ叔父はバックバーに並んでいるボトルを一つ一つ布で拭いていた。メグミとぼくの間柄は、偶に自然を装って聞かれ、ぼくは少しそれに答えていたので、タカ叔父には大体のことは知られている。
「あんな可愛いのに、なんでかねえ」
「タカ叔父は、可愛いから好きになるの?」
「あの仔猫ちゃんは、その可愛さを奪うくらい性格が悪かったのか?」
「いや、そうじゃないけど」
タカ叔父はボトルを拭き終わり、こちらを振り向いてニヤッといやらしく笑った。
「彼女に感謝してるから?」
ぼくは恥ずかしくなって唇を噛んだ。それは少し、嫌な言い方だった。
「違うよ」
彼女がぼくに感謝されたいなんてことは、絶対に思っていないだろうという気がしていた。もしぼくがそんなことを言えば、そんなことの為に相手をしてやった訳じゃないと、彼女はそう言って怒り出すような気がする。
「違うの?俺、感謝したけどなあ」
「叔父さんの初体験なんかに興味ないよ」
「こいつ、人の大事な思い出を」
「知らないよ、もういいからそんな話は」
「じゃあなんでだよ?」
ぼくはモップの柄を額にあてて、しばらく考えてから顔を上げた。
「罪悪感」
タカ叔父はぽりぽりと左手人差し指で頬を掻いた。
「彼女が誘ったのに?」
「でもやっぱり、悪いことした気がする。ぼくは彼女に、恋してたわけじゃないもの」
「あんな可愛い子に迫られたんじゃあねえ……。まあ、お前がそう感じるなら仕方ないよな」
「ねえ」
「ん?」
「タカ叔父は、好きじゃない人とでも、そういうことするの?」
タカ叔父は一瞬、視線を床に落として、それから布巾を洗ってカウンターを拭き始めた。そうしながら、言いにくそうに言う。
「つまり、時と場合によるんじゃないか」
「そうなの?そうか」
ぼくの声は、自分でも思いがけないくらいガッカリした感じになっていた。タカ叔父はそんなぼくを、細めた目で見る。気まずそうな表情だった。
「なんだよ」
「いや、なんか、叔父さんって、そういうところは真面目な人だろうって思ってたから」
「わ、悪かったな。って、別に不真面目だって言ってるわけじゃないぞ」
「じゃあ、なんなの?」
「だ、だから、その時々で事情が……。クソ、何でこんな話、他人にしなきゃいけないんだよ」
「いいじゃない。可愛い甥っ子でしょう」
「可愛いかねえよ」
「どういう事情があるのさ」
ぼくが食らい付くと、タカ叔父は布巾を流しの脇に置いてから言った。
「お前と同じだよ。美人に迫られたら、断るのは至難の業だ」
「え、それって……」
自慢?
「なあ、俺にそんなこと聞くなよ。こういうのはアホな男友達とやる会話だろう」
「アホな友達のじゃ参考にならないもん。大体、先に話を振ったのはタカ叔父の方だよ」
「振ってねえよ。それに先刻、興味ないって言ったじゃねえか」
「昔の話しはいいの。ぼくが聞きたいのは今の話」
「やだね」
「ダメだよそんなの。自分のことは話さないなんてずるいでしょう。真面目に話してよ。じゃあ、基本的に叔父さんは、ちゃんと好きになった人としかしないの?それで偶に美人に迫られて過ちをおかすわけ?」
「ああ、ああ、ああ。そうだよ。悪かったね」
タカ叔父はぶっきらぼうにそう言った。
「ぼく、まだ責めてないよ」
「まだって、責める気だったのかよ」
「判らないけど……。でも、良いことじゃないよね、きっと、それ」
叔父さんは暗い声で言った。
「うるせえな、ったく。さっさと掃除しろよ」
ぼくは仕方なくモップを動かし、ドアから外に出た。ドア前のスペースにゴミを集めて、用意していたホウキで店先と階段を掃き、まとめて塵取りにそれを入れる。ゴミを持って店に戻ると、タカ叔父は棚から音楽を選び出していた。今日はなんだか荒れた雰囲気の選曲になりそうだなと思っていたら、意外にも流れてきたのは女の人の声だった。ぼくも大好きなリンダ・ロンシュタットの声だ。
ぼくは怒られそうな気がしたけど、思い切って聞いてみる。
「叔父さん、今は恋人いないの?」
「いねえよ」
即答だった。
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