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ぼくはタカ叔父のマンションの部屋の前に来ていた。
まだ二時前だ。多分、タカ叔父は家にいるだろう。ベビーカーを少し脇によけて置いて、チャイムを鳴らす。カメラ付きのものなので、ぼくはちょうど良く映る程度の場所に自分の顔を持っていく。ここのカメラはあまり近付くと、間抜けに間延びした顔に映ってしまうのを知っていた。
しばらくして、鍵を開ける音がして、ドアを開けてタカ叔父が顔を出した。
「どうしたん?」
驚いている。そりゃそうだろう。予告なしに来たのは初めてだった。
ドアを半分くらいしか開けられなかったけど、タカ叔父の格好は判った。黒いジーンズに、上半身は裸だった。締まった腹筋が見えてる。髪はボサボサで、たった今吸っていたようなタバコの強い匂いがした。ぼくは変な予感がして、三和土に目を落とす。派手な色のパンプスが見えた。ぼくがタカ叔父の顔に目を戻すと、タカ叔父も下を見ていて、遅れてぼくの目に視線を合わせた。
「なんか、急ぎの用?」
「うん。できれば」
「そうか」
タカ叔父はクシャクシャっと髪を掻きまわし、「ちょっと待ってろ」と言ってドアを閉めた。
ぼくはちょっと待っていた。
すると、大分待ってから、長い髪のお姉さんが先刻のパンプスを履いて、不機嫌な顔でそこから出てきた。そしてドアを閉め、ぼくとベビーカーを不機嫌に睨んで、不機嫌そうにゆっくり歩いてエレベーターホールに消えた。それから少しして、ドアがそっと開いた。さっきよりもコッソリした感じで、タカ叔父は顔を出す。
「行った?」
「うん。行っちゃった」
ふうっと息を吐いて、タカ叔父はドアを大胆に開ける。白いTシャツを上に着ていた。
「どうぞ。なんなの?用って」
「うん。ごめん」
一応、謝る。
「別にいい……」
タカ叔父はベビーカーに目をとめ、言葉を止める。
「なに、それ」
「うん」
ぼくはベビーカーを引っぱって、ドアの前に持ってくると、「いい?」と、聞いた。中に入ってもいいかと言う意味で。
「いやいや」
タカ叔父は固まった表情で、小刻みに首を振った。
「意味判らんし」
確かに意味が判っていないようだった。
ぼくはその日の出来事を話した。その途中で赤ちゃんは目を覚まし、泣き出した。ぼくらは慌てて、とりあえず手を洗った。それからベビーカーの底に荷物入れがあることに気付いて、中に入っていたものを全部部屋に広げた。そこには哺乳瓶と、粉ミルクの小さな缶と、幾つかの紙オムツと、赤ちゃん用ウェットティッシュと、タオルと、育児書が一冊入っていた。タカ叔父は一応赤ちゃんを抱いたことはあるらしかったけど、それでも少し怯えた風に慎重に赤ちゃんを抱き上げた。特に首元には気を使っていた。タカ叔父は赤ちゃんを抱えてベッドに座り、その間にぼくは本を読んだ。
「首がまだ据わってないんだ」
「判ってるよ、それくらい」
「何で判るの?」
「いいからさ、もっと実用的な部分を読めよ。ミルクの作り方とか」
「え、缶に書いてあるんじゃない?」
「判ってるんなら読めよ。って言うか作れよ」
「うん」
タカ叔父は怯えてはいたけど慌ててはいない様子だった。ただぼくの不手際には苛立っていた。でもぼくは赤ちゃんが大きく泣く度に心臓が痛くなって、とても落ち着いてはいられない。
「もういい」
タカ叔父は赤ちゃんをベッドに寝かせて、ぼくからミルクの缶を奪い取った。
「お前は子供を見てろ」
「う、うん」
「紙オムツを確かめろ。替えなきゃいけないかもしれないから」
「え、替え方判んないよ」
「本かオムツの包装紙を読めよ。バカかお前は。俺だってそんなの替えたことねえよ、ボケ」
いつもより口が悪くなってる気がした。ぼくはオムツの入っていた袋にあった説明書きを読んだ。紙オムツに付いているラインの色が変わったら取り替える事になっているらしい。目印のラインはぼくに、オムツをさっさと替えやがれと指示を出していた。ぼくは説明されている通りにする。本もオムツの替え方のページを広げた。ぼくは命令通りに作業を進める。そうしながらキッチンのタカ叔父に言う。
「どうしよう」
「なんだよ、いちいち煩せえな」
タカ叔父は今ばかりはお酒でなくミルクをシェイクしている。
「女の子だよ」
「バカ。ピンク色着てたら大体判るだろう。生まれながらのジェンダーベンダーか」
「服着せたのは親だし、そういうのを嫌う人が親だったら」
「黙って仕事しろよ、お前。メグミちゃんはそういう人だったのかよ?そうは見えなかったけどな」
「ねえ、喋らせてよ。なんか話してたいんだよ」
タカ叔父がキッチンから戻ってきた。哺乳瓶を頬っぺたに当てたりしている。ぼくを見て、仕方ないなという風に言う。
「判ったよ。じゃあ、続きを話せ。どうして認めたんだ?」
ぼくは赤ちゃんの服を元通りにして、オムツを丸めて、言う。
「ゴミ箱に捨てていい?これ」
「ああ、いいよ。手洗ってこい」
「うん」
ぼくは洗面所で手を洗って戻ってきた。タカ叔父は床に胡坐で座って、本に目を通していた。ぼくにそのページを見せて言った。ミルクの飲ませ方。
「ほら、お前飲ませろ」
「怖いよ」
「お前の子供だろう」
「そんなのまだ判らないよ」
「バーカ。認めて預かってきといて何言ってんだよ、ほら」
タカ叔父はぼくに哺乳瓶を押しつけて言う。
「少なくとも俺の子供じゃないもん」
確かに。
ぼくは本を読んで、ページを開いたまま赤ちゃんを抱えようとしたけど、首の据わっていない赤ちゃんを抱えるのはどうしても怖かった。
「あ、いいこと考えた」
「なんだよ。ほら、ミルク欲しがってるぞ」
「こうすればいいんだ」
ぼくはタカ叔父の幅広ベッドに枕やシーツを集めて、赤ちゃんが気持ちよくミルクを飲めそうな角度を作って赤ちゃんを寝かせた。それを見ていたタカ叔父は少し複雑な顔をしていた。ぼくは聞く。
「なに?ダメ?」
「いや……別にいいんだけど」
タカ叔父は口を片手で覆って、目をベッドからそらせた。ぼくは先刻出て行った女の人が頭に浮かんだ。
気にしないことにして、哺乳瓶を富士山みたいな形の小さな口に近付けると、赤ちゃんは面白いようにそれを飲んだ。
「お腹空いてたんだ」
「みたいだな。で、それ飲んだらどっちにしろお前、抱えなきゃならねえからな」
「え、なんで?」
「書いてあるだろうが、ゲップさせろって」
「え、そんな、どうやるの?」
「読めよ」
言ってタカ叔父は立ち上がる。
「何処いくの?」
「コーヒー飲む」
「待ってよ、ちょっと」
「自分でやれよ。自分が預かったんだろう」
タカ叔父はキッチンへ行ってしまった。赤ちゃんはあと一口くらい、という所で飲むのをやめる。哺乳瓶を口に近付けても、うっとうしそうによける。ぼくは本の図Ⅲのイラストを見ながら赤ちゃんをそっと抱え上げた。
しばらくして、ぼくはキッチンに向かって叫ぶ。
「タカ叔父っ」
「なんだよ」
面倒臭そうな声が返ってくる。
「赤ちゃんがミルク吐いた」
「自分で何とかしろ。タオルあっただろう」
「どうしよう、鼻からも出てる」
「知るかよ……」
そう言いながらも、タカ叔父はマグカップを片手に戻ってきてくれた。
赤ちゃんは眠って、タカ叔父のベッドに横になっている。ぼくはベッドに腰かけ、タカ叔父はシャワーを浴びて、髪を拭きながら戻ってきた。そしてベッド脇の床に座る。
「それで?なんで認めたんだ」
ぼくは一つ息をついてから言った、
「相手は彼女の友達だったんだよ。彼女が嘘をついたなんて判ったら、友達との仲がこじれるんじゃないかな」
「お前が心配するところか、それは」
「でも彼女は、ぼくには話をしてあるとまで言ったんだよ。まるで本当の事みたいに」
「お前が結婚してくれないと泣きながらね」
「うん。そんな冗談にもならない嘘をついて、友達を騙したんだよ。もしぼくが、全部でたらめだなんて言ったら、彼女、きっともう友達には会えないよ」
「自分がついた嘘じゃないか」
「でも」
「でもも何もないよ。まあ、それはいいや。それで、お前、どうする気だよ」
「考えたんだけど、やっぱり、彼女に会って、確かめようと思う」
「それしかないよな」
タカ叔父は赤ちゃんを見た。
「自分の子供だと思うか?」
「うん。それまで嘘ではない気がする。でもね、実感はないんだ。自分の子供だろうとは思っても、ぴんと来ない」
「ふうん。しかし、まあ、すごい的中率だったな」
「そんなこと言わないでよ」
「彼女としたのは一回だけなのか?」
「え、その、どういう意味?」
「……悪い。答えやすく聞かなきゃな。俺に話したその時だけなのか、彼女に会って、そういう事したのは」
「うん」
「ふうん。たった一度の逢瀬で子供が出来るとはねえ、運命だねえ」
タカ叔父は少し呑気な口調で、少し芝居がかった風に言った。
「真面目に話してる?」
「真面目だよ。しかし、赤ちゃんがいるとタバコも吸えないな」
タカ叔父はベッド横の窓にある机の方を、少し首を伸ばして見た。その壁一面に沿って細めの長い机が置いてある。壁に取り付けたカウンターのような感じになっている。机の上には筆記用具や本やノートなどが置いてあって、目覚まし時計もそこにあった。タカ叔父はその時計を確認したみたいだった。まだ四時にはなっていなかった。店に行くにしても、多分ここを出るのは四時半くらいだと思う。ぼくは言う。
「お店はまだでしょう?」
「ああ。先刻電話したんだ、赤ちゃんの世話が出来そうな人に」
「女の人?」
「ああ。お前、今日は連れて帰る気ないだろう?」
「そんな事ないよ。タカ叔父が出て行けって言ったら、仕方ないから」
「今から兄貴達に話をしても、まず、まともな説明は出来ないだろうな。当のお前が状況を理解してないんだから」
「うん、まあ……」
「自分の息子が結婚もせずに十九で子供を作ったなんて、ショックだろうなあ」
出来るだけ先刻からぼくは両親の顔を思い浮かべないようにしていた。それが急に二人の顔が頭に現れる。顔面蒼白の。
「しかも、それがお前だなんて」
「……追い込まないでよ」
ぼくは話を変える。
「あの、赤ちゃんの世話をしてくれるように頼んでくれたの?」
「ああ。店休む訳にはいかないよ。四時頃までに来るって言ってたから、もうそろそろ来るだろう」
「どういう人?恋人?」
「残念でした。友達だよ」
「本当に?単なる?」
「純粋に友達。このマンションに住んでるんだ。自宅で仕事してる人だし、昔、赤ちゃんのいる恋人と暮らしてたみたいだから」
「へえ。なんて名前?」
「ハルカ。彼女が来たら、お前はメグミちゃんを探しに行け」
「え、お店は?」
「遅れていいから。とにかくアパートを見に行け」
「うん。そうだよね。判った」
「言っとくけど、いつまでも面倒見てやる気はないからな」
「うん。でも、彼女が見つかるまで……」
「期限を切れ」
「期限……」
「俺だって迷惑なんだよ」
「……三日。ダメ?三日彼女を探して、それでもし見つからなくても、ここから引き上げる。家に帰る。お父さんとお母さんに頭を下げる。それじゃダメかな?」
「三日かあ。長いなあ。ま、いいや。判った」
タカ叔父は耳を掻きながら言う。
「この子の戸籍がどうなってるかとか、ちゃんと具体的なこと確かめるんだぞ」
「うん。判った」
ちょうど四時頃に、部屋のチャイムが鳴った。ドアフォンの画像を確かめると、「アッカンベー」をしている長いストレートヘアのお姉さんが立っていた。
「面白い人だね」
「うん。結構厳しいけどね」
ぼくは首をひねって、二人で玄関に行き、ドアを開ける。入ってきたお姉さんは細身のTシャツにジーンズ姿だった。可愛い人だったけどすっぴんで、ソバカスが少しあった。
ハルカさんは多少乱暴な口調で言う。
「何で赤ちゃんがいるの。あんたの?」
「親戚の子供。訳あって三日ばかり預かることになってさ」
「ふーん。その可愛い子は誰?隠し子?」
両手を腰に当て、別段面白くもなさそうに、ぼくを見て言った。
「甥っ子。中、入ってよ」
「うん。君、高校生?」
ハルカさんは靴を脱ぎながらそう聞いた。ぼくは人によって年齢の見方って変わるものなんだなと思った。最近は年上に見られることが多かったので、高校生と言われるのは新鮮な雰囲気だった。
「いえ、大学二年生です」
「そう。お肌ピチピチね。羨ましい」
歩きながらハルカさんは、ぼくの頬を指で一撫でする。ぼくは少し恥ずかしくなって、その頬を擦った。タカ叔父はそれを見て無言で笑っていた。ベッドの前に来て、ハルカさんは言う。
「ちっちゃいなあ。何ヶ月単位じゃないじゃん。何週間なの?」
「いや、詳しいことは聞いてないんだけどね」
「あ、そう。オムツとかちゃんとあんの?」
「いや、少ししかないから、後で買ってくるよ。ミルクも」
「うん。そうして」
ハルカさんは寝ている赤ちゃんをすっと抱き上げた。赤ちゃんは起きなかった。
「着替えは?」
「ごめん、ないんだ」
タカ叔父が肩をすくめると、ハルカさんは訝しそうにタカ叔父を睨んだ。
「あんた、もしかして、子供置いて逃げられたんじゃないの?女に」
あ……。
ぼくは心臓をぐっと鷲掴みされた気がした。
それは、ぼくだ。
「違うよ。俺はそんな事はしない」
タカ叔父のそのセリフも、ぼくの心臓を掴み上げる。それが判ってるのか判ってないのか、タカ叔父はぼくに赤ちゃんの荷物をまとめろと言った。
ハルカさんは納得するように頷いて言った。
「そうだね。ま、夏だし、何とかなるわ」
ぼくは出しっぱなしにしていたオムツとかミルクの缶とかを集めて、もともとそれが入っていたキルト生地の袋に入れ直した。育児書だけ入れない。それを持って二人の傍に控えている。
「名前は?」
「ああ、と、名前は…」
まだない。
ぼくはそこで初めて名前なんてものに気が付いた。メグミはこの子に名前を付けなかったんだろうか?
「…猫である」
そう言ったタカ叔父を、ハルカさんは睨む。
「全然面白くない」
「ごめん。名前はまだ付けられてないんだ」
「ふーん、そう。まあ、いいわ。言っとくけど、ベビーシッター代はちゃんと貰うよ」
「ああ、判ってるよ」
幾らだろう?ぼくは心配になってタカ叔父を見上げたけど、タカ叔父はハルカさんの方だけ見ていた。するとハルカさんは薄く笑って、タカ叔父の足から頭までを細めた目で眺めてから言う。
「まあ、あんたなら体で払ってもらってもいいけどね」
「ご冗談でしょう」
タカ叔父は動じない笑顔で答え、ハルカさんも鼻で笑った。
それから三人で玄関まで歩く。玄関にはベビーカーが置いてある。それを指差してタカ叔父が言う。
「使う?これ」
「いらない。邪魔」
「そう。じゃあ、頼むよ」
「何時に帰ってくる?二時くらい?」
「いや、多分過ぎる」
「判った。ま、寝ててもチャイム鳴らせば起きるから」
「悪いね。助かるよ」
「ああ。じゃ」
ぼくはハルカさんに袋を渡し、彼女は部屋を出て行った。
タカ叔父は部屋に戻って着替えを始める。
「ねえ、ぼくのせいで、叔父さん体売るの?」
タカ叔父は笑いながら、新しいシャツに袖を通す。黒の長袖だった。
「ただの冗談だよ」
「本当に?」
「ああ。だって俺は彼女の専門外だからな」
「どういうこと?」
「彼女の恋人はいつも女なんだ」
ぼくはびっくりして言葉を失う。そういう人を見たのは初めてだった。
黙ったぼくをタカ叔父が振り向いたので、ぼくは何とか言葉を口にした。
「世間は、広いね」
タカ叔父は鼻で笑った。ジーンズを脱いで、黒いズボンに履き替える。
「店を始めた頃のお客でさ、その時も女と来てたよ」
「お客さんなの?」
「同じマンションに住んでる奴だって、向こうの方が気付いてね。俺は全然知らなかったけど」
「へえ。世間は狭いね」
「そうだな」
タカ叔父はベルトをはめて、ぼくに言った。
「じゃあ、出かけるぞ。お前もちゃんと探せよ」
「うん」
ぼくは強く頷いた。
店に入ったのは八時過ぎだった。午前一時半に、最後のお客さんが帰って行った。ぼくがそれを見送って、ドアを閉め、タカ叔父は聞く。
「会えたの?」
ぼくは首を横に振る。
「アパートはもう違う人が住んでた。でも、岡村から電話があったんだ。それで実家は判ったんだよ」
「へえ、良かったな」
「うん。それで、その家を見に行った。でも、訪ねなかった。夜だし……。でも、明日は行くよ。必ず行くから」
「判った」
ぼくは事務室からモップを取ってきて、床を拭く。タカ叔父はカウンターを拭く。
「タカ叔父。昼間の女の人は恋人?」
「は?なんだよ急に」
「本当は聞きたかったんだけど、そんな暇なかったからさ」
「聞かなくていいし」
「教えてくれたっていいじゃない」
「プライバシーの侵害だね」
「恋人が出来たんだ。ふーん」
「違うよ」
「あ、違うんだ」
ぼくは少し軽蔑の眼差しでタカ叔父を見た。
「お前、それ、誘導尋問のつもり?」
「うん。一応」
「稚拙」
とか言ったくせに、タカ叔父は続けてくれた。
「美人だと思ったか?」
ぼくはその顔を思い浮かべる。
「よく判んない。不機嫌そうにしてたから、その印象が強くて。でも、多分、美人だったと思う」
「そうか。不機嫌だったか」
「うん。すっごく。ぼくも赤ちゃんも睨まれちゃったよ」
タカ叔父は笑って言う。
「ここで問題です。彼女はどうして不機嫌だったでしょう?一番、俺が下手くそだったから。二番、俺が役立たずだったから。三番、いいところを無粋な甥っ子に邪魔されて追い出されたから」
ぼくは考えるまでもなく回答する。
「三番」
「ブー」
「え、違うの?」
「正解は二番でした。罰ゲームはトイレ掃除です」
それは毎日交代でやっていて、今日はタカ叔父の順番だった。ぼくは仕方なくトイレに入る。トイレのタンクをまず拭きながら、ぼくはタカ叔父に「ねえ」と、呼びかける。
「掃除に専念してください」
「ちゃんとやってるもん。ねえ、二番ってどういうこと?」
「そのまんまだよ。ちゃんと掃除しろって」
「やってるって」
「黙ってやれ。口に入るぞ」
「うーん」
ぼくは便器の中を磨いて、周りを拭いて、床を掃いて、ゴミを捨て、そして綺麗に石鹸で手を洗った。
「ねえ、どういうことなの」
「しつこいなお前。女に嫌われるよ」
「そんなの人によるよ」
「ほーう」
ぼくは出していたモップを片付けて、スツールに腰かけ、カウンターに肘をつく。
「役立たずってどういうこと?」
タカ叔父は溜め息をついて、自分もカウンターの中の椅子にすわる。
「だから、出来なかったんだよ。なんでそんな事お前に詳しく言わにゃならんの」
「え……。でも、美人に迫られたんでしょ?」
「迫られました。メチャメチャ迫られました。断りきれませんでした。ごめんなさい」
「ぼくに謝らないでよ。それで、自分の家に連れてったわけ?」
「だって、連れてけって言うんだもん」
タカ叔父は足を組んでそう言った。
「なに拗ねてんの。それで?そのつもりだったんでしょ?」
「何で詳細に聞きたがるの?いいじゃん、役立たずで終われば」
「聞きたい年頃なんだよ」
「年頃ねえ」
「ほら。教えてよ」
「タバコ取ってこい。そしたら言うよ」
「うん」
ぼくはほとんど駆け足で事務室に入って、タバコとライターを取って戻ってきた。はい、とカウンター越しに手渡し、また座る。タカ叔父は面倒臭そうにタバコを取り出して火をつけた。タカ叔父はヘビースモーカーではない。この店でタバコを吸うのは見たことないので、それを取って来いと言われて、ぼくは少し驚いてはいた。
「そのつもりだったのに、出来なかったの?もしかしてタカ叔父、相当子供の頃から酒とタバコやってたんじゃない?」
「バーカ。失礼な。俺は健康体だよ」
「じゃあ、どうしてさ?」
「そのつもりだったのが、急にそのつもりじゃなくなったの」
「……醒めちゃったの?何かあったの?」
タカ叔父はフーッとぼくに向かって煙を吐き出した。煙のスピードは途中で弱まり、それでもゆっくりと、ぼくに迫ってくる。
「言っとくけど、女が悪いんじゃないよ。彼女は美人だったし、性格も悪くなかった。胸はなかったけど、脚はすごく綺麗だった」
「……じゃあ、どうして?」
「彼女の方には俺を興醒めさせるような落ち度は何一つなかった。全部、俺のせい」
「叔父さんの」
「そう。単に俺が、彼女を愛してなかったって言うだけ。それだけだよ」
タカ叔父はタバコを吸い、今度は溜め息と共に吐き出す。
「罪悪感、が、あった?」
「そうだな。そうかもしれないな」
「彼女が誘ったのに?」
「うん。それもあるし、他にも理由はある」
「どんな理由?」
タカ叔父はカウンターの灰皿に、タバコを押し付けて火を消した。
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