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昔々あるところに、芹沢高志という男がおりました。甘ったれの末っ子でした。
高志は勉強が嫌いで、大学なんかにはさらさら行く気がありませんでした。親族の小言なんかはものともせず、呑気に高校を卒業すると、アルバイトと旅行を繰り返すような気ままな生活を送っておりました。いわゆる風来坊でした。その呑気さを呪う兄や姉たちは、よく彼のことをフウテンと言ってバカにしていました。そのフウテンの高志が二十代も半ばの頃のことです。彼の父親がぽっくり死んでしまいました。脳卒中か何かだったようですが、その時南の島で空と大地と海とを満喫していた高志には連絡が取れず、彼が帰ってきた時には遺骨はすっかり墓の中に納められていました。
それから父親代わりのようになった年の離れた兄姉は、ひどく高志の生活力のなさを責めました。以前にも増して責めました。これからどうやって暮らしていく気なのだと怒っては、大学に行かなかったことをセットにして叱りました。高志も反論はしたかったのですが、彼にほとんど生活力と言うもの、あるいは経済力と言うものがないのは確かなことだったので、それほど強気にもなれません。
兄姉たちは言いました。口惜しかったら就職するなり資格を取るなりしてみろと。高志は口惜しかったので、やってやろうじゃん、と、珍しくやる気を出したようでした。でもいきなり就職するのは難しくて、高志はなんらかの資格をとることにしました。そこで高志は世間にはどういう資格があるのかを調べてみました。高志は愕然とします。その時になって初めて資格を取るにも資格がいるんだという事に気付かされたからです。
それは久々に受けるカルチャーショックでした。自分の呑気な生活と世界観からは宇宙的にかけ離れた、現実社会に対しての文化的衝撃でした。それは初めてマングローブの林を眺めながらボートを進めた時よりも、オホーツク海をぼんやり眺めていて初めて蜃気楼を見た時よりも、はるかに大きくて、美しくないショックでした。アホ臭いと言ってもいいようなショックでした。高志が少し気の引かれる資格はほとんど大学を卒業していないと取れないようなものだったのです。
とりあえず高志はそのカルチャーショックを棚の上に置いて、今の自分でも取れる資格を探しました。そして受験資格の制限のなかった気象予報士というのを見つけます。それは小学生だろうが幼稚園児だろうが、受験の申請をすれば受験票がちゃんと送られてくると言うことで、しかもその内容もなかなか面白そうだと思いました。高志は興味が持てれば結構熱中する ―他人から見れば単なるお天気屋の― 性格だったので、すぐに勉強を始めました。生来のお天気屋と気象予報士はやはり相性が良かったのか、高志は一年経たないくらいで資格を取ることができました。風来坊には勉強する時間がたっぷりあった、と言うのも成功の要因だったでしょう。
これにはいつも煙たそうな顔をしている親族も、唸ったり喜んだりしてくれて、高志もまんざらではありません。しかし、もちろん資格を取ったらそれで終わりではなく、そこからが始まりだという事を、風来坊の呑気な頭は今一つ現実味を帯びて考えていなかったのです。しかし、兄姉たちには至極現実的な人が揃っていて、あれこれ頼まない世話を焼いてくれました。気付いた時には気象予報士という櫂だか剣だかを持って不安定なお椀に乗せられて川に流されていました。たどり着いた都は民間の気象会社でした。高志はそこで仕方なくお椀から降り、そこの気象情報部と言うところで働き始めました。
初めての就職はそれなりに楽しくもありましたが、高志はだんだん面倒臭く感じてきました。おまけに風来坊の容姿はそこそこ良く、それが災いしてテレビの天気予報の番組に出てみないかと言う話が持ち上がりました。高志は自分の姿が不特定多数の人間の前にさらされるなんてトンデモナイと思いました。それを望む人もいるでしょうが、高志はそういったものには興味がないどころか、本気で真っ平ごめんという感じだったのです。そういう個性なので仕方ありません。そのままそこで働いていると、その嫌な事を無理やりやらされそうな気配を感じました。そのうち、密閉された狭い部屋に閉じ込められたような気分になってきました。しかも、足元からは水が溜まってきて、徐々に体が水没し、そのうち溺れそうな恐怖も感じました。
結局、水が合わなかったという事でしょう。慣れない水を口にして腹を壊した風来坊は、狭い部屋を蹴破って、半年で都から逃げ帰ってきました。何処に旅をするにも、やはり生水には気をつけろ、と言う教訓だけは得たようでした。
もちろん、何の手柄も立てずに逃げてきた風来坊を、親族は鬼のような顔で怒りました。しかし、もう二度とその言う事は聞かないと高志は決めてしまったので、なんとも気になりませんでした。それまであまり良くなかった兄姉弟仲はさらに悪くなりましたが、まあ、よくあることさ、と、高志は意に介しませんでした。
それでもやはり、一度都の水を飲んだせいか、将来のことを考えるようにはなりました。それで自分は何が好きだろうと考えました。女の子は好きでしたが、女の子にはなれないし、なりたくはないので、次に好きなものを考えました。
「酒じゃん。人生、酒だろうよ」
とか、訳の判らないことを呟くと、高志は今度は酒の勉強を始めたのです。他にもギターとか、旅行とかあった筈なのに、その時思いついたのは酒でした。
そして、そんなフウテン人生の勉強の最中に、高志は一人の女の子に出会いました。それはそれは美しい娘で、名前はかぐや姫ではありませんでしたが、個人のプライバシー保護の為、仮名をかぐや姫とします。
かぐや姫は竹取物語の主人公だけあって、企画外れのお嬢様でした。彼女の事情をここで長々と説明しても紙数がもったいないだけだと思われるのでそれは省きます。ただ彼女の真にお嬢様らしいところは、その精神によるものが大きかったのです。清く厳しく美しい人でした。彼女の気高さは、その前に出ると、高志が自分をひどく恥ずかしい存在に思ってしまうほどの迫力でした。かぐや姫が処女であることは間違いないでしょう。風来坊はかぐや姫への思いが募るほど、自分が童貞であったら良かったと思いました。今まで深く考えずに遊んでいた風来坊の体は、すっかり薄汚れていたのです。健康体ではありますが、とてもかぐや姫に触れていいような清らかさは保っていませんでした。
もちろん風来坊とは言え、高志は悪党ではありません。
女の子を好きになっても、無理を強いる事などありませんでした。ただ、好きではない女の子のはずなのに、迫られるとフラフラとその気になってしまう優柔不断な部分はありました。だから余計に、かぐや姫の前では恥じ入ってしまうのです。
ところが、何を血迷ったのか、かぐや姫はかなり風来坊を気に入った様子でした。偶に屋敷に召し上げては、俗世で起きる面白き事などを風来坊に話させて、「まことにおかしげなことよのう」などと言って上品にお笑いになりました。
風来坊はプライベートな場所でかぐや姫のご尊顔を拝することが出来るのは非常に嬉しかったのですが、出来るだけお屋敷には行かないように気をつけていました。かぐや姫と二人きりになるのは嬉しい反面、苦しくもあったからです。自分の妄想に悶え苦しんで、ぜえぜえ言いながら走って帰ったこともありました。おまけにお屋敷には黒い大きなお付きの犬が二匹いて、もし我らが姫に何か危害でも加えようものならばこの命と引き換えにしてでも食い殺す、といった風情で風来坊を睨んでいるのです。とてもじゃないけど気が抜けません。それは魔よけの狛犬というよりは、地獄の番犬ケルベロスといった恐ろしい顔つきをしていました。
それで偶には外でデートをすることがありました。牛車で海に行ったり、高原へ行ったりといった具合です。そのうち、かぐや姫は風来坊を好いてくれたようでした。ごくまれではありますが、手をつないで歩いた事だってあるのです。それは風来坊にとって月にも昇るような幸福でしたが、唯一つ、難題が二人の間には立ち塞がっていました。それはまさしく、かぐや姫はかぐや姫であって、風来坊は風来坊であるという厳然たる事実から生じるものでした。とは言え、かぐや姫は心根の美しい娘だったので、身分の差などは気にもしておりませんでした。
そう。気にしていたのは風来坊の方です。どうせなら、火鼠の皮衣や五色に輝く玉を取ってくればそれでOK、と言われる方が風来坊にとっては気が楽でした。しかもそれは楽しそうです。でも違いました。
そして、風来坊は決心します。
まともに一人で生きていけるようになろう、と。
風来坊ではいけないのだ、と。
彼はかぐや姫に誓いました。その華奢な手を取って。
「いつの日か、必ずや私めは一国一城の主になってみせます。その時まで、待っていて欲しいのです。必ず迎えに来ます。それまでは心身ともに清潔を保ち、過去を悔い改め、ここに操を立てます」
「よきかな。いつしかその思い遂げんや」
高志は本気でした。そして闇雲に得ていた酒の知識から少し間を空けて、経営についての勉強を始めます。かぐや姫を迎えるのに飲み屋と言うのもミスマッチな気はしますが、それは気のせいとして、高志はバーの経営に必要な知識を身に付けていきました。流行りの店に偵察に行ったり、良いと思った店で働いて技術を体得したり、貯金したり、仕入先とコネを作ったり、友人をひっつかまえて帳簿のつけ方を教わったり、著作権について調べたり、資金計画を練ったり。この間の勉強は今までにないくらい現実的な目標を前にした行動でした。
そして、いよいよ開業の目星がついた頃のことです。
人間いつだって、ほっとした時が一番危険なのです。安心して気を抜くと、そこに落とし穴があるというのは、万国共通世の常です。本当は、まだそこに到達していないのに安心などしてはいけないのです。まだ天国にたどり着いてないのに、蜘蛛の糸にぶら下がっている段階なのに、気を抜いてよそ見をしたら、まず良いことは起こらないでしょう。
ほとんど準備は整っていました。残った仕事は店の名前とメニューを確定させ、各役所に届けを出すことくらいです。
美人でした。確かに美人でした。
もちろん初めは相手にしなかったのですが、言い訳をするなら、あまりにも長い禁欲生活でした。確かに言い訳です。我慢できない筈はなかったのです。もう、すぐそこにかぐや姫の神々しいお姿が見えていたのですから。よそ見をしなければ、目標は達せたはずでした。
蜘蛛の糸をよじ登っていると、下から甘い声で呼びかけられました。それはとっても甘美な声でした。我慢していた高志でしたが、ちょっと見るくらい、という不純な考えに従ってしまいました。下を見ると、綺麗なお姉さんがぶら下がっています。
高志は言いました。
「そんなとこいたら危ないですよ」
「平気よ。下に降りましょう。下にはそんな所よりも、もっと美味しいパンがあるのよ」
「人はパンのみで生きるものではありませんから」
「下にはそんな所よりも、もっと美味しいお酒だってあるわ」
「お酒なら売るほど仕入れてますから」
「お願い、ほんのちょっとでいいの」
綺麗なお姉さんは急に淋しげな声を出しました。
「そんなに私が嫌い?」
「嫌いってわけでは……」
綺麗なお姉さんの胸元は、上から見るととても悩ましい様相を呈しておりました。正直、そんな眺めは嫌いではありません。
「ほんの少しでいいの。私の手をつかまえて欲しいの。でないと手が痛くてここから落ちてしまいそう」
「ここの蜘蛛の糸は特注品ですから、一人じゃないと登れないんですよ」
「私を一人、下に落とすの?ひどい人……」
「大丈夫ですよ。手なんか痛くないはずです。さあ、私に続いてあなたも登ってごらんなさい」
「もう限界だわ。手が痛いの。本当よ。ほらこんなに血が滲んできてしまった」
綺麗なお姉さんは赤く染まった手を高志に見せます。それは嘘のように思われましたが、少し心配にもなりました。それに淋しげで綺麗で艶めかしいお姉さんから目を離すことは至難の業でした。口では良いこと言ってるようでも、目線はすでに釘付けだったのです。
「ほんの少しでいいの。一緒に下に降りて手当てをしてくれないかしら?また登ってきたらいいことじゃない」
「ええ、まあ、そりゃそうかも知れないですけど。ただ、ここまで来るの大変だったんですよね」
「だったら私が癒してあげるわ。少し息抜きをしたらいいのよ。優しくしてあげるから」
「そうですか。んー、まあ、それじゃあ、その傷の手当をするくらいなら……」
高志はお姉さんの血まみれの手に、自分の手を差し出しました。
そしてその手を握った瞬間、あれほど強靭に思えた特注蜘蛛の糸はプツンとたやすく切れてしまいました。それと同時に高志は気付きました。
「これはもしや」
綺麗なお姉さんの赤い手は、ぬるっと気味の悪い感触がしました。
「グレナデン・シロップ……」
「もう遅いわ、お兄さん」
一緒に暗黒の淵に落ちていきながら、綺麗なお姉さんはニヤリと笑いました。
「一緒に快楽の園で楽しみましょう。私の蜜のように甘い唇で、あなたに口付けをしてあげましょう」
「それは深い陰府の底だ。そしてその唇はニガヨモギよりも苦くなる」
「もう遅いのです。これはあなたが自ら望んだこと。踏み込んだ罠」
お姉さんは高志に口付けをしました。
「そう。もう遅い」
高志は呟きながら、綺麗なお姉さんを抱きしめました。
風来坊はかぐや姫を迎えには行けませんでした。その資格を失ってしまったからです。かぐや姫は風の囁きに訳を知った時、真珠のよう美しい涙をながしたと言われます。
「いとかなしや」
かぐや姫は一人で月に帰っていきました。
「そもそもの初め、あなたは何ものにも誓いを立てるべきではなかった。人は何ものをも持ってはいないのだから」
かぐや姫の悲しげな呟きが、月夜に流されていきます。
「それは私も同じこと。然りは然り、否は否なり」
夜空には暗雲がたちこめ、月夜は闇夜になってしまいました。
その後間もなく風来坊のバーは開店しました。
店の名は「無」と、名付けられていました。
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