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 メグミの家の近くからぼくは電話をかけた。  直接家を訪ねる勇気はなかった。近くの児童公園で待ち合わせをすることができた。隅っこのベンチにすわって、お昼前の公園をぼんやり眺める。小さな公園で、砂場とブランコと滑り台しかなかったけど、隣接して広場があった。野球をするほどの広さはなくて、今は子供が数人駆け回っている。近所の奥さんとった様子の人たちが小さな子供を連れて何組か遊びに来ていた。赤ちゃんはいない。みんな幼稚園に入る前くらいの子供達だ。  しばらくして、メグミが現れた。  水色のワンピースに白い日傘を差していた。その姿は今まで見たことのある彼女とはまったく雰囲気が違っていた。彼女には、今思えばだけど、小悪魔的な要素があったと思う。ぼくより年上なので大人に感じるのは当たり前で、でも時々、少女のように幼く見えることもあった。その変化は、多分臨機応変に彼女が演じていたものだと思う。その巧みさに、ぼくは少しは気付いていた。  でも今そこにいるメグミから、そんなしたたかさが感じられなかった。そのままの彼女がそこにいる気がした。  ぼくは立ちもせずに彼女が歩いてくるのを眺めていた。彼女は微笑むこともなく、ただ静かに歩いてきて、ただ静かにぼくの隣にすわる。  ぼくはしばらく、公園内の親子の様子に目を戻し、黙っていた。お昼に近かったので、その数は少しずつ減っていった。きっと家に帰り、昼食の仕度を始めるのだろう。  ぼくが黙っているままでは、きっと彼女も黙っているだろうなと思った。彼女から口を開くことはないのだ。  ぼくは言った。 「こんなやり方は、やっぱりないと思うんだよね」 「うん。そうかもしれない」 「どうして話してくれなかったの?ぼくは、君が妊娠したことも知らずに、この十ヶ月くらいを呑気に過ごしていたんだよ」  自分の細胞がどんどん増殖して、驚くほどの速さで体積を増していっているのを、ぼくは知らずにいた。それはとても不思議なことだった。自分が増えていることに気付かないなんて。 「自分でも驚いたわ。妊娠したって判った時は。こういうことって、もっとずっと先の話だと思ってたから。漠然と、将来のことだと思ってたから」 「どうして言ってくれなかったの」 「正直言うと、少し怖かった。いろんな事に対してどうしようか迷って、悩んだの。いろんな事よ。本当に数え切れないくらいいろんな事よ」 「例えば?」 「例えば?そうね。でもそれは数え切れない数の中の一つよ?それでいい?」 「うん」  彼女はどれを話そうかと悩んだのか、話すことは決めたけど言いにくかったのか、少し間を空けてから、ゆっくり言った。 「いつまでなら中絶できるのか、とかよ」  ぼくも少し間を空けてから言った。 「それもぼくに内緒で?」 「言ってるじゃない。いろいろの中の一つだって」 「そうか。そうだった。ぼくに言うことも、言わないことも、いろいろ悩んだんだね」 「うん」 「でも、言ってほしかったよ。それは多分、とっても重要なことだよ」 「重要ね。人間が一人できるんだから」 「どうして言ってくれなかったの。最終的に、君は最後まで黙っていた」 「芹沢くんには言えなかった。だって、きっとあなたはそれを知ったら、私と結婚する気になるもの」  ぼくは少し考えた。 「それはいけないことかな」 「いけないわ。少なくとも、私はそんなの嫌よ。好きでもない人と結婚なんかしたくないし、愛してもないくせに結婚してもらいたくもないから」 「でも、人の感情なんて固定されたものじゃないよ。ぼくはもしかしたら君を、物凄く好きになるかもしれないよ」 「それも含めて嫌だったの」 「どうして?」 「これは多分だけど、芹沢くんはきっと私を愛してくれるようになると思ったの。それは嫌なの。自分の子供を身ごもった女を好きになるのと、単なる女を好きになるのとは違う感情だと思うから。どっちが悪いって言ってるんじゃないのよ。それは私が嫌なだけ。私は単なる私を愛してくれる人じゃないと、結婚したくないの」 「義理や責任で結婚するのじゃなくても、嫌なの?」 「嫌なの」 「君はぼくを好きじゃないの?」 「好きよ。芹沢くんは様子もいいし、優しいし、とっても魅力的よ。でも、君は私を好きじゃなかったでしょう」 「好きだよ」 「それは嫌いじゃない、っていう好きでしょう。でもダメなのよ。そういう好きでは、結婚は出来ないの。それはどっちも同じ。君のも、私のも」 「じゃあどうして、ぼくが結婚してくれないなんて嘘をついたの?」 「それって嘘になる?」 「なるよ。初耳だもん。そんな話」 「そうだね。突き詰めれば嘘じゃないかもって、少し思ってたんだけど」 「立派な嘘だよ。おかげでぼくは引っぱたかれたんだよ」  そこで初めて、メグミは笑った。ぼくの顔を見て、ぼくも見て返す。 「京子?」 「うん。すごく痛かったよ。笑えないくらい」 「ごめん」 「笑いながら言うなよ」 「京子は白黒ついてないと気がすまない質だからね」 「親友なんでしょう?連絡つかないって言ってたけど」 「うん。電話とらなかったし、実家に帰ったことも誰にも言わなかったもん」 「みんなに秘密にしてたの?」 「うん。親以外にはね。噂になったら君の耳にも入るでしょ」 「そうか」 「あなたにお金貰ったから、とても助かったの。ありがとう」 「出産費用だったの?」 「最初からそう決めてたんじゃないわ。気持ちは定まってなかった。産もうと決めた十秒後には、階段から落ちてみようかなんて考えたり」 「本当?」 「判らないけど。でも、あの時、確実に産む覚悟ができたのは本当よ。私、あなたを殺すことはできなかったし、あなたの子供なら産みたいって思ったの」 「それでも、ぼくは放ったらかしなんだね」 「だって、結婚したくないもん」 「ひどい話だな」 「そう?」 「うん。多分」 「世間的にはそうかも。でも、あなたはそう思うの?」 「判らない。ただ、君を悪い人だとは思えない」 「だから、お人好しって言われるのよ」 「仕方ないよ。でも、あの子をぼくにプレゼントってどういうことなの。少し悪趣味な言い回しだよ」 「そうかな。ごめん」 「初めからそのつもりだった?」 「君に押し付ける?」 「うん」 「ううん。最初は自分で育てるつもりだった」 「ぼくに内緒で?」 「それは判らない。状況によっては話をしたかもしれないわ」 「そう。それで?」 「ごめんね。現実的に、こりゃ無理だわって、思っちゃったの」 「軽いな」  呆れて言うと、メグミは笑う。これは笑うところ? 「私にシングルマザーは無理。無理をしたら歪みができる。そしたら、子供は幸せにはなれない」 「いきなり子供を押し付けられたぼくはどうなるのさ」 「君は大丈夫だよ」 「ずいぶん勝手な言い草だよ、それ」 「判ってるけど、君がちゃんとした人間だってのも判ってるの。芹沢くんはたいした人間だよ」 「そういう褒められ方されても嬉しくないよ」 「君は働いてるし、優しいし、良い両親もいるでしょう。私にはそういうものがなかったの。気付くのが遅かった。そういうのが必要だって」 「君は優しくないの?」 「多分、優しくない。じゃないと、こんな事しない気がする」 「そうかもしれないね。確かに、ぼくにはあまり優しくないかもしれないよ」 「感情的だし、赤ちゃんを嫌いになる恐れだってあるわ。私をなだめてくれる人は周りにいないし、それは避けたいの」 「君にできないことが、ぼくにはできると思うの?」 「思ったから、あなたに預けたのよ」 「勝手すぎるよ」 「でも、あなたの子供よ」  そう言われると、反論はできない。 「君には良い両親はいないの?」 「いない。あの人たちはもう夫婦じゃないわ。同じ家で暮らしてお互いの悪口を言うのが仕事なだけ。今、またアパートを探してるの。本当は家にはいたくないの。出産準備とか、いろいろ大変で帰るしかなかったけど、もう早く出て行きたい。今回世話になったことは感謝してるけど、もう、家にいるのはうんざり」 「家族には、ぼくと赤ちゃんの話はどう言ってるの?」 「芹沢くんの名前とかは言ってないよ。バカ娘が子供作って困ったって思ってるだけなんじゃない」 「怒られたんじゃないの」 「うん。怒られた。でも、そもそも私に説教できるほど出来た人間じゃないのよ、あの人たちは。あの子のことだって、父親が引き取ってくれるって言ったら、ほっとしてたわ。それならいいけど、だって。軽いわね。私も似ちゃったのかしら、そういうところ」 「君は軽い人間ではないよ」 「あら、嬉しい」  そのセリフだけ、少し女優みたいだった。 「お願い、芹沢くん。あの子を育てて」 「君は平気なの?自分の子供がそばにいなくても。あの子が可愛くないの?」 「可愛いわ。すごく会いたい。ミルクをすぐ吐いちゃうのよ。私のやり方が下手なのかもしれないけど。すごく心配なの。でも、私には育てられないもの。あの親が育ててくれる訳ないし、育てられるとも思わない。もとより育ててほしくない」 「君を育ててくれた人たちだよ。君はそんなに悪い子には育っていない」 「普通は悪い子だって言われるのよ。世間では、こういう女の子は。ただ、芹沢くんがそう思ってくれてるだけで」 「ぼくが思ってるんだからいいじゃないか」 「うん。ありがとう。でも、私が育った状況とは違う状況であの子は育てられる。どうなるか判らないわ。だから、あなたに育てて欲しい」 「ぼくなら大丈夫だと思うの?」 「思う」 「そんな大きな期待に、応えられる自信はないよ」 「少なくとも、私よりはましよ」 「買いかぶってるよ」 「でも、もう、そのつもりでいてくれてるでしょう?」  ぼくは黙る。  確かにぼくには、あの子をメグミにつき返そうという気はなかった。  だからと言って、ぼくに父親になる自覚があるのかと言うと、それはまた別の問題のような気がする。  ぼくが黙っていると、メグミがぼくの顔を覗いた。 「ねえ、芹沢くん」 「なに」 「君は聞かないんだね。普通、男が一番先に聞きそうなことを」 「なに?」 「本当に自分の子供かどうかって」 「ああ。そうだね。でも聞かなかったからって、実感がある訳じゃないよ。いきなりやってきた赤ちゃんだもん」 「じゃあ、どうして聞かないの?」 「そんな嘘を君がつくとは思わないから」 「きっと、知らない人が聞いたら、呆れると思う。芹沢くんのこと」 「バカにされるかもね」 「そう思ってるのに、どうして?」 「これは、ぼくと君との間の問題でしょう。ぼくが君に対してそう感じるんだから仕方ないよ。じゃあ、聞くけど、本当にぼくの子供なの?」 「そうだよ。芹沢くんとしか、子供ができるようなことしてないもん」 「そう。良かった」 「良かった?」 「あれ、変だったかな?ぼくの子供だってはっきりしてることは、良いことだよね?」 「うん。そうだね。どの人の子か判らないって、中学生の頃、泣いてる子がクラスにいたもん。派手な子だったけど、この子でも泣くんだなあって、遠目に見てた覚えがある。友達じゃなかったから」 「中学生の頃って、それ同級生ってこと?」 「うん」 「そうなの?そんな子供の頃からそういうことするの?父親が判らなくなるくらい?中学生の頃って、もっとプラトニックな感じだと思ってた」 「そういう人もいるんだよ。下手したら小学生でもいるらしいよ。そんなに人生を生き急いでどうするんだろうって思うけどね。その先の人生どうなるんだろう。普通に考えれば八十年も生きなくちゃならないのよ。男のこと考えるなんて面倒くさいこと、そんなに早く覚えるなんて損よね。子供の頃は、運動場で元気いっぱい走りまわってればいいのに」 「そうだよね。そうなんだ。怖いな」 「環境に左右されるんだろうね、きっと。子供だから余計に、周囲に流されるのかもしれない。小さい頃から、私は私だって事を自覚できてないと、これからは生きていくのも難しくなるのかな。嫌な世の中だわ。子供が子供でいることを許してくれないなんて。私はもっと呑気に生きていたいわ」 「そうだね。ぼくものんびりしたいよ」 「あ、ごめん」 「なに?」 「君の人生を、忙しくさせたのは私だった。十九の父親も、世間はきっと珍しがるわ」  ぼくは少し笑った。 「君とぼくがそうしたんだよ」 「……うん。ありがとう。君はやっぱり、人間ができてる」  買いかぶりだけどね。  ぼくは返事をせずに、ベンチから立ち上がる。 「芹沢くん?」  メグミは日傘を少し傾け、ぼくを見上げた。 「どうしても聞いておかないといけない事があるんだ」 「なに?」 「君は、お金を取りにきた時に言ったんだよ。後悔してるって。覚えてる?」 「……うん。覚えてる」 「どういう意味か知りたい。それは、妊娠なんかするんなら、ぼくとあんな事しなければよかったってことなの?子供が出来たから後悔したの?」  メグミはゆっくり首を横に振った。 「違うよ。私はね、君をちゃんと好きになれば良かったって思ったの。君なら私はきっと、今よりもっと好きになってたと思う。物凄く大好きになってたと思う。それで悔やんでるの。君の言うことを聞いていれば良かった。君は私をちゃんと諭してくれたのに、私は無視しちゃった。後悔してる。もっとゆっくり、君と話をして、君といろんなものを見て、君のことを少しでも多く理解してからでも、全然遅いことじゃなかったんだもん」  メグミの目は潤んでいたけど、それは偽物ではなかった。だからぼくも、胸が痛くなった。 「ぼくも多分、そうであったなら、君を好きになってたと思うよ。嘘じゃないよ。本当にそう思う。君がぼくの時間に合わせてくれてたら、ぼくは多分、君に恋してたと思う。だって君は可愛いし、悪い人じゃないから」 「うん。私がバカだった」 「ぼくもバカだった」  涼しい風が急に吹いて、ぼくの髪をなびかせた。  メグミの日傘も、少し揺れた。 「それは、今からじゃダメなの?」  メグミはしばらく黙っていた後に、確かな口調で答える。 「うん。理由はさっき言った通りよ」 「ぼくたちは上手くいかないかな」 「いかないと思う。どんなに仲が良く見えてる夫婦も、将来どうなってるか判らないわ。うちの両親みたいに。私はそんなの嫌なの。そうなりたくないの。今の私と君の間には、多分すでに妥協があるのよ。見えないかもしれないけど、それはもう存在してる。スタートがそれだったら、上手くいきっこないと思う。普通より、断然早く崩れる予感がする。私はそれは嫌なの。私は、安心できる人と、そして愛してる人とじゃないと、結婚したくない」 「ぼくじゃ安心できない?」 「うん。すでに不安がここにあるのよ」  ぼくは頷いた。  多分これは失恋だと思う。ぼくははっきり振られたのは初めてだった。本当は泣きそうな気分だったけど、ぼくは堪えた。  ぼくらは、それから少し事務的な話をした。  最後に彼女は、ぼくに尋ねた。 「ねえ。私は強欲かしら?私の望みはただ、仲睦まじい夫婦なの」 「たぶん」  ぼくはメグミの目を真っ直ぐ見て答えた。 「そんなことはないと思う。それはとても、シンプルなことだと思うよ」 「良かった」  メグミは安心したように微笑んでいた。
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