最期の言葉

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 ピッ、ピッ、ピッ……。  ベッドサイドモニタから心電図のフラット音だけが鳴り響く病院の一室。二人の男女がベッドを囲んで沈痛な面持ちで佇む中、静かに、しかし慌ただしく扉が開いた。 「お母さんが危篤ですって?!」 「和恵……」  入室してきたのは壮年の和恵と呼ばれる女性。急いでやって来たのか、パーマが掛かった茶髪から覗く額には汗が滲んでおり、息は乱れたままだった。  和恵は病室の中央で横たわる老婆の姿を目に留めると、早足で駆け寄る。 「嗚呼、お母さん……!」 「昨日から容態が急変したんだ」  脇でそう付け加えたのは和恵の兄、雅史だ。スーツと後方に撫で付けた髪は相も変わらず整っているが、その様子はどこか疲れて見える。 「もう話すことも聞くこともままならないだろうけれど、これが最期の機会だって、お医者様が言っていたわ」  長い髪を揺らしておずおずとそう付け加えたのが二人の妹、敦子だ。母の危篤の知らせを聞いて、誰よりも早く駆けつけた。  三人で母のベッドを囲む。目を閉じている彼等の母親は、ゼエゼエと微かに喘鳴を繰り返しており、唇には紫色になるチアノーゼが起こっていた。 「……母さんの葬儀や諸々について、考えないとな」  ぽつりと雅史が零す。噛み付いたのは和恵だった。 「ちょっと。まだ生きているんだから」 「だがすぐに直面する問題だ。それに遺産の事だって」 「やめてよ。二人とも。母さんの前で」 「どうせ意識はないさ」  敦子が静止するも、雅史の口は止まらない。 「母さんは遺産について何の遺言も遺していない。長男である俺が半分、残りをお前達が半分ずつで良いな」 「ちょっと待ってよ!誰がお母さんを施設に入れたと思っているの!?」 「それ以前に、ずっとお母さんのお世話をしていたのは私なのよ?何もしてこなかった兄さんがその取り分はおかしいわ」  止める人間がいなくなった口論は段々と激しさを増していき、喧噪へと変わっていく。やがて三人は、人目も気にせず争い始めた。 「そもそも遺産分配は兄妹なら普通均等に配られるものでしょう!?」 「弁護士を介する訳じゃないんだ。俺達で分けて良いに決まっているだろう」 「そんな理屈が通ると思っているの!?」 「な、なら遺産の半分は私が貰ったって良いはずよ。お母さんの面倒を、ずっと見てきたんだもの」 「ちょっと!あんたまで何を言い出すのよ!」 「和恵の言うとおりだ。遺言も遺書もない以上、遺産は長男が分けるものだ。黙っていろ」 「兄さんも姉さんも昔から勝手すぎるわ!!」 「兄さんは会社が倒産して生活が苦しいから、母さんの遺産を当てにしているだけじゃない!」 「そうだ、それが何だっていうんだ!分かっているなら譲ってくれてもいいだろうが!」 「遺産って言っても、せいぜい年金の貯金より少し多い程度。そこまでして欲しい訳!?」 「それはこっちの台詞よ!」  これから死にゆく者の目の前で、ハゲタカが取り分を争っている。  この世の醜悪さを詰め込んだような光景に、医者も看護師も口を噤んだ。  その時。 「う……」  ベッド上の母が呻いた。 「お母さん!」 「母さん」  その場に居た全員が小柄な老婆の顔を見遣る。最期の様子を見守ろうと、固唾を呑んで見守った。 「お母さん、何?何が言いたいの?」  出来るだけ敦子が優しく問いかける。母はゆっくりと口を開いた。 「ぜえ………………  全部聞こえていたよ」  母は憎かった。  自分の人生がもう終わるという時に、金の話で言い争う息子と娘が。  陰で自分を押しつけ合っていた子ども達が。  ぎょろりと周囲を睨み付け、再度口を形作る。  許さない。  ピーーーー……。  しかし言葉は発される事はなく、命の喪失が空虚に響いた。    
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