ある夫婦の記録

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ある夫婦の記録

「あの日の約束、覚えてる?あなた」 そう呟くと、女性は花壇の前に(ひざまず)いた。 目の前には、数種類の植物が花を咲かせている。 赤、黄、紫…… 色鮮やかな花弁は、気持ち良さげに微風(そよかぜ)に身を任せている。 女性はその一つ一つに顔を近付けては、同じ言葉を繰り返した。 まるで、何か探しているかのように…… 「お願い……答えて……」 やがて両手で顔を覆うと、静かに肩を震わせた。 細く、微かな嗚咽が、風に乗って流れた。 ************ 人口増加による環境破壊は極限を迎えていた。 オゾン層に空いた穴は深刻な温暖化を誘発し、これまでに無い規模の気候変動を引き起こした。 生態系への影響は甚大で、農作物・漁獲量・畜産物などが減少の一途を辿(たど)った。 そう…… 今人類は、未曾有の食糧難に直面していた。 事態を憂えたUNEP(国連環境計画)は、各国の専門家を集め対策チームを立ち上げた。 数ヶ月の調査研究を経て、一つのシミュレーションが組み上がった。 それによると、あと三年で世界の食糧は底をつき、人類の七割が命を落とす事になるという。 事態を重く見た各国は資金を投じ、対策チームの研究支援を行った。 そして発足から一年後、研究チームはある提案を公表したのだった。 人類の命運を賭けた提案を…… ************ 経過観察:二十五日目―― 「体温、血圧共に異常無し」 生態監視モニターを見ながら、医師の一人が報告する。 「心電図正常、脳波正常、細胞分裂速度オールクリア」 「順調だな」 白衣に身を包んだ白髪の男性が呟く。 一台のベッドを取り囲むように、様々な機械が()え付けられていた。 各機器から伸びたコードは、全てベッドの中央に集結している。 そこには一人の男性が横たわっていた。 「どうだね、調子は?」 白髪男性が穏やかな口調で問いかける。 「特に違和感はありません。ベルン教授」 横たわる男性が答える。 左右の腕と胸に繋げられた幾本ものコードが揺れる。 頭部には帽子状の器具が装着されており、男性の呼吸に合わせて明滅を繰り返していた。 「シミュレーション通りなら、そろそろ兆候が現れるはずだ。何か気付いた事があればすぐに言ってくれ、マキムラ」 ベルン教授と呼ばれた白髪男性の言葉に、ベッド上の男性――マキムラは小さく頷いた。 ************ 経過観察:三十ニ日目―― 突然の呼び出し音に、医務室は騒然となった。 ベルン教授を先頭に、数名の研究員が部屋を飛び出す。 集中治療室に駆け込むと、マキムラがベッド上に起き上がっていた。 目が大きく見開き、信じられないといった表情をしている。 「どうした!?マキムラ」 教授の問いに、男性の虚ろな目が向けられる。 「教授……兆候が……」 マキムラの言葉はそこで途切れ、代わりにコードの繋がった左手が差し出された。 それを見た教授の顔から、見る見る色が失われていく。 左手の人差し指に…… 。 ************ 経過観察:四十七日目―― マキムラの体から、全ての接続物が外されようとしていた。 忙しく動き回る研究員を背に、ベルン教授は最後の説明を行った。 「全て順調だよ、マキムラ。シミュレーション通りだ。細胞融合率も目標値をクリアしているし、目立った副反応も見られない。今まさに、君の体は奇跡の域に達した訳だ」 称賛ともとれるその言葉に、マキムラは目を細めた。 そうか…… 成功したか…… 脳裏に、泣いて(すが)り付く妻の姿が蘇る。 反対を押し切って志願した今回の臨床実験…… 文字通り、命を賭けた決断だった。 「。家に帰ってゆっくり休むといい……幸運を祈ってるよ、マキムラ」 ベルン教授は、笑みを浮かべながら右手を差し出した。 マキムラの胸に熱いものが込み上げる。 「……分かりました」 握り返す手が震えていた。 ************ 滅亡が不可避と判断した人類は、選ばれた一部の人間を遺す道を選択した。 食糧がなくとも生存可能な人間── 温暖化による海面上昇と、苛烈な太陽光のもとでも生き続けられる新しい種── そして人類が目をつけたのはだった。 巨額の投資を得た対策チームは、実に驚くべきスピードでDNAの改変技術を開発した。 後は被験者の人選のみという時、志願したのが研究員のマキムラだった。 ************ 経過観察:五十四日目―― 玄関を開けると、懐かしい香りがした。 プランターに並んだベゴニアだ。 何も言わずに、そのまま奥に進む。 キッチンを抜けると、裏庭で水を撒く女性の姿が目に入った。 女性の足元には、色とりどりの花が咲いていた。 やがて、何気なく振り向いた視線がマキムラを(とら)える。 大きく目を見開いた女性は、その場にジョウロを落とすと何も言わず駆け寄った。 「……あなた!」 マキムラの胸に顔を押し付け、声を震わす。 「あなたなのね……」 「ああ。ただいま……サエコ」 号泣する妻の背中を、夫は優しく(さす)り続けた。 ************ 経過観察:五十五日目―― 「実験はうまくいったよ」 ソファに腰掛けたマキムラが呟く。 隣のサエコは、肩にもたれかかったまま頷いた。 「あの日の約束、守ってくれたのね」 「もちろんだ。次に帰って来たら、もう君のそばから絶対に離れないって言ったこと……忘れるもんか」 「ふふ……嬉しい」 そう囁き、サエコはマキムラの肩に額を擦り付けた。 「……それで、あと……何日なの……?」 ふいに喉を詰まらせ、尋ねるサエコ。 その言葉にマキムラは、左手に巻いていた包帯を(ほど)いた。 人差し指に咲いた小さな花弁を妻に見せる。 サエコは驚き顔でそれを眺めた。 「あと一週間だそうだ」 そう答える夫の手を、妻はそっと両手で包み込んだ。 「あと……一週間……」 呟くサエコの目から、涙が溢れ出る。 マキムラは彼女の肩に手を置くと、ゆっくり顔を近付けた。 熱い吐息が首筋を撫でる。 サエコはそのまま静かに目を閉じた。 ************ 経過観察:六十二日目―― 喉の渇きを覚え、ベッドで目を覚ます。 この二、三日の急激な変貌は、マキムラの体の自由を完全に奪っていた。 硬質化した下半身は緑色に変色し、両足先が(つた)状に枝分かれしている。 「サエコ……」 まだ原形を(とど)めている上半身を起こし、マキムラは言った。 「口からの水分補給では、もう……」 苦悶の表情で訴える夫の(そば)で、サエコは何も言わずコップを机に置いた。 次に出てくる言葉を思い、体が震え始める。 マキムラは意を決したように口を開いた。 「そろそろ……」 ************ 期待を(にな)ったDNA改変技術だったが、大きな欠陥が見つかった。 目標としていた人細胞と植物細胞とのハイブリッド工程において、時間経過と共に植物細胞の分裂速度が増す事が分かったのだ。 それは、事を意味した。 当然。 身体が植物の持つ特徴──花弁、葉脈、茎部、根部等へと変貌し、最終的には完全にしてしまうのだ。 今まさに、マキムラの身にそれが起きつつあった。 ************ 経過観察:六十五日目―― 花壇に並ぶ花々の一つに、。 薄水色の花弁の中心に、目と口らしきものが浮き出ている。 一方の土に隠れた部分は、すでにはずだった。 「やれる事はやった。君には本当にすまないと思っている……」 夫の声で語りかける花に、妻は何度も頷いた。 「分かってるわ、あなた……」 言葉を返すサエコの頬が涙で濡れる。 「あなたは皆を救いたかったんでしょ」 「ああ……こんな事で人類を終わらせたく無かった」 「知ってる」 「これがうまくいけば、何百万人もの命が助かる」 「知ってる」 「僕の体でそれが叶うなら、少しも後悔は無い」 「あなたは、そういう人だもの」 サエコはそう言って、笑顔を浮かべた。 「だから好きになったのよ」 片目を(つぶ)って顔を近付けると、花弁が嬉しそうに揺れた。 「……あ……り……が……と」 ほとんど聞き取れない言葉を残し、顔が消失する。 「さよなら……あなた……」 そう呟くと、妻は崩れるように土の上に両手をついた。 絞り出すような嗚咽がいつまでも続いた。 ************ 経過観察:七十七日目―― 花壇の前に立つサエコの姿があった。 目前に密生する色とりどりの花に、もはや夫の面影は見つからない。 それでも、妻の口元には笑みが(こぼ)れている。 「、あなた……」 万感の想いを胸に、称賛の言葉が飛び出す。 「あなたは、」 そう言ってサエコは、自らの腹部に手を添えた。 そこには、夫が帰宅した際に宿ったがあった。 ************ 更なる研究の結果、完全に植物化する直前のDNAであれば、ハイブリッドが可能だと判明した。 そこで研究者は被験者の精子を交配させ、事にした。 次世代に、人類存続の望みを託したのだ。 その被験者第一号に選ばれたのがマキムラだった。 妻に事情を話し、自ら実験体となったマキムラ…… 彼とサエコの間に生まれた子供こそ、人類が待ち望んだものだった。 生まれながらに植物と人間双方のDNAを有し、水分と光合成により生命維持できる新人類── 迫り来る環境破壊と食糧難の中、唯一生き延びる事のできる人類最期の希望である。 これから何十万、何百万の人々が、同様の子孫を遺す事になるだろう。 それはまさに、現代のノアの方舟を彷彿とさせる一大イベントだった。 この子が大人になった姿を、自分は見ることはできない。 である自分には、この危機は乗り越えられないからだ。 だが、それでも哀しくはない。 愛する夫が遺した希望の火は、決して消える事は無いからだ。 一本、また一本と…… この地上に草花が増えるたびに、新しい命が誕生していく。 それは想像するだけで、胸のすく光景であった。 わが子の未来を思い描くサエコの目に、小さな花弁が映った。 カラフルな草花の隙間にひっそりと咲く、だった。 パッと明るくなったサエコの顔に、穏やかな笑みが浮かぶ。 「……そこにいたんだ!約束通り、これからはずっと一緒よ……
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