月の影に笛のうたう ~藤原道長正妻腹三の君の物語~

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【一章 一家三后】 御簾の向こうは大変な賑わいだ。 「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば」  朗々と歌い上げる声が響く。 (父上だわ) 豪奢な螺鈿を施された儀式用の倚子に座す尋姫(ひろひめ)は、父の声にはっと息を飲んだ。  尋姫は、否、この春の入内に際し「威子(たけこ)」という名を賜ったこの若き新中宮は、眩いばかりの白装束に身を包みながらも物憂げに目を伏せる。 「なんと見事な……。この歌に相応しい返歌など、この実資には思いもつきませぬ。皆でこの歌を唱和しようではありませんか」  大仰に褒めそやす声は藤原実資か。実直な性質で、権力者にも媚びるということのない実資まで、父の、藤原道長の酔いに任せた歌を讃えている。  今日という日はそれほどまでに意味の大きいものなのだ。  寛仁二年(一〇一八)十月十六日。  藤原道長の正妻腹三女である威子の立后を祝う宴は、第二幕に入っていた。夜も更け、酒食が進み、集まった公達の酔いも回っている。  この日、威子の長姉彰子(あきこ)が太皇太后に、次姉姸子(きよこ)が皇太后に、そして威子が中宮に立ち、ここに藤原道長の娘三人が三后として並び立った。  一家三后。それは歴史を遡ってもかつてない偉業であった。この日、道長はようやくその野望を成し遂げたのだった。  いや、そればかりではない。いずれは末娘の千姫(ゆきひめ)(後の嬉子(よしこ))までも入内させるつもりであろう。 (私と同じように、甥に)  威子の夫たる今上帝(後一条帝)は、長姉彰子の長男である。彰子には二人の皇子がおり、千姫は次男へと入内させる心積もりに違いなかった。  道長公はすべてを思いどおりになさる――公卿たちの中にはその専横を快く思わない者もいる。だが道長はそのような誹りを気にかけるような器ではなかった。  威子は六年前、十四歳の折りに尚侍となり内裏に入った。そして威子よりも九つ年少の帝の元服を待って入内し、そして今日中宮となった。すべては父道長の思惑通りに。 (ご満足ですか……父上)  皆が望月の歌を唱和する声が聞こえる。喜び、寿ぎ、この世の春を謳っている。 (でも私は)  倚子から崩れ落ちそうな身を何とか奮い立たせ、ここにいる。美しい衣裳に飾られた威子の体は、しかし憂いに満ちていた。  それをこの祝宴の場にいる誰も知らない。もちろん父も。そして決して悟られてはならない。  唯一、御簾の内で傍らに控える乳母の藤典侍のみが、涙を堪えてじっと前を見据える威子の胸のうちを案じて心を痛めていた。 「姫、お辛いのでしたら、中宮はお疲れだと皆様にお伝えいたします。そっとご退席を」 「いいえ」  きっぱりと威子は首を振った。この場から逃げるわけにはいかない。逃げたとて、運命が変わるわけでもない。だからここにいよう。だが。 (帝の后として、罪深いこととは十分承知しています。でも、せめて心の中でだけは…・)  心の中でだけは、そっとあの方の名を呼ぶことを許してほしい。許しを請うべき相手は御仏か、帝か、父か、姉か。おそらくはそのすべてだ。 (楡(にれ)の君)  この日冊立された中宮には、想い人がいた。御簾の向こうでは、望月の世を讃える宴が夜通し続く。  【二章 楡の君】  尋姫。そう幼名で呼ばれていた童女の頃、威子の世界は輝くもの、美しいもの、優しいもので満ち溢れていた。  寛弘三年(一〇〇六)暮れ。左大臣藤原道長の邸宅である土御門第は晴れやかな忙しさに包まれていた。道長の正妻源倫子(みちこ)が臨月を迎え、出産の準備に慌ただしかったのである。 「ああ、待ち遠しいこと」  母の大きくなったお腹に頬を寄せ、尋姫はうっとりと呟いた。倫子はおっとりと笑って尋姫の髪を撫でる。 「まあ、近頃のあなたはそればかりね」 「だって初めての弟か妹ですもの。女房の赤ちゃんを抱かせてもらっても可愛くて仕方がないのだから、自分のきょうだいならばどれほどでしょう」  尋姫は数えで八つ。これまで末っ子として甘えん坊でいらした姫が随分とお姉様らしいことをおっしゃるようになったと、周囲を囲む女房たちも微笑んだ。 「若君かしら。姫君かしら。どちらでも可愛いのだけど……やっぱり一緒に雛遊びがしたいから姫君が良いわ」 「そうね」  倫子は愛おしげに尋姫の髪と自分のお腹をそれぞれ撫でながら、しかしどこか伏し目がちに頷く。 「きっと殿も……あなたの父君も、姫をお望みでしょうね。私は男の子を二人生みましたからもう十分とお考えでしょう。でも、女の子は何人でも欲しいのですよ」 「どうして?」  自分から妹を欲しがっていながら、尋姫は母の言葉に目を丸くした。 「父上が姫と雛遊びをされるわけでもないのに?」  ふふ、と倫子は首を傾げた。 「そうね。でも父君は……姫が生まれて、中宮のお姉様のようにご立派になっていただきたいのよ。姫であれば、人臣の子といえどあのような栄誉に与る機会もありますからね」 「中宮のお姉様のように……」  尋姫に合わせて倫子が“中宮のお姉様”と呼んだのは、尋姫の長姉藤原彰子である。彰子は尋姫誕生の少し前に、時の帝(一条天皇)へわずか十二歳で入内。翌年には中宮に冊立されるという、女人として例を見ないほどの栄華を誇っていた。  それも父道長の絶大なる権力によるものであったが、幼い尋姫には政のことはよくわからない。ただ姉の中宮の住まう飛香舎(藤壺)が、たいそう煌びやかだということは理解できる。眩いばかりの調度品や衣裳、そして多くの女房に囲まれた内裏での暮らし。父や母に連れられて宮中へ上がることを許され、尋姫も飛香舎へ訪れることが度々ある。そのたびに、姉の住まう世界の美しさに圧倒されるのだった。  そして、そこには一人の男の子がいる。 (一の宮さま……楡の君)  その人は帝の第一皇子であった。帝に最初に入内した皇后定子所生の皇子だが、幼くして生母と死別し、母代たる叔母をもすぐに亡くした後、道長の意向により彰子の局で養育されていたのである。初めて会ったのは六つの頃だろうか。透き通るように色の白い、艶やかな美豆良のその宮を前に、尋姫は自分が恥ずかしいような、それでいていつまでも見ていたいような、不思議な感覚を覚えたのだった。 『一の宮と尋姫は同い年でいらっしゃる。ぜひ仲良くしてやってください』  思わず後ずさりそうになった尋姫の背中を押したのは満面の笑みを浮かべた父であった。 『はい』  一の宮は大人びた微笑みを浮かべて頷き、尋姫に手を差し出した。 『姫、面白い草紙があります。あちらで一緒に見ましょう』  差し出されたその手を、果たして自分は取ることができたのだろうか。今となっては思い出せない。ただ胸が高鳴り、舞い上がってしまったから。 『宮と呼ばれるのはあまり好きでない。わたしのことは楡と呼んでください。鷹狩りで見た大きな木の名ですが、わたしはその木が好きなのです』  ただその言葉はよく覚えている。まだうまく言葉で思いを伝えられない幼い自分に比べて、宮は――楡の君は、歌を詠むかのように実に堂々と話をする。大変利発な少年であった。そしてまた、淀みなく話すその声の美しいことは箏や笛の音にも譬えようがない。  後に知ったが、一の宮は乳母やごく近しい者にだけ自分をその名で呼ばせているらしかった。その名で呼ぶことを、自分にも許してくれた。それがたまらず嬉しかった。 『楡の君!』  折りに触れ姉の中宮の元を訪れるたびに、尋姫は一の宮とともに遊び、ともに学び、ともに楽を奏でて親交を深めた。  姉が里邸へ下がる際には一の宮を伴っていたため、土御門第の庭でも二人はともに駆け回った。  その後、内裏は火事により焼亡し帝や姉中宮、そして一の宮は里内裏へ移ったが、交流は変わらず続いている。  いつしか尋姫は長姉の話題が上るだけで、一の宮を思い出して小さな胸を鳴らすようになっていた。 「赤ちゃんが生まれたら、楡の……一の宮さまにも早くお見せしたいわ」  屈託なく、無邪気に呟く。尋姫のその様を見て倫子は優しく微笑みながらも、瞳の奥に微かな翳りを見せた。だが、幼い姫はそれには気づかない。 生まれてくる弟妹。優しい母。広大で、隅々まで整えられた土御門第。栄光の中にある姉。そして、一の宮と次に会える時を指折り待つ日々。 (赤ちゃんが生まれればお祝いの宴があるわ。そのときには必ず楡の君もお見えになるはず)  まことにこの世は美しく、愛しく、輝かしいもので溢れている。尋姫はその幸福に浴し、素直で明朗な少女に育っていた。  その幸福が何によってもたらされているものなのか。それを知るには、まだ尋姫は幼かった。  倫子の横では、桃色の頬の赤子が小さな寝息を立てている。生まれたばかりながら、この先の成長が楽しみになる器量だ。  年が明け寛弘四年(一〇〇七)一月五日、倫子は女児を出産した。四十四歳という当時では稀なほどの高齢出産だったが安産で、母子ともに健康だった。またひとり、姫を得た道長の喜びは大きい。この時生まれた姫は幼名を千姫と名付けられた。  そして七日の産養(出産後三夜・五夜・七夜に行われる祝宴)には、中宮彰子より様々な贈り物が届けられた。妹姫の誕生を祝う彰子からの心づくしの品々を前に、道長は「中宮がその母の産養いをするとは世にも珍しく、大変名誉なことよ」と高らかに笑った。 「中宮はたいそう大人びたな。何事にも万事行き届くようにおなりで私も鼻が高い」 「ええ、本当に」 「頂いた衣裳などもとても高雅な品々でしたな。あなたもご覧になったでしょう」  夫はいつも以上に饒舌だ。出産から十日ほど。まだ体が弱っている倫子は御帳台の中で横たわりながら、傍らに腰掛ける夫の言葉に頷く。  今日は儀式もなく、道長と倫子は家族で過ごす穏やかな宵の口をゆったりと噛みしめていた。 「それにしても千姫よ、たいそう愛らしい。父は誇らしいぞ」  小さい姫を見遣り、道長は目尻を下げる。やっと眠ったところをまた抱き上げるのではないかと倫子は少し身構えたが、道長は姫の頬にそっと指先で触れるだけだった。夫はよく眠っている赤子が好きなのか、子が生まれるたびに寝入っているところを頻繁に抱き上げては泣かせている。 「そなたも姉宮のように立派な后になるのだぞ」  倫子がほっとしたのもつかの間、愛おしげに赤子に語りかける言葉は、しかしやはり道長らしいものだった。 「気が早いことですね」  倫子はやんわりと、夫の言葉を軽くいなした。 「気が早いということはあるまい。后となるべき人は生まれながらに徳を備えているものでしょう。我が家の姫たちは皆、赤子の頃からその徳の片鱗が見えましたぞ」  なんといってもあなたに似て赤子の頃から美しく上品でいらっしゃるから、などと妻を持ち上げる言葉も忘れない。世の人々は倫子ほど夫から重んじられている妻はいないと噂するが、それはあながち大げさでもない話であった。  道長はまだ官位の低い若い時分に、左大臣家の姫である倫子に求婚した。倫子の父源雅信は、かねてより倫子を后がねとして育ててきたため、摂関家の正妻腹といえど五男に過ぎない道長との結婚に大反対した。  だが倫子の母、穆子(あつこ)が認めた。『いいえ、この方には見所があります。遠からぬ将来、必ずや大成なさるに違いありません』――その一言で、道長は倫子との結婚を許されたのであった。まこと、正妻の発言とは重いものだったのである。  そして穆子の予想通り、道長は優れた素質に時の運、姉であり国母(帝の生母)でもある詮子の後ろ盾も手伝い、若くして異例とも言えるほどの出世を遂げていった。穆子の目は正しかったのである。  しかし一方で、倫子には母が道長との結婚を勧めた理由の一片がわかっていた。道長の器量を見込んでのことであったのは間違いではないが、それ以上に、倫子に相応しい相手がおらず、穆子は内心焦っていたのだ。  親が結婚相手にあれこれと迷っているうちに、倫子は二十歳を超えていた。この時代の平均的な初婚年齢をとうに過ぎてしまったのである。  父は倫子を后がねとして大切に育てたが、倫子が婚期を迎える頃には、帝や東宮、もしくはその地位に近い親王たちの中には釣り合いがとれる人物がいなかった。理由は年の差の問題もあるが、第一に幾人もの皇子女が誕生していて後宮がすでに円熟しきっていたためである。  身分の高い后妃からすでに皇子が幾人も生まれている後宮へ、後から娘を入内させてもほぼ意味をなさない。入内の最大の目的はなんと言っても皇子を産み、いずれその皇子を帝位につけ、一門が帝の外戚として栄華を手にするためなのだから。  結果として、入内ではなく臣下道長との婚姻で倫子は大きな幸福を手に入れた。  結婚後まもなく彰子を授かってから、続いて幾人もの子に恵まれ、そして歳を取ってもなお、こうしてまたもう一人姫を産むことができた。長女は中宮となり、次女はいずれ東宮に差し上げるために尚侍に就け、息子二人も嫡子として重んじられて昇進も早い。倫子自身も正二位に叙せられ、夫からの信頼も厚いという自負もある。人臣の妻としてこれ以上の栄光はあるまいと世の人々の口にも上る。 (何よりも私の幸せを願ってくださった母上のお導きに間違いはなかった)  改めて母に感謝を覚える倫子であったが、しかし、果たして自分はどうだろうか。愛する娘たちを幸福へと導けているのだろうか。  后になること、そしていずれ御子が皇位に就き、国母となること。それこそが女人の最高の栄誉であり幸福である――そう信じてやまない人々は多いけれど。 「しかし、こうして可愛い赤子を前にすると……やはり中宮に未だ御子が授からないことが口惜しくてならぬ」  ふと、道長が声を落として呟いた。倫子ははっと息を呑む。それは他ならぬ倫子の心にもずっと引っかかっていることであった。だがその蟠りの理由は、夫のそれとは少し異なっている。  彰子が御子を、それも皇子を産まない限り、道長はずっとこのことを口にし続けるであろう。その父の言葉が彰子の重圧となっていること。何よりも彰子自身がそれを気に病んでいること。それがわかるからこそ、倫子は一刻も早い皇子誕生を願ってやまないのだ。 「こればかりは人間の思うようにいくことではありません。神仏にお縋りするより他ないでしょう。少し暖かくなりましたら、ご祈願のため山詣にでも参られませ。私は出産したばかりの身でご一緒はできませぬが、衣装など新しく調えましょう。とはいえ、近頃は中宮も大人びてこられたおかげか、帝のお召しも頻繁でいらっしゃると聞いています。間もなく良い報せが届くと私は信じておりますよ」 「ん、む」  いつになく饒舌な自分に気づく。夫にとっても意外だったと見え、少し戸惑って口を噤んだ。  倫子はたとえ彰子本人がいないところであっても、道長が皇子誕生の圧をかける様は見たくなかった。女房たちの手前もある。口の軽い者は側に置いていないつもりだが、人の話というのはどこでどう漏れるか知れない。『妹姫様ご誕生の折りにつけても、やはり殿は中宮方より良き報せがないことに焦れていらっしゃる…・』などという噂が届こうものなら彰子が気の毒でならない。  国母となる幸福とは、これほどの重圧を背負いながらも追い求めるものなのだろうか。それは娘の本懐と一致するだろうか。そしてもし、このまま御子が生まれなかったら。生まれたとしても皇女だったなら。  その先の道長の失望が手に取るように想像できる。そして、生真面目な彰子はそれをどのように受け止めることか。  トテトテトテトテ……  ふと、深い懊悩に沈みかけていた倫子の意識を現実へ引き上げる音がした。東の対の釣殿から、微かに箏を奏でる音が聞こえる。拙いながらも懸命なこの音は。 「尋姫か」  少し苦笑いをして道長は楽の聞こえる方へ顔を向ける。幼い姫の不器用な旋律に呆れながらも、道長の目は愛しげに細められていた。 「相変わらずなかなか上達しませんな」 「そうですね。楽は好きではあるようなのですが」  つられて倫子も微笑む。夫にもしっかりと我が子への愛情があることは見て取れるのだ。こうして互いに、ゆるりと子の成長に思いを馳せているときには。 「おや」  道長が少し目を見開く。ふいに、そんな拙い尋姫の箏の旋律を優しく導くように笛の音が重なったからだ。 「一の宮様ですね」  倫子にもその笛の音の主はわかった。歳に似合わぬほどの見事な旋律。幼くして、一の宮の笛の腕は大人顔負けといっても過言ではない。達者なのは楽だけではない。一の宮は何を教えても真綿が水を吸うようにすぐに覚え、自らの教養とする優れた資質の持ち主であった。話す言葉も物腰もおよそ童子のそれとは思えないほどに大人びていて聡明だ。 「お二人は釣殿で楽を合わせていらっしゃるのか。一の宮の笛に合わせれば、尋姫の箏も少しは達者に聞こえるものですな」  感心したように道長は二人の音色に耳を傾ける。  倫子も幼い二人の楽を微笑ましく思う一方で、また違う懸念も浮かぶ。 「あのお二人は今年九つにおなりですわ」 「そうですね。早いものだ」 「男女七歳にして席を同じゅうせず、と申しますでしょう。殿はいつまでお二人をともにお育てになるおつもりですか。近頃はすっかり馴染んで、実のきょうだいたちよりも親しげでいらっしゃいますけれど……」  どこか不満げな倫子の声音に、道長は心外だとでも言うように少し戯けた表情を向ける。「良いことではありませんか。仲良くしていただくためにあえて交流させているのですよ。あなたもおわかりのはずだ」  もしこのまま彰子に皇子が生まれず一の宮が東宮に立った場合には、一の宮の後宮に尋姫を入内させる。そのときに尋姫が他のキサキよりも寵愛を得やすくするために、幼少時より二人を親しませる。そしてまたそのような存在の姫がいることは、娘の入内を考える他の有力貴族への牽制にもなる。それが道長の策略だった。  もちろん尋姫はその意図を知らないが、道長の狙い通り、二人は幼いながらも仄かな恋心を抱き合っているように見受けられる。 (でも殿は、一の宮様を駒としか考えていない)  道長が彰子を一の宮の母代として育てさせているのは、すべて政敵である定子皇后の実家、中関白家に一の宮を抱え込ませないための策略だ。一の宮は今のところ帝の唯一の皇子であり、帝の鍾愛も深い。  政治家である以上、彰子に皇子が生まれなかった場合の予備も考えておかねばならない。そのために、次期東宮となり得る皇子の後見となっておく。道長にとって一の宮は現状ではもっとも重要な駒といえた。 「ですが、殿の本願が成就した暁には…・」  道長は何も答えない。だが言わずともわかる。彰子に皇子が生まれれば、一の宮はいらない駒となるのだ。  それならば二人の――尋姫の想いはどうなる。いらなくなった駒に大事な后がねである娘をやるほど、道長はお人好しでも政治的に不能でもないだろう。 「むごいことをなさいますのね。幼い人たちの中にも心がありますのに」 「童の心なぞ」  倫子の誹りに被せるように道長がわずかに語気を強める。すると、傍らで眠っていた千姫が目を覚まし、泣き出した。 「ああすまない姫、起こしてしまったな。――北の方よ、あなたもまだお疲れでしょう。体が弱っておいでだからそのようにあれこれと気にかかるのです。もうお休みください」  道長は一瞬怒気を孕んだ表情をすぐさま引っ込め、宥めるように笑って夜具を倫子の肩まで引き上げた。  泣く千姫を抱き上げて乳母の元にやり、倫子の肩にそっと手を添える姿は優しい夫そのものではあるが。 「それでは私はあちらへ失礼しよう。まだ仕事も溜まっていますゆえ」  夜具をもっと持ってきなさい、薬湯を枕元へ、などと女房に命じ、道長はそそくさと別棟へ立ち去った。  外では不遜にも見えるほど堂々と振る舞うこの年下の夫が、妻である自分の前では衝突しそうになるたびに表面的な優しさではぐらかして逃げる。若い頃は夫のそんなところが可愛いと思えなくもなかったが、子どものことで意見を違えそうになってもそのように逃げる様を見ると、呆れるやら腹立たしいやら。倫子はため息を落とすしかなかった。 (もっとも、私が何を言ったところで…‥) 世間の人からは道長から大層重んじられていると見られている自分も、母穆子のように言葉一つで夫の意思を変えることなど叶わないのだ。それは道長の頑迷な気質によるところも大きいが、倫子自身にも葛藤があるせいでもあった。迷いのある言葉では、人の心を変えることはできない。 『お母様聞いて、楡の君……一の宮様がね』  一途に一の宮を慕う尋姫の笑顔が思い出され、倫子の胸を締め付ける。  中宮には、その重圧から解放されるためにも皆が望むように皇子を生み参らせていただきたい。しかし幼い尋姫の想いが踏みにじられるのも辛い。すべては大人の都合であるのに。倫子の葛藤は深い。  釣殿からはなおも、寄り添い合う可愛らしい笛と箏の音が響いていた。  【三章 翳り】  同年夏、道長は彰子の懐妊を祈願して金峰山へ詣でた。  そして、満願成就。翌年秋、彰子は皇子(敦成親王)を出産。 (ああ……ようやく)  尋姫は肩を撫で下ろした。それはこの土御門第にいるすべての人間が同じ思いだった。 (お姉様がご無事でよかった)  里邸である土御門第で出産を迎えた彰子は、しかし難産に二日近く苦しみ抜いた。数十人もの僧たちの祈祷、陰陽師や霊媒の恐ろしげな叫び声が邸中に響き渡る。別棟に留め置かれた尋姫たち姉妹の耳にもそれは昼夜を分かたず届いていた。  このように時間のかかるお産、このような大仰な加持祈祷が続くことなど、母の出産では考えられないことだった。長くても半日もすれば可愛い赤ちゃんに会える、尋姫はそのくらいに考えていたのだ。  しかし、このたびの姉の出産では邸中が異様な空気に包まれた。加持祈祷の声や忙しなく廊を行き来する女房たちの足音を、尋姫は呆然と聞いていることしかできなかった。二歳の千姫はその物々しさに絶えず泣き続け、乳母がいくらあやしても泣き止まなかった。 (中宮のお姉様がどうかしてしまったらどうしよう)  まだ見ぬ若宮よりも、尋姫は姉の身が心配だった。お産で命を落とす者も多いということを幼い尋姫も知っていたからだ。現に、万が一のことを考えて道長は彰子の髪の一部を切り落とさせて形式上の出家の儀式を行っていたという。本当に命すら危ういところであったのだ。 (子どもを産むというのは、こんなにも恐ろしく大変なことなのだわ……)  尋姫は人知れず打ち震えていた。  そしてようやく迎えた若宮誕生。それも皇子である。邸中が悲鳴にも似た歓声に包まれ、尋姫たちが控える棟にも皇子誕生の報せは届けられた。 「ようございました。ようございましたね姫様。姉宮様がご無事に皇子様を……!」  報せに来た女房は、しかし涙で最後まで言葉にならない。彼女だけでない。女房たちは皆、化粧が跡形もなくなるほど泣いて喜んでいた。その様が可笑しくて、尋姫はやっと少し我に返って笑った。 「殿もさぞかしお喜びですわね」  乳母の藤典侍が涙に声を詰まらせながら言う。そうだ。お父様も今頃、天にも昇るほどお喜びだろう――皇子誕生がかねてよりの父の悲願であることは、この頃には尋姫にも十分理解できていた。父の喜びを思って尋姫の胸も弾んだ。 (そうだわ。楡の君は今どちらに)  嬉しいこと、楽しいことがあると真っ先に浮かぶのは一の宮の顔だ。 (楡の君にとっては初めての弟君ね)  一の宮も養母彰子の出産に伴いこの邸へ下がってきていた。初めての弟宮の誕生に一の宮もきっと喜んでいることだろう。そう考えると一刻も早く喜びを分かち合いたくなった。 「藤典侍、一の宮様にお会いして弟宮様ご誕生のお祝いを申し上げたいわ。案内してちょうだい」  居ても立ってもいられず立ち上がる尋姫に、藤典侍はいささか狼狽を見せる。 「姫様、あの……今はお屋敷中が騒ぎになっていて落ち着きませんから、宮様にお会いになるのはまた後日にされてはいかがです」 「今すぐがいいの。今すぐ宮様の喜ぶお顔が見たいのだもの。じゃあいいわ、自分で探しにいくから」 「あ! 姫様!」  藤典侍の制止も聞かず尋姫は庇に飛び出した。子どもとはいえ姫が邸内を走り回るなどはしたないと普段は母に止められていることだが、今日ばかりは胸の高鳴りに抗えない。  だが透渡殿に差し掛かったところで、尋姫の足はぴたりと止まった。庭先から笛の音が聞こえる。一の宮の音だ。 (庭先にいらっしゃるのね!)  顔を輝かせて庭を見遣ると果たして、池のほとりで笛を奏でる一の宮の背中があった。供も連れていない。たった一人だ。  そのことに少し違和感を覚えたが、一の宮を見つけたことの喜びが勝る尋姫はすぐさま彼に声をかけようと息を吸った。しかし、声はかけられなかった。 (どうして)  笛の音があまりにも寂しげだったからだ。  このような喜ばしい日に、そのように切なげな音を奏でるのだろう。曲そのものは、宮中の祝いの席でも披露されるおめでたいものだというのに。  いや、もしかしたら他の人間がこの音を聴いたところで、さして違和感は覚えないかもしれない。ましてやその旋律が切なげなものだなどとは。しかし尋姫にはわかった。一の宮の笛が、彼自身の言葉よりも雄弁なことを知っているから。   何も言えずに立ち尽くす尋姫の気配に気づいたのか、ふいに笛の音は止み、一の宮がゆっくりと振り返った。 「尋姫」  一の宮はゆったりと微笑む。そして尋姫の元へと歩み寄った。 「あ、楡の君。あの……」 「若宮誕生、おめでたいですね。中宮様もご無事で何よりです」  尋姫が言葉を探しているうちに、一の宮はすらすらと祝いの言葉を口にする。 「元気な泣き声を私も聞きました。皆が忙しそうにしているのでこっそり抜け出して、ここで祝いの笛を吹いていたのです」  だが、その口調はまだ十歳の童子とは思えないほどに大人びていて、尋姫はなぜか胸騒ぎすら覚えた。 「楡の君。もしかして、少しお寂しい?」  躊躇いつつもそう訊くと、一の宮は少しくだけた様子で笑った。 「そうですね。中宮様にはとても優しくしていただいていますから、弟宮に母を取られてしまうようで心配です」  その言葉は本音を交えてはいるが、何かをはぐらかすようにおどけているということがわかる。  一の宮が珍しくこちらの目を見ず、どこか遠くを見遣りながら微笑むからだ。澄んだ瞳の色が少し滲んでいるようにも見える。 「あの……」 「尋姫」  急にまっすぐ見つめられて、尋姫はうろたえる。鼓動が早くなるのは不安だからか。  あるいは思いがけず一の宮が、欄干に手をかける尋姫の指先に微かに触れたからか。 「もしかしたらこれからは、こうして容易く会うことはできなくなるかも知れません」 「え。どうして」  尋姫の問いに、一の宮は答えなかった。ただどこか儚げに笑うだけだ。  一の宮の指先は冷えきっている。握り返そうとすると、すっとその白い手は離れていった。 「それでも、これからもあなたを思って笛を吹きます」  一の宮は再び笛を奏で始める。その音はさきほどよりも柔らかく優しげだ。  若宮の誕生。土御門邸にとって――父道長にとって、この上なくめでたいこの日に、自分と一の宮の間では何かが終わろうとしている。幼い尋姫にもそれはわかった。涙が滲みそうになるのを必死で堪える。今、目の前で笛を奏でる一の宮の姿を、きちんと目に焼き付けておきたかった。  後から思えば、一の宮はあのとき何もかも理解していたのだろう。己の立場。己の行く末。それに比べて自分はなんと幼稚で無知だったことか――自らの幼さゆえに一の宮の孤独に寄り添えなかったことは、その後の尋姫の心に長いこと影を落とし続けることになる。  そして一の宮の言葉通り、二の宮・敦成親王誕生を境に、一の宮と尋姫は急速に遠ざけられていった。さらに翌年、続けて中宮彰子が三の宮(敦良親王)を産むと、それは決定的なものとなる。尋姫と一の宮は儀式の折に互いの姿を遠目に捉えるのみで、言葉を交わすことすら許されなくなっていった。  やがてそれぞれ元服と裳着を済ませた後は、その姿を見ることすら叶わなくなってゆく。  尋姫が一の宮の気配を感じることができるものは、饗宴の際に一の宮が遠くで奏でる笛の音だけになっていた。    【四章 幼帝】  一の宮の父・一条帝が三十二歳で崩御したのは、寛弘八年(一〇一一)夏であった。  春より病が重くなった一条帝は、東宮居貞親王(一条天皇の従兄・三条天皇)へ譲位し、自身は出家を決心していた。一条帝に残されていた今生への未練はただ一つ、一の宮の立太子についてであった。  鍾愛する一の宮の立太子は一条帝の宿願であったが、すでに一の宮の実母定子皇后方の伯父伊周も前年に死去しており、頼るべき後見はいない。母代として一の宮を養育する彰子の父道長は、しかし自分の孫にあたる皇子が二人も生まれた今、一刻も早く孫を皇位に就けたいと考えているのは火を見るより明らかだ。一の宮を擁立する者はもはやいない。近臣たちも道長を恐れて反対し、こうして一の宮立太子の道は絶たれた。 「……無念だ」  病の床で、一条帝は静かに涙を落とした。  傍らでそれを見守る彰子の嘆きも深い。父がこれほどまでに強引に孫の立太子を急ぐとは。后腹の第一皇子が立太子できなかったことなど、歴史を遡っても例を見ない。 彰子所生の二の宮はまだあまりにも幼い。まずは十歳年長の一の宮を皇位に就け、二の宮はその次の帝としても年齢的には差し支えがないものというのに。  夫の悲願を叶えることができない罪悪感。そして彰子自身、幼い頃から手元で育てた一の宮への深い愛情と葛藤に押しつぶされそうであった。  義理の母としての愛情ばかりではない。一の宮は血筋が高貴なだけでなく、資質も度量も父帝に似て極めて優れている。彼が皇位に就いた暁には、後世に名を残すほどの賢君となったことは間違いないだろう。一親王として終えるような人ではない。彰子にはそれが惜しくてならなかった。 (あまりではありませぬか、父上)  彰子は父を深く恨んだ。父が一言、慣例通り后腹の第一皇子をまずは東宮に立てると、そう言ってくれれば――だがそれは到底叶わぬことだった。この世で誰ひとりとして、あの道長の意思を曲げることなどできはしない。  一条帝の次の帝、三条帝の在位は五年にも満たない短いものであった。かねてより道長との軋轢が精神的負担となっており、三条帝はたびたび病に悩まされていた。そこへ、内裏の二度の焼亡という災難も重なり、三条帝の懊悩は深まるばかりであった。在位の終盤にはほぼ失明状態であったという。病を理由に道長は譲位の圧力をかけ続け、一〇一六年ついに譲位。そして一条帝の二の宮、彰子腹の皇子敦成親王(後一条帝)が即位した。わずか九歳の新帝である。 (ようやくだ)  高御座に座す新帝と国母彰子を見て、道長は満ち足りた思いで大きく息を吸い込んだ。  帝の祖父となること。帝の摂政となること。長年の悲願が達成された喜びはこの上なかった。このためにあらゆる手を尽くし、多くの人々の恨みを買ったことも自覚している。罵られ、泣き喚かれ、呪詛をかけられたこともある。それでも。  生まれてきたからには、この世のすべてを手に入れたかった。欲深い性を仏に額ずき許しを請う日々だが、さりとてもはやこの欲望は自身の魂と同化して離れることはない。離れるとしたら、それは自分が死するときだ。  そうしてようやく、道長はこの光景を手に入れた。不浄なるこの世に、それでも生まれてきた甲斐があったものだと、この日ようやくそう思えた。 (だがまだ完全ではない)  この世を完全に掌握するには、皇統をすべて自分の血統で占めねばならない。しかもそれは、自分の両の目が黒い間に達成されなければ意味がない。  道長はこの後、三条帝が譲位の条件として立太子させた三条帝の皇子にも圧力をかけて東宮の座を辞させ、強引に三の宮を立太子させたのだった。  【五章 雲隠れ】  この日、尋姫は後一条院に入内した。  選りすぐりの女房四十人ばかりを伴い、その支度の絢爛豪華なことは他に例を見ないほどであった。  入内に際し、幼名の尋姫から「威子」へと名を改める。歳は二十歳となっていた。 (恥ずかしい……)  意匠を凝らした調度品や衣装。本来であれば自身が入内してもおかしくないほどの名家出身の女房たち。道長の正妻腹の三女としてこの上なく華々しい支度で入内した威子は、しかし己の身を恥じていた。  この日夫となる帝は威子よりも九つも年下である。帝のことは生まれたときから知っていた。何しろ姉の子である。赤子の折に抱かせてもらった柔らかい温もりを今も覚えている。よちよちと愛らしく歩み寄ってくる様も、たどたどしい口調で和歌を詠み上げる小さな横顔も。その成長をたびたび間近で見てきたのだ。考えの至らない幼い自分は、その甥の后となることがほぼ決まっていたことなど知りもせずに。  遥かに年上のキサキの入内を、たいそう年若い帝自身はどう思っているのだろう。即位以降は直接会うことは叶わなくなっていたが、帝はまだ十一歳。記憶の中の面影とそう大差はないだろう。傍目には夫婦どころか親子ほどにも見えるのではないだろうか。威子は消え入りたいほどの気分だった。 「心配いりませんよ。あなたは小柄だし、童顔ですもの。それにあなたはご存じないでしょうけれど、帝は即位なされてから随分と大人びておいでなのですよ。お二人が並んでもそう不釣り合いということにはなりますまい」  母は諭すように優しくそう言ってくれたが、実際の年齢差が埋まるわけでもない。威子の不安は募るばかりであった。  それに、この入内が威子の心に影を落とすものは当然、その年齢差ばかりではなかった。   最後に二人で言葉を交わしたあの日から今もなお、威子の胸には変わらず一の宮への想いが生きていた。一の宮は皇位から遠ざけられた代わりに、皇族に与えられるもっとも高い品位である一品を与えられ、后腹の親王に相応しく格調高く暮らしているという。数年前には宮家の姫を娶ったと聞いた。姫は威子の兄頼通の妻の妹であり、道長が勧めた縁談だったという。 (楡の君。もう、何もかもが遠い)  あれほど親しくともに育ったというのに、互いに別の人と結婚をし、もう会うことも叶わない。それが何とも不思議でならない気がした。このような運命になるのなら初めから 出会わなければよかったのではないだろうか。 いや、出会わされてしまったのだ。父に。父の勝手で出会わされ、父の勝手で引き離される。そのために今こうして、胸が潰れそうなほどに苦しんでいる。  一の宮はどうだろうか。同じ思いを抱えているのだろうか。それとも身勝手な男の娘のことなどとうに忘れて静かに、幸せに暮らしているのだろうか。それを願う心と、淋しく思う心。どちらも威子の本心だった。    入内の儀式では帝の顔を直視する間もなかった威子が改めてその姿を間近に見たのは、ともに夜御殿に入ってからであった。初夜である。  喉が詰まるような緊張を覚える威子に比べ、十一歳の帝は打ち解けている様子だ。威子に向かい合って座り、ゆったりと微笑んでいる。 「久しいな、尋姫。童の頃よくそなたに遊んでもらったのを覚えている。こうして間近に顔を合わせるのは三年ぶりだろうか」  帝の言葉に威子は驚いて顔を上げた。声変わりの来ていない高く澄んだ声ながらも、その言葉は実に堂々として威厳のあるものだった。 「やっと顔を上げた」  そう言って少し肩をすくめるさまも実に大人びていて、威子はなんと言葉を返してよいかわからない。 (いつの間に、こんなに……)  数年前、まだ彰子の足下で走り回っていた童子の印象からはまるで違う。顔立ちこそはまだあどけないが、その表情はすでに、世の頂に立つべき人のものに相違なかった。体つきも大きく成長し、細身ながらも身長は小柄な威子とあまり差がないように見える。 「どうした」 「いえ、帝があまりにもご立派におなりで。いつまでも子どもじみている自分の身が恥ずかしゅうございます」  威子はやっとの思いで答える。本心だった。思っていた以上に成長していた帝を前に、自分の幼さが恥ずかしく、消え入ってしまいたいほどだった。 「そなたはそのままでよい。むしろ昔はもっと朗らかであったろう。その頃と変わらず接してくれればいい」 「は……い」  幼少時の帝から見た自分はまだそんなふうだったのかと、威子は密かに小さく息を吐いた。初めのうちはまだ何もわかっていなかった。一の宮となかなか会うことができなくなっていても、それは一時のことだと楽観していた。だから明るくもいられたのだ。   そしてふと、帝を前に別の殿方のことを考えた自分の罪深さに、威子は手のひらを固く握った。 「……さあ。もう休もう」  緊張が解けない威子をよそに帝は大らかな様子で小さなあくびをし、褥に横たわる。 「あ……」  威子は慌てて顔を上げた。 『帝はまだたいそうお若くていらっしゃいます。あなたは九つも年長のキサキなのですから、そういったことはあなたからお導きしなければなりませんよ』  床入りを迎えるにあたって、母が厳しく言い渡してきた言葉を思い出す。だが威子の体は動かない。どうすれば良いかわからない。 「姫。どうか、お進みくださいませ……」  几帳の裏に控える帝付きの女房が密かに声を掛ける。帝の閨で控えの者がキサキを促すなどまずあり得ないことだが、床入りは儀式の一環でもある。几帳の向こうには他に幾人もの女房と、そして倫子が控えていた。それゆえに女房たちの焦りも大きいのだろう。  背を向けて横になった帝の傍らに、威子はようやくいざり寄る。まったく自分でも情けないことだった。そこからまた動けないのだ。 すると、帝がにわかに半身を起こしてこちらを向いた。細い腕を伸ばし、威子の袖を引く。 (驚いた……)  動揺したまま威子も帝の傍らに横たわった。そこへ倫子が二人に夜具を掛ける。床入りに妻の親が夜具を掛けるまでがすべて婚礼の儀式であった。  それを済ますと倫子も女房も静かに退出していく。その衣擦れの音を聞きながら、威子は自分の鼓動が大きくなっていくのを恥じていた。 (帝に聞こえてしまうわ)  ゆっくりと帝のほうへ顔を向けると、帝はこちらを見て微笑んでいた。その顔立ちはやはりまだあどけなく、少年のそれである。 「疲れたろう」  ささやくように帝が問いかける。 「いえ……」  そう返すのが精一杯だ。本当は疲れと動悸で目眩すら覚えている。 「私は疲れた。やはり儀式は疲れる。本当は堅苦しいのは苦手なのだ。母上には常に居ずまいを正すよう叱られるが、長丁場ばかりでかなわぬ」  帝は御簾の向こうに控える女房たちに聞こえぬよう小声でそう言い、屈託なく笑う。 「そなたとは話したいことがたくさんあるが、今宵はもう寝よう」 「え、あの」 「時間はこれから、いくらでも、ある……」  言うが早いか帝はすうっと目を閉じ、すぐさま小さな寝息を立て始めた。  威子は安堵したような畏れ多いような、不思議な思いでしばらく帝の寝顔に見入っていた。線の細い聡明そうな顔立ちは彰子によく似ている。しかしいささか神経質な姉に比べ、帝は豪放磊落ともいえる雰囲気を纏っていた。 (不思議なお方)  物腰や言葉は大人びており、さきほど威子の袖を引いたときの力強さは思いがけないほどの男性らしさもあった。一方で見せる、床入りで妻に指一本触れることなく寝入ってしまう幼さ。  当然まだ年少だということもあるが、それにしても初めて女人と床をともにしてもためらいや戸惑いを見せない豪胆さは、希有なものなのでないだろうか。年嵩の自分ばかりが狼狽する床入りとは恥ずかしいばかりだ。 (もっとも、叔母でもある私に遠慮がおありか、妻としては見られないだけなのかもしれないけれど)  申し訳なく、心苦しいことだった。本来ならばもっと年の頃も近い、似合いの姫君が最初に入内してきたことだろう。道長の娘、彰子の妹という自分のこの立場がなければ。もちろん、やがてはそういった可愛らしい姫君が次々に入内してくるはずだ。自分はただ、権威の象徴として内裏に控えるだけの身となるに違いない。それはもうやむを得ないことだ。妻でなくてもいい、せめて姉のような存在とでも思ってもらえたなら、十分有り難いことだといえよう。 (それにしても、やはり)  母親似のためだろうか。帝は、異母兄である一の宮とはおよそ似たところが見当たらない。そのことに威子は少なからず安堵していた。  もし一の宮の面影に似た人を夫としたならば、それはあまりにも辛いことだっただろう。    同年秋、威子立后。  父の望月の歌を聞く威子の心は、しかし未だ晴れることはなかった。    秋が過ぎ、寒さが厳しくなっていく中で、威子は頻繁に昔の夢を見るようになっていた。 昔の夢。一の宮と戯れていた日々の夢。  畏れ多くも帝が眠る傍らで。罪深いことだと思いながらも、その夢を楽しみにしている自分がいた。眠れば一の宮に会える。それはいずれも優しい記憶だった。おぼつかない箏の旋律を、優しい笛の音で導いてくれた。池に落ちた鞠を、袖を濡らしながら拾ってくれた。一条帝より賜った白い子猫をともに可愛がった。あの猫はどうしているだろう。一の宮の邸で今も養われ、北の方にも愛おしまれているだろうか。一の宮の北の方に――  そうして目覚めると、いつも泣いている。楽しみにしている夢だというのに涙は思うままにならない。帝が目覚める前に拭わなくてはと思うからか、目が覚めるのはいつも夜明け前だった。  そうしてしばらく過ごしているうちに、泣き腫らした目はごまかしがきかぬほどに赤く なるようになってしまった。 「寒さで少し体が弱ったようです。軽い風邪のようですがなかなか治らないので、しばらく里邸へ下がらせていただきたいと存じます」  そう言って威子は内裏をしばらく離れることにした。赤く腫らした目で帝の側に仕えるのは心苦しい。そして何よりも、自分の胸の内の思いが露呈するのを威子は恐れた。 「そうか。大事にせよ」  帝は何も聞かず、静かに威子を送り出した。中宮の地位を得てもどこか沈みがちな威子の様子に、この頃には帝の口数も減っていた。  そうして一時的に戻った土御門第で、威子は一の宮と再会を果たしたのである。  静かな夜だった。そしてとりわけ冷える夜だった。  その日道長と倫子は、道長の父母の供養を行うため別邸に滞在していた。家に仕える者たちも多くがそれに従っており、土御門第には威子のごく近しい女房幾人かと小間使いの者たちだけが残されている。威子の目の腫れはほとんど引いていたが、娘が長引く風邪を患っていると信じている道長は大事を取って休むように言い、土御門第に威子を留め置いた。 (父上にまで嘘をつき、私は何をしているのかしら)  己の不甲斐なさと、理由もなく押し寄せる妙な胸騒ぎに、威子は寝付くことができずに庇で外を眺めていた。月明かりが煌々と庭を照らしている。 「中宮様、夜も更けてますます冷え込んでまいりました。そろそろお休みください」  藤典侍が心配げに声を掛ける。だが威子はどこか上の空で、袿の前を引き合わせて小さく息を吐いた。 「あなたは先に休んでいなさい、藤典侍」 「ですが」 「良いから。今宵は、もう」 「……承知しました。失礼いたします」  少しの間を置いて、藤典侍は下がった。威子の胸の内を察したのだろう。  今はどうしても一人になりたかった。内裏では中宮付きの女房の他、大勢の内の女房(宮中女官)たちの目もあり、神経が安らぐ暇もないように思える。ようやく里邸に戻ってきて、今は誰の目にも晒されたくない思いだった。乳母である藤典侍にはもちろん心を許しているが、その乳母すら疎ましく感じるほどに、威子の心は疲弊していた。 (私は一体いつまで)  いつまで、一の宮への思いを断ち切れないまま生きるのか。  その時、ふいに雲が月を隠した。庭先も邸の内もたちまち闇に包まれる。 「尋姫」  はじめは幻聴かと思われた。暗闇で覆われた庭先から届くその声は、記憶の中よりもずっと低く大人びていた。 「尋姫。そちらにおいでですか」  けれども声の余韻と柔らかな響きは、まさしく一の宮のものであった。聞き間違うはずがない。あまりのことに、威子は咄嗟に言葉が出ない。 「突然お尋ねした非礼をお許しください。今は中宮におなりですね。私を覚えておいででしょうか」 「楡の君」 「はい」  声の調子が、少し微笑んだように聞こえた。 「楡の君……!」  威子は思わず簀子へ飛び出し庭へと身を乗り出す。にわかに月を隠していた雲が流れた。  果たしてそこに、淡く光を放つように佇む一の宮の姿はあった。あの頃よりもずっと凜々しく、しかし今にも消え入りそうなほどに儚げな人。夢で見ていたよりもさらに美しい。 「来てくださったのですね……!」 「許されぬことですが」  帝の后と御簾も隔てず言葉を交わす。互いの顔を見つめる。それがどれほど罪深いとされていることか。その罪を承知で、一の宮が来てくれた。  威子は言葉が出ない。 (私はいつもこう。大事なときに言葉が出てこない……)  胸が詰まって、感情が溢れて、何も言えなくなってしまう。  肩を震わせて泣く威子に、一の宮は深い声音で告げる。 「どうしても今宵、お会いしたかった。ずっと記憶の中のあなたの面影を辿っていました」 「私も」  このときをずっと待っていた。入内し、中宮ともなった今、それは永遠に叶わないことだと諦めてもいた。 「尋姫は変わりませんね。泣き虫なのは昔のままだ」  幼い子どもを慰めるように少し茶化して笑う一の宮に、威子も涙ながらに笑い出す。 「楡の君も変わってない。……私、もう二度と会えないかと思っていました」 「ええ。――でも本当に、今宵が最後です」  一の宮はまっすぐ目を見つめて、残酷なことを口にした。優しい微笑みを浮かべながらも、それは毅然とした口調だった。 「どうして」  罪を承知でここまで会いにきてくれて、どうしてそんな酷なことを言うのだろう。このまま何もかも捨て置いて逃げようと言ってくれたなら――否、それは叶わずともせめて。 「ならばせめて、もう一度この手に触れてください。あの日……帝がお生まれになった日のように」  ゆっくりと、威子は一の宮へと手を差し出す。だが、その手は虚しく虚空に取り残された。一の宮は動かない。困ったように、どこか淋しげに微笑むばかりだ。 「あなたはもう、弟の后だ」 「わかっています。だから、ただ今一度だけでいいのに」 「尋姫」  一の宮が何かを言い募ろうとしたとき、再び雲が月を覆った。 (ああ……月に照らされなければ、私はまた楡の君を見失ってしまう)  望月の、父の威光に照らされなくなった一の宮を。 「どうか、幸せに」  暗闇の中、優しい一の宮の声だけが響いた。そして奇妙なほどにたちまち、かの人の気配は消えてしまった。 「楡の君……?」  まるで最初からそこにいなかったかのように。  翌朝、まるで眠れずに夜を明かした威子の耳に、一の宮薨去の報せが届く。突然病を発して昨日の夕刻に自邸で息を引き取った、と。享年二十歳。  養母として長年一の宮を見守ってきた彰子は、激しく取り乱すほどに嘆き悲しみ、ついに皇位につけることができなかったことを悔やんだという。  【六章 幻】  生来病弱であった帝がいっそう病に伏すようになったのは、一の宮薨去以降のことである。たびたび大きな病を得て、そのたびに長患いとなる。威子と彰子が傍らで片時も離れず看病をするが、体調が回復したと思えば、さして間を置かずまた次の病に冒される。三、四年ほどはそのような状況を繰り返した。年若い帝が病に苦しむ姿は、周囲の胸をひどく締め付けるものであった。  やがて、帝の病は一の宮の怨霊によるものではないか、という噂が囁かれるようになった。后腹の第一皇子として生まれながらも弟宮へ皇位を奪われてしまった一の宮の無念の魂が未だこの世を彷徨い、帝に祟っているのだと。  威子はもはや言葉も涙も出ない。ただひたすら周囲の声に耳を、心を閉ざすことしかできない。 「下らぬ。怨霊など」  青白い顔で薬湯を飲み干しながら、帝はきっぱりと言い放った。 「兄上の人柄を知る者ならば、そのような戯れ言を口にできるはずもない。何も知らない新参の女房たちが噂しているのだろう。耳にするのも不愉快だ。つまらぬ噂を口にする者は罰すると、厳しく申し渡せ」  明らかに不機嫌そうに眉を寄せ、帝は女官長に命じる。  ここまで負の感情をあらわにするのは珍しいことだ。そう思い、傍らに寄り添う威子は少し狼狽える。 「ですが……入道殿もひどく帝の御身をご心配され、大がかりな祈祷をなさるおつもりのようです」  道長は威子の立后からほどなくして出家し、入道と呼ばれていた。女官長は帝の三倍ほどの年回りの古参であるが、普段は鷹揚な帝の見慣れないその様子に、やっとの有様でおずおずと言葉を重ねる。 「兄上の怨霊を祓う祈祷を行うというのか」  怒気を孕んだ声に、女官長は頭を上げることもできない。 「帝」  落ち着いた女人の声が、威子の傍らから帝へかかる。彰子だった。 「女房を咎めるような物言いをなさっても詮無きこと。それよりはどうか」 「ああ。直接入道と話をせねばなるまい」  彰子は目を伏せ、小さく頷く。 (父上と?)  威子の背中に冷たい汗が伝った。位では道長の上に立つ中宮となって三年が経つ威子は、しかしなおも父に真正面から物申すことなど到底考えられなかった。出家した身であり、年齢的なものもあって普段は好好爺然としてきた道長だが、やはりふとした拍子に激しく怒りを顕わにするときがある。その威圧感に威子は今も萎縮してしまうばかりなのだ。 (でも、帝も姉上も恐れないのだわ…・)  一の宮の名誉のために。  それから半日も置かず、道長は参内した。 「帝。おかげんはいかがですかな」  帝の体調を伺う道長の口調は未だに、幼い孫に話しかける様子とそう変わらない。息子や娘たちよりも一番に初孫である帝を溺愛する道長ゆえのことではあるが、一方でそれはまだ帝を子どもだと軽んじている意識の表れでもあった。 「入道」 「ああ、どうか横になられたままで。ご無理をなさらないでください」  褥から半身を上げようとする帝を、道長は大仰に押しとどめる。 「大丈夫だ。きちんと向き合ってそなたと話がしたい」 「話、とは」 「白を切らずともよい。怨霊祓いの祈祷を催そうとしていること、聞き及んでいる」  毅然と帝が言葉を発すると、道長の顔から笑みが消えた。 「我が兄を、祓うと申すか」 「帝のためにございます」 (いいえ父上、そればかりではありますまい)  御帳台の外で控える威子は、密かに両の手のひらをきつく握りしめる。道長の真意は威子にも察せられるところだった。  溺愛する孫を心配するあまり、という理由も偽らざる真実ではあるが、何より道長は中関白家の権威をさらに貶めるために、その血筋である一の宮を死してなお利用したいのだ。 大々的に怨霊払いを行うことで、一の宮が怨霊ととなり帝の脅威となったとより強く世間に印象付ける。今後二度と、中関白家が己の一門の繁栄を脅かすことのないように。そしてそれは同時に、他の有力貴族たちへの牽制ともなる。  それがわかるからこそ、帝の怒りも激しい。 「怨霊などいない。入道よ、生まれついてからずっとこの体が弱いことはそなたもよく知っているはすだ」 「万が一もございます。私は帝のために万事を尽くしたいのです」 「兄は」  絞り出すように言いかけると、帝は激しく咳き込んだ。小康状態とはいえ、まだ少し熱もある。声も苦しげに涸れ始めていた。 (これ以上無理をされては……)  威子は咄嗟に帝の身を案じて腰を上げたが、傍らの彰子の手で静かに制止された。 (姉上……)  見守っていなさい、彰子はそう囁くように威子を見遣った。 「兄は、そのような方だったと……弟を祟るような方だったと、本当にそうお思いか」  道長は答えない。表情を変えず、ただゆるりと帝の背中をさする。 「それならば――私が死に、三の宮の身に何かがあったときには私をも怨霊と呼ぶか」 「まさか。帝のような優れたお人柄の方の魂は、永遠に清らかなものです。それよりも、そのように不吉なことをおっしゃるのはおやめください」 「人柄、か。入道。かつては兄の後見を務め、祖父がわりでもあったそなたが一番わかっているはずだ。兄がどういう人であったか。……そうでしょう、おじい様」  固く口を引き結び表情を見せなかった道長の眉が、わずかに動く。 「あの穏やかな人が本当に怨霊として現れるというならば、それは」  帝は冷たい汗が滲む両手で、強く道長の腕を掴んだ。 「それは、私やあなたの罪が作り上げた幻だ。人は幻に殺されたりなどしない」  道長はその後、怨霊祓いの祈祷を取りやめ、一の宮の供養をさらに手厚く行った。  当代一の権力者が怨霊祓いを中止したことにより、一の宮の怨霊にまつわる噂は次第に収束していく。  最愛の孫であり今上帝でもあるとはいえ、あの道長公の意思を変えるとは――人々は密かに帝の器に感服した。時に帝は十五歳。病がちな体の中に、強い信念を宿していた。 (楡の君……)  ずっと暗く閉ざされていた威子の胸に、一筋の光が差した気がした。それはまだ、一の宮との別れがもたらした闇を取り払うには到底及ばない微かな光ではあったが。 (あなたの弟君は、とても強い方です) ならばせめて自分も、あの方の中宮として恥じないようにありたい。 なお一の宮に心を残しながらも、威子の中には新たな思いが芽生えていた。   【七章 笛】  これまでの人生は何一つ、自分の思うままにはならなかった。威子はずっとそう思ってきた。入内から七年後にようやく産んだ御子が皇女であったこと。その二年後に生まれたのもまた皇女で、帝の皇統を継ぐべき皇子を産めずにいること。それらもすべて、思うままにならない己の身を悲観するには十分なことだと威子には思えた。  そうはいっても、生まれた皇女はいずれも胸が痛くなるほどに愛おしい。これほどにも愛おしい存在だというのに、周囲の者たちも一様にその誕生に落胆した。  ただ一人、帝を除いて。 「何を嘆くことがあるか。古くは女帝が立ったこともあるのだから」  そう言って落胆する人々を宥め、帝は二人の皇女をこの上なく鍾愛した。  二十歳を超えた頃から、帝は病に伏せることも少なくなっていた。体力も精神力も充実し、自ら政を行う。母に付き添われて即位式の高御座に上がった童帝の面影はもうない。  道長は、威子が第二皇女を産む前に六十二歳で死去した。世に叶わぬものはないと言われた大権力者としての生涯であった。 (父上はすべてを叶えた。すべてを手に入れた。私はどうだろう。私は――)  これまでの自分は、本当に何一つ思う通りにならない人生だっただろうか。仮に思い通りにならなかったとして、果たして不遇であったといえるのか。その思い込みは、実は大変な驕りだったのではないだろうか。  定められたもの、巡り合わせたものでも、その先で出会ったものはそれぞれに尊い。 「そう気づいて、やっと少し胸の中の霧が晴れた心地がしました」  格子を開け放ち青白い月を眺めながら、帝と威子は語らっていた。思いつくままのことをゆったりと語る威子を、帝はただ黙って見つめている。 「あ……申し訳ありません。自分の話ばかり」 「構わん。そなたが自分の話をするなど珍しいからな。もっと話してくれていい」 「もうありませんわ」  威子は肩をすくめて笑った。その表情にはわずかに幼少期の無邪気な尋姫の面影がある。「私の話はこれでおしまいです。それよりも、帝。これからの話をいたしましょう」  威子の声の調子が変わったことに気づいて、帝は酒の残っている杯を置いた。  まっすぐ帝へと向き直り、威子は祈るように帝の目を見据えた。 「どうか、他のキサキをお迎えください」  帝は表情を変えぬまま、わずかに息を呑む。怯むことなく威子は続けた。 「兄上たち……教通公や頼宗公から、娘たちの入内を持ちかけられていますね。女房らは私に憚り、話を伏せていますが。その動きは私も承知しております」  帝には未だ威子以外のキサキはなく、皇子も生まれていない。道長亡き今、摂関家を背負う兄たちが自身の娘の入内を望むのは当然の流れであった。 「そのお話、お受けくださいませ」  帝はすっと目を逸らし、夜空を見遣った。  月明かりに照らされた精悍な横顔は、男性としても君主としてもこれからますます盛りを迎えるだろう。それに対し、威子はすでに三十歳をいくつか過ぎ、二人の皇女を産んだ後はもう何年も懐妊の兆しがなかった。このままでは帝の男系が途絶える可能性は高い。 「そも、帝のキサキが一人だけというのはあまりにも異例です。父が存命の頃にそれを強いたのでしょうが、今はもう何も軛はありませぬ」  それに何より威子自身が、帝の血筋を途絶えさせたくはなかった。帝の同母弟である東宮三の宮にはすでに皇子がいるため、道長の血を引く皇統が途絶えることはないが。 「私は、あなたの血を途絶えさせたくないのです。これは私のわがままかも知れませんが、どうか聞き入れてはいただけませぬか」  かつて、入内した折にも当然覚悟していたことではあった。次々に若く美しい姫君が入内してくるのだろうから、自分は姉代わりでもよいと。だが今、正直に言えば帝が他の女人に心を向けるさまを思うと胸が痛む。姉代わりでよいと思えていたほうがよほど救われていたと感じるほどに。  それでも、帝が新たなキサキを迎え寵愛が移り、我が身がまったく顧みられなくなったとしても決して嘆くまい。運命の巡り合わせをすべて受け入れる決心はついた。 「血か」  ふと、帝はため息のような笑みを漏らす。感情の読み取れないその苦笑に、威子は少し当惑した。 「そうだ。あれを」  急に何か思い立ったように、帝は奥に控える女房に呼びかける。女房はすぐさま、帝の元へ一本の笛を差し出した。 「父の遺愛の品だ。父帝は笛が堪能でいらした。早くにお隠れになり、私は父の音を伝授していただく機会はなかったが。近頃は手すさびに少し習っている」  そう言って笛を口元に宛てがう帝を、威子は呆然と見つめていた。確かに、帝が笛を奏でる姿は初めて目にする。  少し心許ない旋律。名手であった一条帝や一の宮の音には遠く及ばない。だが、どこか懐かしい響きがあった。 「なぜ泣く」  笛をやめ、少しきまりが悪そうに帝は威子を見遣る。威子は目を見開いたまま、気がつけば泣いていた。 「そなたはよく泣くな。昔からそうだ。いつだったろう。幼い頃の宴の席でも、笛の音を聞いて泣いていたのを見たぞ」 (そう……見ていらしたのね。幼いその目で)  一の宮を恋しがって泣く我が姿を。 「そなたは元々明るい性質であったのに、いつの頃からかいつも淋しげだったな。なぜだろうと、幼心に気になっていた」 「帝、私は……帝にお伝えしなければならないことがあります。私は……私はずっと」  もはや慟哭とも呼べるほどにひどく泣き崩れ、威子は言葉がうまく紡げない。しかし言わなければならないと思った。この人の隣で、ずっと誰を思っていたか。 「言わずともよい。その話も、他のキサキに関することも」  有無を言わせぬ口調だった。 「言わなければならないことではなく、言いたいことを申せ」  言いたいことを言え。摂関家の姫に、藤原道長の娘に生まれて、そのようなことが許されたことはかつてなかった。己を押し殺し、父の望みを叶えることこそが自分たち姉妹の唯一絶対の存在理由であったのに。  威子は大きくゆっくりと息を吸い込む。 (楡の君。今、本当にお別れです)  威子は胸の中の一の宮とようやく永訣した。  帝にまっすぐ向き直る。 「帝。生涯――いえ、この身が朽ちて魂は六道を彷徨おうとも、永遠にあなたをお慕いいたします」  初めて言いたいことが言えましたと、少女のように威子は笑った。  その後、皇子の出産を今一度切望した威子は、香取・鹿島神宮に大がかりな祈願を行う。かつて村上天皇の中宮安子が、鹿島社に祈願して皇子を授かったことに肖るためであった。  しかし、威子が皇子を産む日はついに来なかった。  長元九年(一〇三六)。二十九歳となった帝は再び病に臥せり、春に崩御。後一条天皇と追号された。在位二十年にして、極めて異例なことにキサキは生涯ただ一人であった。  悲しみが体を弱らせたか。後を追うかのようにその数ヶ月後に威子も病に倒れ、まもなく崩ずる。三十八歳であった。  遺児である章子(あきこ)内親王と馨子(かおるこ)内親王は彰子に引き取られ、後にそれぞれ後冷泉天皇、後三条天皇に入内。章子には子がなく、馨子が産んだ一男一女はいずれも夭折した。  だが二人の内親王は生涯、夫からも世の人々からも非常に重んじられ、天寿を全うしたという。                                        終
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