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出逢い
高校を卒業して、
果たしたい夢を描けないまま
大阪から上京してきた。
バイト先のコンビニで知り合った、
常連のお客様から今の職場を紹介してもらい、
雇われ店長として働き始めてから
もうすぐ10年になる。
30代を迎えたというのに
彼女どころか友達もほとんどいなくて、
それでも何となく自分は
このままマイペースに生きて行けると
思っていた。
大好きな本に囲まれながら
人間関係の構築に悩む事のない仕事に就き、
贅沢はできないが独り暮らしはできている
この環境を、楽しんでさえいた。
そんな僕の前に、彼は突然現れた。
駅前という好立地ゆえに違法駐輪が
後を絶たず、開店準備よりも先に店舗の
シャッターの前に停められている自転車を
片付けるのが日課となっていた。
長年続くその日課に諦めの境地でいた僕は、
その日も淡々と鍵のかかった自転車を
持ち上げ、すぐ横の歩道にわずかな
歩行者の通り道を残すように並べていた。
「その自転車」
振り返れば、彼が心配そうな顔で
僕に近づいてきていて。
「片付けるの、手伝いますよ」
そう言うが早いか、
彼は僕の抱えていた自転車を奪い取り、
素早く横に下ろした。
「下北沢のいいイメージが台無しですね。
こういうマナーの悪さで」
思わず身をかわしてしまうくらいの距離の
詰められ方に戸惑う僕をよそに、
彼は次々と自転車を持ち上げ、
器用に脇に寄せて行く。
僕より細い腕の持ち主、
どこにそんな力があるんだ?と
呆気にとられている間に、
いつもなら10分はかかるその作業が、
彼の手によって5分に満たない時間で
終わってしまった。
「あ、ありがとう…ございます」
スッキリした店舗のシャッターに目をやり、
ぎこちなく微笑んだ僕に。
「いえいえ。僕バイトがありますので」
爽やかな笑顔と癖のある甘い声を残し、
早足で去っていく。
ポケットの鍵を取り出しながら、
目だけで行方を追うと、彼は数件先の
カラオケボックスに消えた。
それを見て「ああなるほど」と思った。
そこで働いている子たちは、
社交的で自発的な雰囲気を持っていて。
考えるよりも先に行動してしまうような
感じで、かなり自分とはかけ離れている
人達だった。
決して彼らのようになりたいとは思わないが、
いつもカウンターの内側で賑やかに
笑い合っている彼らを見る度に、
自分だけ取り残されたような感覚を抱き、
少しだけ寂しくなっていた。
とはいえ、
彼らとは住む世界が違うだけだ。
ひとつ息を吐き、ネガティブな感情を
追い出してから、シャッターを上げた。
それで終われば、記憶にも残らず埋もれて
しまっていただろうが、その数日後。
店番をバイトの子に任せて、少し遅めの
昼食を摂るためにファーストフード店に
入った僕は、偶然受け取り待ちの列に
彼がいるのを見つけた。
何となく気まずく感じたので、
彼に気づかれないように
その場から離れようとしたが、
ちょうどトレイを持って
こちらを振り向いた彼と目が合い、
微笑まれてしまった。
「こんにちは。今、お昼ですか?」
「あ、はい。そうです」
「良かったら、一緒にどうですか」
「え」
あまりにも自然に誘われてしまって、
驚いた。
「先に行って、席を取っておきますね」
僕の返事を待つことなく、
彼は2階席へ続く階段を上っていった。
その様子を見て断られることを
考えないんだなあと苦笑いしてから、
嫌な印象を抱かない自分に不思議さを覚えた。
トレイを持って2階へ上がると、
窓際の2人掛けの席に彼はいた。
「ここでーす」
僕の姿を見つけて、
気さくに手を振ってくれていたが、
僕は顔に相変わらずのぎこちない微笑みを
貼り付かせたまま、静かに座った。
「…カラオケボックスの、バイトの人
なんですよね」
とりあえず何か喋らなきゃとシェイクを
一口飲みながら、言葉を紡ぎ始めた。
「そうです。店長さんは、カラオケ
しますか?」
「いや、歌はあまり…え。店長さんって」
「違うんですか?古本屋の店長さんだって、
聞いてますよ」
「ああ。まあそうですけど」
誰に聞いたんだろう、と思った。
「じゃあ、店長さんで大丈夫ですよね」
「…いいですよ」
何だろう、この心地いい感じは?
いつもは他人と話す時は、緊張するのに。
「どうしたんですか?店長さん」
「いや…何でもないです」
心の声が聞こえてしまったのかと思い、
焦ってしまった。
「古本屋って」
「え」
「人、来ますか?僕、全然本を読まないんです」
「珍しいですね。マンガも?」
「マンガは、本当に好きなモノだけですね…」
「そうですか。うちの本屋は、子供や若い人
向けのも置いてあるから、神保町の古書専門の
お店よりは、幅広く来るんじゃないかな」
「神保町ですか?僕、たまに行きますよ」
「スポーツ用品でも、買いに行くんですか?」
「いえ。ライブに、出てるんです」
「ライブ?」
思わず、首をかしげた。
「はい。実は僕、売れてないですけど、
芸人なんです」
「へえ、意外だなあ」
僕はお笑いに疎かったが、
背は低いとはいえ
これだけいい顔をしているなら、
芸人じゃなくてもいいんじゃないのと
単純に思った。
「意外ですか?」
「はい。あなたくらいのルックスなら…
俳優さんでもやって行けるのかなって」
だから彼にそう訊かれた時、素直な気持ちを
口にした。
「嬉しい事を言ってくれるじゃないですか」
「はは」
彼は僕と違って笑顔を偽らず、
全開の笑顔をさらす人のようで。
こちらが恥ずかしくなるくらいの破壊力で、
相手の気持ちを惹き付ける。
「今週、ライブがあるんですけど、
良かったら見に来ませんか」
「いつですか?」
神保町なら仕事柄、顔馴染みが多い。
時間が合えば、行ってもいいかもと
その気になった。
「金曜日です。あと、渋谷でもやってます」
「へえ。結構頻繁にやってるんですか?」
「そうですね。月に2回くらいは」
「なるほど。とりあえず、金曜日は行けると
思います」
「ありがとうございます。後で、チケットを
お届けしますね」
そして彼は言葉通り、僕の店に顔を出し、
チケットを差し出した。
お金を払おうとお尻のポケットの財布に
手をかけたら、速攻で断られた。
「今回は、お近づきの印ですから」
その言葉遣いがおかしくて、
僕は思わず吹き出してしまった。
「え、何ですか?」
「いや、律儀だなあって思って。ありがとう」
そう言いながら、レジの横に貼ってある
カレンダーに赤丸をつけた。
「じゃあ、僕はこれで」
「あ、はい」
軽く手を振り、
店を後にする彼を見送ってから、
僕は大切な事に気がついた。
「名前、聞いてなかった…まあ、いいか」
いつもなら面倒くさいと思う、
他人とのやりとりのはずだったが。
彼の人柄の良さに触れて、心が弾んでいた。
まさか自分がお笑いライブに足を運ぶ事に
なるとは、思いもしなかった。
朝から何となく落ち着かず、
いつものように店を開けていたものの、
結局早々とバイトの子に店を任せて、
神保町へ向かった。
腕時計を確認すれば、
ライブの開場時刻まであと1時間半も
余裕があった。
自分らしくなく浮き足立っていることを
改めて感じながら、勝手知ったる神保町の
街を迷いなく歩き進める。
書店で小説を物色し、手早く3冊を選ぶと、
行きつけの喫茶店でコーヒーを飲みながら
読みふけった。
自分の店に入って来る本のラインナップでは
どうしても限界があるから、
週に1度はこうして本をむさぼるように
読む時間を必要としているのだ。
開場時刻が迫り劇場へ向かうと、
劇場の入口には予想以上に人が溢れていた。
自分も並んでおくかと数歩足を進めた時、
気がついた。
行列の大多数を若い女性が占めていた。
お笑いライブの客層のことまで
考えていなかったが、
自分は場違いではないのだろうかと、
途端に不安になった。
遠慮がちに女性の後ろに並んだが、
こんなに心細いと思ったのは初めてだった。
整理番号順に好きな席に座るというのも、
初めてで。
どの辺りに座れば
彼に気づいてもらえるのかも判らず、
前から5列目のセンターの席に
荷物を置いた僕は、息を吐きながら
緊張を解そうとしていた。
開演時刻まで、あと15分。
入口で配られたチラシの束をぺらぺらと
めくり、何とか今日のライブのスケジュールを
確認する。
『9月定例公演』と銘打ったライブには
数組の芸人が出演するようだったが、
印刷の顔写真が不鮮明過ぎて、
彼が何という名前で出演するのか
さっぱり判らない。
本当に彼は出るのだろうかと、
ますます不安になったその時。
隣に座っていた女性が手にしていた
携帯の待ち受け画面に、目が留まった。
それは、軽く手を上げて微笑んでいる
彼の姿で。
「あ」
声を出してしまった僕に気づいた女性が、
怪訝そうな顔をして口を開く。
「何ですか」
「知り合いが待ち受けだったので、つい」
僕がそう答えた次の瞬間、女性の表情が
一変した。
「岸野さんと、知り合いなんですか?」
「今日は彼にチケットをもらいました」
「羨ましい、普段の彼はどんな感じですか?」
キラキラとした瞳で女性に見つめられ、
僕はおどおどと答えた。
「飾らなくて、爽やかな人ですよ…
優しいですしね」
まさか僕がたった今まで彼の名前を
知らなかったなんて、
口が裂けても言えないと思った。
女性に羨望の眼差しを向けられているのを
知りつつ、目を逸らした。
それと同時に、
ライブ開始を知らせるブザーが鳴り響いた。
売れない芸人だなんて、嘘に決まっている。
予想を遥かに超えた面白さに、
時間は矢のように流れ去っていた。
MCとして颯爽と登場した彼が、
共演する芸人と絶妙なトークを繰り広げながら
舞台狭しと駆け回り、客席とあうんの呼吸を
作って行くのを目の当たりにして、
感動を覚えた。
お客さんとの交流をするコーナーと称して、
ジャンケンで勝った人に芸人が私物を
プレゼントするというありがちな内容は、
彼の手にかかれば特別なイベントに化けた。
日頃滅多に笑う事のない僕が、
いつの間にか周りの人と同じように
大声で笑い、ライブが終わる頃には
着ていたシャツはかいた汗でうっすら
湿っていた。
なかなか興奮が冷めずにいた僕は、
見知らぬ芸人の私物をどう処理しようかと
空いている手で弄びながら、
劇場のロビーで彼あてのメッセージを書いた。
『岸野くんへ。ライブ、お疲れ様でした。
誘ってもらえて、本当に良かった。
すごく楽しかったです。
ありがとうございました。
古本屋の店長・川瀬より』
ファンレターなんて初めて書いたが、
びっくりされないだろうか。
ほんの数日前までは全く関わりのなかった
彼に突然惹かれてしまった自分に
驚きを隠せず、劇場を出てからも何度も
息を吐きながら歩いた。
気温の高さから来るものではない、
身体の熱さを感じていた。
神保町から電車に乗らないで、
次の駅の九段下まで歩いて乗ろう。
そう思った時だった。
「川瀬、さん」
振り向くと、
僕を熱くさせている張本人が微笑んでいた。
「え。どうして」
赤面する僕をよそに、
彼は僕のすぐ横に立った。
「メッセージだけじゃ、物足りなくて。
追いかけてきちゃいました。
ライブ、楽しんでもらえたんですね。
良かった」
距離が近づき動揺する僕の耳元で、
彼はあどけない笑顔を保ったまま囁いた。
「僕たちの出会いは、本当に偶然だと
思いますか?」
僕は言葉を失った。
下北沢駅の改札口を抜けたら、
彼とは別れるはずだった。
駅を挟んで真逆の方向に
お互いのアパートがあることを、
帰りの電車で交わした会話で判ったから。
でも僕は、
彼のさっきの言葉が気になっていたし、
彼もまだ帰りたくなさそうだった。
だから彼を駅近くのコンビニに誘い、
食べたくもないプリンを手に取ったり、
冷蔵ケースに並べられている新商品の
ジュースを眺めたりした。
「…僕の家で、少し話しますか」
コンビニを出て、
あてもなく歩き始めようとした彼に、
僕はそう切り出した。
「はい」
彼は安堵の表情をさらして、
素直に僕の後をついてきた。
アパートに着き部屋のドアを開けると、
彼を中へ引き入れた。
「お邪魔します」
そう言って、彼は笑顔で靴を脱ぐ。
背中を向け、
靴を揃えるためにしゃがみこんだ彼に
一瞬目をやり、先に部屋に入ろうと
踵を返したその時。
聞こえるか聞こえないかの声で、彼が呟いた。
「川瀬さん家に、入っちゃった」
「え?」
振り返ると、立ち上がってこちらに
身体を向けた彼と目が合った。
「何ですか?」
全くの無意識に出た言葉なのか。
屈託のない彼の笑顔を目にして戸惑ったが、
さっきの言葉といいさすがの僕も
なあなあにする事ができず、
部屋の傍らにちょこんと座る彼の前に
ジンジャーエールの入ったグラスを
差し出しながら、核心に迫った。
「岸野くんは、いつから僕を知ってたん
ですか?」
「え」
いつものパターンを覆し、
ぎこちなく微笑む彼の言葉を待ちながら、
僕は黙ってグラスの氷をそっと揺らす。
「実は、川瀬さんに初めて会ったのは、
1ヶ月前です」
「どこで、ですか?」
「さっき行った、コンビニです…
雑誌を立ち読みしてたら、川瀬さんが来て。
あ、何か見たことがあるなあと思って、
それからコンビニを出て、
川瀬さんが古本屋に入って行ったんで、
僕も入ったんです。
少し経ってからエプロンをつけた川瀬さんが
レジに座るのを見て、
このお店で働いてるんだって、
それから…バイト先の子とかに
川瀬さんの事をちょこちょこ聞いて。
でも誤解しないでください、
後をつけたのは決してストーカーをしようと
思った訳じゃなくて。
そもそも後をつけるなんて、
今までした事はないです。
芸人ですから、犯罪はしません」
「はい…それは何と言うか…
僕みたいな何の取り柄もない男を、
あなたみたいな人気者が
気にかけてくれるのは、
とても嬉しいんですけど…」
「僕は川瀬さんの迷惑になるような事は、
絶対にしません。それは信じてください」
彼の必死過ぎる物言いに、
僕は何となく察する事があった。
「あの…岸野くんて、もしかして、
僕の事、その…そういう目で見てます?」
瞬間、彼の目が大きく見開く。
「違いますよね、ごめんなさい。
単なる友情としての好意ですよね」
ぎこちなく微笑むと、
彼はそっと首を横に振った。
「物心ついてから女性が大好きで、
恋愛対象は女性以外ありえないと
思ってました。
人並みにおつきあいしてきましたし、
芸人になってからもそれなりに遊びました。
でも川瀬さんに会って、
今までの価値観は吹き飛びました。
僕にはない世界を持ってるから憧れてる
だけなんだって言い聞かせましたけど、
自転車を片付けてる川瀬さんに
勇気を出して近づいてみたら…、
あ、やっぱり好きだなあって思ったんです」
「…そうですか」
「気持ち悪いですよね。すみません、本当に」
「そんなこと、ないですよ」
堂々とは言えない秘密を口にした彼を、
僕は何の抵抗もなく受け入れようとしていた。
見つめながら、そっと彼の手を取った。
僕を気遣うあまり、
自分の気持ちを取り繕う彼が、
泣いてしまわないように。
驚きのあまり震え始めた彼の指を、
自分の指に絡ませながら、大丈夫と囁いた。
「そういう事は、きっと誰にでもあります」
「誰にでも…?そんな、まさか」
「いえ。僕だって、今夜のライブを見て、
岸野くんを好きになりましたし」
「川瀬さんの言う『好き』は、
僕の言う『好き』とは」
「よく判らなくなりました…
少なくとも、岸野くんが僕を好きでいて
くれてるという事が、とても嬉しいんです」
「川瀬さん…」
「だから、自分を責めないでください。
僕も同罪ですから」
「同罪?」
首をかしげた彼に、僕はうなずいて答えた。
「相手に想いを告げられたのをきっかけに、
自分の想いに気づく事だってあるという
ことです」
瞼を開いたら、至近距離に彼の顔があって。
何が起こっているのか理解できず、
飛び起きた。
机。デジタル時計。カーテン。本棚。
見慣れたそれらを目にして、
やっと自分の部屋だと気づく。
もう一度傍らの彼を見下ろせば、
僕の焦りに気づく事なく、
静かに寝息を立てている。
僕より年上の、童顔の恋人。
あどけない寝顔が愛しくて
そっと彼の髪を撫でたら、
無我夢中で彼の髪に指を絡ませたことが
鮮明に甦ってきた。
もう僕は、昨日までの僕じゃない。
最愛の恋人を得た事で、
身体全体に自信がみなぎり始めていた。
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