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翻弄
どんなに用心深く過ごしていても、
突然堕ちるのが恋。
先に相手を好きになった方が切ないと
言うけど、
深く相手を好きになった方が切ないと
言った方が正しい。
狭い部屋に、熱気が籠っていく。
吐息と汗が絡み合い、
情熱が本能を露わにしていく時間。
一度堪能すれば、貪欲に求め合い続ける
ことになるのは判っていた。
何度愛を重ねたか判らないくらい、
夜を過ごした。
「ねえ」
「ん?」
僕の胸に指を這わせながら、彼が囁いた。
「こうなったこと、後悔してない?」
「まさか。どうして、そんな事を訊くの?」
そう言って微笑んだが、
彼の表情は堅いままだった。
「どうしたの」
腕を伸ばし、彼の身体を抱きしめる。
纏わりつく汗。
彼の濡れた髪を撫でながら、言葉を続けた。
「岸野くんこそ、後悔してるの?」
「してない」
「じゃあ、心配しなくて大丈夫だよね。
僕は誰とでもこういう事をするつもりは
ないし」
「・・・川瀬さんを好きになり過ぎて
しまいそうで、怖いんだ」
「え」
涙目で僕を見つめる彼を目の当たりにして、
戸惑った。
「いつも、僕が求めて・・・
川瀬さんはそれを受け入れてくれて・・・
僕ばっかりどんどん溺れてる」
「岸野くん・・・ごめん」
頬に流れる涙を指でぬぐってやりながら、
触れるくらいのキスをした。
「君を好きでたまらないっていつも思ってる
んだけど・・・伝わってなかった?」
そう言いながら、彼の身体を抱きはしても
心まで抱いてあげていたか?
求められるまま繋がっていたかも
知れないと思った。
「そんな事ないけど・・・たまには、
求めて欲しい」
そう言って身体を丸め、
彼は僕にすがりついた。
僕は、贅沢なまでの幸せを感じながら、
震えそうになる手で彼の背中を撫でた。
どうしてこんなに想ってくれるのだろう。
何の取り柄もない僕を、この魅力的な恋人が。
見つめ合い、何度も唇を重ねても。
身体の隅々まで触れ合い、ひとつになっても。
現実味を帯びない時間、
突然彼が消えてしまってもおかしくない感覚を
抱いていた。
僕に溺れてしまうのが怖いと彼が言うなら、
僕は彼がいなくなってしまう事が怖かった。
だからいつも踏み込み過ぎず、
どこかで用心していた。
裸になっても、
彼の前で100%自分をさらけ出すことは
できないと思っていた。
今思えば、
あの夜が彼と僕の恋のピークだった。
月2回のライブ、先輩芸人のライブの裏方の
仕事以外はバイト生活という彼と、
週1日しか休みがないとはいえ、
安定した収入がある僕。
仕事が終わればどちらからともなく
連絡を取り、必ずどちらかの家で食事を摂る
生活そのものは、とても充実していたもの
だったけど。
ずっとこのまま一緒にいられると
思えなかったのは、自分の力が及ばない
ところで何かが動き出していることを
無意識に察知していたからなのかも
知れなかった。
僕と付き合い始める前から、
彼はある大きな賞の予選に出ていた。
順調に勝ち進めば、
秋頃に決勝がテレビで放送されるという話も
聞いていた。
「次に選ばれれば、決勝8組に入れるんだ」
いつものように夕食を摂りながら
満面の笑みでそう話す彼に、
僕は複雑な気持ちを抱いていた。
劇場では既にある程度の知名度があって、
恋人の僕が言うのも何だけど、
華のあるルックス。
そこで名を残すことができさえすれば、
映画にも出たことがあるらしいし、
きっと仕事量は確実に増える。
今まで彼のような人が売れてなかったのが
信じられないくらいなんだから、
応援すべきなんだと思う。
夢を描けずに何となく生きている僕と、
夢が叶うことを信じて頑張る彼。
一度出会った2人に、
今後も一緒に過ごせる保証があれば、
きっと僕も笑っていられたはずだった。
でも僕にとって彼の目指す世界は、
普通の感覚では過ごせないあまりにも
かけ離れたもので。
もし彼がその世界に足を踏み入れたら、
きっとこちらには帰って来ることは
できないと思った。
彼とは両想いのはずなのに、
いつの間にか余裕をなくして
彼にしがみつきそうな自分に戸惑い、
何かきっかけがあれば爆発してしまいそうな
予感さえ抱いていた。
仕事が終わってすぐに、
いつものように携帯から彼にメールを
したある日の夜。
メールで返事をくれる彼が、
珍しく電話をかけてきた。
「決勝に残ったよ!今、連絡があった」
「おめでとう。これから、お祝いしよう」
弾んだ彼の声に乗っかるように、
僕がそう言うと。
彼は声のトーンを落として、
ごめん・・・と謝ってきた。
「これから、先輩と壮行会なんだ。
また明日連絡するね」
電話の向こうで、賑やかな笑い声が響く。
律儀で上下関係を重んじる彼の事だから、
きっと他意はない。
でもその時の僕は、
あまりにもナイーブ過ぎた。
「ねえ」
「ん?何」
「僕のこと、もう嫌いになった?」
「どうしたの、突然」
呆れた声を出した彼に、更に追いうちを
かけるような言葉をぶつけた。
「勝手に好きにさせておいて、
邪魔になったら冷たくする人なの」
「・・・ちょっと、大丈夫?」
感情の赴くままに電話を切った僕は、
再び鳴り始めた電話を取る事もなく
歩き始めていた。
彼は放っておいても誰かが構ってくれる
ような人だけど、僕はそうじゃない。
彼が離れて行くという事は、
また独りになるっていう事だ。
独りに戻って、孤独に陥るのはごめんだった。
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