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最後のキス
「あのね。岸野くん」
彼にシャワーを浴びさせ、
濡れた髪をタオルで拭いてやりながら、
僕はこう切り出した。
「事務所が言ってきたことは、少し過剰な
気もするけど。
上手に利用させてもらうのもアリだと思う」
「・・・?」
「君は、人を信じ過ぎる。
これをきっかけに、今までの人間関係の
整理も必要なのかも知れないよ」
「え」
「それにこれから芸能界で活躍したいなら、
あまり他人に弱みを見せるのも良くない」
「言ってる、意味が判らないんだけど」
「皆が皆、君のブレイクを歓迎する訳
じゃないっていうことだよ」
「そんな・・・」
彼が乗り越えなきゃならない、
根本的な問題。
夢を叶えるためには、どこまで貪欲に
行動を起こしていけるかだけではなく。
どこまでその夢に純粋な気持ちを
傾けられるかも、必要だと思う。
とはいえ、彼が踏み入れようとしている
世界は嘘偽りがはびこり、
白を黒と言わなきゃならないような
理不尽な事が日常よりも多いだろう。
そんなところで、
果たして他人を信じやすくて純粋な彼が
活躍できるのだろうか。
恋人である彼がというよりも、
才能のある若者が業界の歪んだ常識に
戸惑い潰れていくのを見るのは、
絶対に嫌だった。
不安に沈む彼をそっと抱きしめ、
僕は葛藤していた。
もし僕がこの腕を緩めることなく、
彼を抱きしめて離さなければ
どうなるんだろう。
「君は芸能界を渡り歩ける程の才能はない」
と言ったら、彼は夢を諦めてくれるのか。
彼がこのチャンスを掴むことを選ぶとき、
それは僕との恋を手放すことを意味するが、
想像するだけで自分が保てなくなるのでは
という不安に駆られてしまう。
僕はいつからこんなに、
彼に執着の気持ちを抱いていたのだろう。
「岸野くん」
彼を抱きしめる腕の力を強めて、囁いた。
顔を上げた彼に自分の顔を寄せると、
僕は彼の上唇を一瞬だけ噛んだ。
「ずっと、そばにいてくれる?」
何が起きたか判らないという表情で
僕を見た彼に、もう一度訊いた。
「君がいないと、僕は生きていけないんだ。
そばにいてって言ったら、そうしてくれる?」
「川瀬さん・・・?」
僕の心を読み切れない彼が、
戸惑いの表情を浮かべていくのを見ながら、
彼のシャツのボタンを外していく。
「岸野くん、好きだ」
彼の唇の感触を確かめながら、
2人を取り巻く状況とは裏腹な時間を
作り始めた。
最早どう転んでも、
破綻するのは避けられないと思った。
こんな感情を教えられて、
忘れろっていう方が無理だ。
彼と本能のままに繋がり
愛を囁き合ったことが、
ひたすら自分を苦しめていた。
あれから何度、彼を抱いたのだろう。
カーテンの隙間から洩れる光で
目が覚めた僕は、
傍らにいるはずの彼がいなくなっている
ことに気づき、くしゃくしゃになって
足元に投げ出されたままのタオルケットに
手を伸ばした。
ぼんやりする意識のまま
それをゆっくり畳み、ひとつため息をつく。
本という架空の世界に長年浸り、
リアルな人間関係を築くのが苦手な僕に
とって、恋愛は憧れだった。
ドキドキして、心地よくて、楽しくて、
ホッとするものばかりじゃないとは
解っていたが、
大切で愛しくて切なさを抱かせてくれる
存在の尊さを感じたかった。
突然何の前触れもなく始まり、
嵐のように自分の身体を駆け抜けていった。
あまりにも突然過ぎて、心の準備も
できなかった。
始まる時も、終わる時も。
頬に違和感を抱き、指先で触れてみる。
頬は、涙で濡れていた。
ぼやけ始める視界をそのままに、
ゆるゆると立ちあがる。
カーテンを開ければ、
いつもの景色がそこに広がっていた。
2階の窓から見えるすぐ下の道路には、
駅に向かうスーツ姿のOLやサラリーマン。
ゴミを出す主婦。列をなす小学生。
軽自動車。
みんな急ぎ足で僕の目の前から、
外れて行く。
僕はここにいるというのに、
誰も僕を見上げることなく、急ぎ足で。
「本当に、独りなんやな」
ぎこちなく笑いながら、思わず呟くと。
ずっとそれに慣れていたと思っていたのに、
驚くくらいの絶望感が胸に広がった。
彼と出会ったのは、奇跡だった。
地道に頑張っていた自分への、
ちょっとしたご褒美と言い換えてもいい。
だから、長くは続かない。
覚悟して、彼との恋を楽しんでいたはずだ。
そんな言葉で自分を奮い立たせたが、
涙があふれて止まらなかった。
好きになり過ぎるのが怖かったのは、僕だ。
自分の心を守って、彼からの愛情を欲して
ばかりだった。
彼がいなくなってから後悔するなんて、
愚かなことだ。
しかしもう一度彼に会えるのなら、
迷いは捨てて愛し抜きたいと思った。
「岸野くん・・・」
カーテンにもたれかかり、
身体を小さく折りたたんだまま
泣き崩れた僕は、数時間前まで恋人だった
彼の名前を呼び続けた。
何の取り柄もない僕の前に、
突然現れた彼は。
この日を境に、僕の前から姿を消した。
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