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手紙
彼がいなくなった下北沢の街は、
色がなくなった抜け殻のように見えた。
仕事が終わると必ず食材を買いにスーパーへ
行っていたのに、
ここ数日何も買いに行くこともなく
彼の働いていたカラオケボックスに立ち寄り
スタッフの子たちと話してくることが
増えてしまった。
迷惑がられているかも知れないが、
誰かと話して気持ちを紛らわせたい気持ちが
先に立っていた。
「川瀬さん」
いつものように待合スペースの椅子に座って
手の空いた子たちと話していると、
日頃あまり見ない子が僕に声をかけてきた。
「あの。いいですか?」
僕を手招きし、カウンターまで呼び寄せると、
1通の封筒を差し出した。
「え」
「これ・・・岸野くんから、預かってました」
彼の名前を耳にし震える手で受け取ると、
白い封筒の真ん中に彼特有の角ばった字で
「川瀬由貴様」とあった。
「すみません。実はもう5日も前から、
持ってました。シフトで・・・
やっと出勤したので」
「そうですか」
最後に彼と会ったのが、1週間前。
それから彼はここに寄り、この子に手紙を
託したのか。
「ありがとう」
お礼を言い、店を出た僕は
アパートに向かって走り出していた。
靴を乱暴に脱ぎ捨て部屋に入った僕は、
丁寧に封がされた手紙を開けるため
ハサミを探し始めた。
こんな時に限って、
机の引き出しに入れているはずのハサミが
見つからない。
焦るあまり、鞄を下ろす事も忘れていた。
息をつき鞄を下ろしてから、
もう一度机の引き出しを探ると、
あっさりハサミは見つかった。
中の手紙を切らないように、
慎重に封筒を切っていく。
手紙を開くと文字が細かく並んでいたので、
あまり文章を書くのは好きじゃないと
言っていたのにと驚いた。
『川瀬由貴様
この手紙を読む頃には、
僕はあなたの側にいないと思います。
決してあなたの事が嫌いになって
部屋を出た訳ではありません。
でも僕が番組で決勝に選ばれた頃から、
あなたはすごく精神的に不安定になっていて、僕がきっかけだと解っていながら、
何もしてあげられないことがとても辛かった。
あなたがあの夜、僕を初めて求めてくれた
ことはすごく嬉しかったです。
でも。
これからどこまで続くか判りませんが、
僕は以前より忙しくなっていくと思います。
あなたが泣いている時に飛んでいって、
抱きしめてあげることはできないかも
知れません。
思うように行動できない僕があなたを
繋ぎとめたら、
あなたが壊れてしまうんじゃないかと
思うのです。
守ってあげられなくて、ごめんなさい。
いろいろなことを分かち合いたかったし、
これからもずっと大好きだけど、
僕が自分の生活を自分の力でできるように
なるまでは、あなたを迎えに行く事は
できないと思います。
僕にとってのあなたは、誰よりも
特別な人です。
いつか僕があなたを迎えに行けるときの
ために、あなたの連絡先は携帯に
残したままにします。
身体に気をつけて。
僕はいつでも、
あなたが元気で暮らせることを
祈っています。
岸野葵』
何度も読み返し、その度に涙を流した。
長年本を読み漁ってきた経緯から、
どんな読み物でも行間が読めると
自負していた。
しかし、今回ばかりは行間が読めなければ
良かったと思った。
もう二度と会えない-。
どんなにポジティブに捉えようと思っても、
無理だった。
泣きながら、僕はポケットの携帯電話を
取り出した。
アドレス帳を開き、
スクロールして該当の名前で手を止めた。
消すのが怖くて消せなかった、彼の名前。
こんな辛い思いを引きずるくらいなら、
記憶ごと跡形もなく消してしまいたい。
僕は親指に力を込め、
アドレス帳のメモリ消去ボタンを押した。
もう絶対に、彼の事なんて思い出さないと
いう決意のもとに。
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